十二話 たとえ水をあげなくても、その花は

少女は星にならない挿絵 少女は星にならない

白糸台高校は私立であり、また所謂《《いいところ》》の子女が多く通う学校としてそれなりに有名だ。
とはいえ、昔はいざ知らず現在には親に所以した派閥や垣根などは殆どなく、強いて言うならば少しお硬い雰囲気がある程度の普通の高校だ。
ただ、東京にあって広々と贅沢な土地の使い方をしているためかこと運動に関連して特に成績の良い部があり、昨年などはハンドボール部がインターハイでベスト4入りを果たすなどして、話題になっている。
陸上部でも、一昨年には個人で強い者がやり投げにおいて国体という舞台にて大会記録に近い投擲を見せたこともあり、彼女が引退した後もその影響は続いているだろう。遠く聞こえる掛け声からも雰囲気が良いことが伝わってくるようだった。

「ふふ」

校庭から離れて校舎の中。わあ、だのいけ、だの意気しか良くわからない遠くの歳近い者たちの切磋琢磨の音色。それらに、青春の衝動の快さを覚えた弘世菫は、微笑みを溢す。
それどころか三年生ともなり多少反省の残っている菫は、彼彼女らも部活動に打ち込みすぎて勉学の成績があまり落ち込まないといいが、と余計に思いもした。
それはそれは、彼女は笑みと同じく優しい女性。菫はこれまで人に良くしてもらったからこそ、人に親切にしたいと思うようになった正統派の善人だ。

まあ、そんな親切な人である少女も、闘争心に欠けるようなところは別段ない。
むしろ、菫という少女はその夢の熱量を持て余しながら燻りを続け、この頃ようやく火炎となって輝き出したばかりなのだった。

「んぅ……終わったな。さて、どうするか……」

放課後。居残り、ではなくただの不明点をさらうだけの勉強に少し時間をかけてしまい、独りになってしまった菫は伸びをしながら考える。
頭に触れ、上等な輝きを瞬きにさせる黒曜の流れをひと撫でしてから、彼女の白磁の指先は手帳をさらう。
真っ先に開いたページは、開きすぎて癖にすらなった先週の予定。そこには、土日にかけて西東京都予選という文言が記されており、またそこに勢いよく花丸が描かれているのが特徴的だった。
まるで夢から醒めたかのように、改めて菫は万感の思いを篭めてこう呟く。

「なんとか……勝ち取ったんだ」

白糸台では運動系部活動が人気だ。
実際、勝てず咲かずの一時期には菫も得意の弓の腕前を活かしてアーチェリーでもはじめようかと本気で思ったことがあるくらいに、それらの熱気には惹かれるところがあった。
しかし、それでも強豪白糸台麻雀部員として努めた結果、副部長として全国大会出場の切符を手にした今がある。
臥薪嘗胆。一年の頃には西東京で団体四位だった部の成績も、同学年で唯一代表に選ばれた二年生の際には二回戦負けとなってしまい、涙した。
それでも腐らず、ひたむきに癖に頼らない真っ直ぐな麻雀を続け、結果大将として三千点分だけ他校に競り勝った。

「あいにく今日は、部活は休みだが……」

あの日の興奮、喜びが思い返すだけで、震えるほどに嬉しい。
不仲もあったが頼りにしてもいた先輩達に託されて、その結果友に後輩と共に勝ち星を得られたそのことは、これからの一生もう一度やり直したいなんてきっと思えないだろう程に誇りだ。
つい、指先は牌の冷たさにあの滑らかな心地を欲しがってしまうが、久しぶりの文系部活の全国出場ということで広報など予想外のイベントが増えたために、急遽として練習日だった今日は休み。
家や雀荘にて牌の手に慣れた良さを再確認するのは簡単だが、しかし真面目な菫は休みならば努めてきた麻雀から離れなければとも考える。
そして、しばらく指先を頬に置いて校内随一の高嶺の花はしばらく思慮を重ね、その結果として。

「照に、礼を言いに行くか」

そういうことに、したようである。

 

弘世菫と宮永照は、友達だ。それは、彼女らがクラスメイトとして交流する内に仲を一定以上に深めたため、何時の日からか互いの関係をそうだと認識しあっているから。
彼女らはくっつけた席、隣り合った中目を合わすことなく教科書の捲れる音を聞きながら、多く言葉を交わしたものである。

女子高生。それはただ高校の門をくぐって部活動をするだけの存在ではない。そう、学生であるからには、勉強をする必要がある。
理系に重きを置いて勉強している菫と才を伸ばす形で読書を部でも行って文系を得意としている照は、勉学に置いて相性が良かった。
どちらも成績が良い方であるから同級に頼りにされることこそ多かったが、反して頼りになる相方というものを不足させていたのも間違いない。
故に、菫と照は相手の領分であるだろう、自らの分からぬところを尋ね合う仲だった。それこそ、一年、二年とずっと。

「失礼する」

だが、惰性でない人間関係において、変化なんていうのはつきもの。
ここのところ、《《本当の意味》》で頼りになることを示された覚えのある菫は、ただ隣り合うだけでは嫌だとでも言うように照の居るだろう所属三人きりの文芸部の扉を開いた。
菫はなんとなく見知った間柄の《《どちらか》》との対面を期待していたのだが、ぎいという建付けの悪い音とストレートな声色にこちらを振り向いたのは見知らぬ一人。
なんとも気の抜けた表情をしていた金の少女は、真っ直ぐ咲く華を見つめて大きく口を開いた。

「あ、お客さんだー! えっと、先輩? ひょっとしてテルーのお客さん?」
「ん? ああ、その通りだが、君は?」
「私は大星淡っていうの! 遠慮なく淡ちゃんって呼んでくれてもいいよー」
「そうか、大星。私は弘世菫。好きに呼んでもらって構わない。それで照は今どこに?」
「がーん。この人も呼んでくれない……えーと、それならねー……えーっと」

本が整頓され過ぎていてもはや窮屈そうな部屋にて地球儀のようなものを遊ばせる、淡という少女とこうして菫は知り合う。
礼儀など求めるものではないとする鷹揚さを持っている実は高位の少女から見て、表情豊かな大星淡とは聞いた通りに愉快な少女だという第一印象。
なるほど、こんな子が居るならこの本の墓場のような部屋でも寂しくはないかと菫は考える。
しばらく淡は何やら問いに悩んで、そうして手を漫画のようにぽんと叩いてこう答えるのだった。

「そうだ、テルー、今須賀と一緒に図書室で本を借りて来てるんだった! 私はお留守番!」
「そうか……どうしようかな」
「あ、ちょっと時間掛かっちゃってるけど、多分もう少しで戻って来ると思うから、菫先輩もここで待ってれば?」

入れ違いになったら面倒じゃない、と続けながら元気いっぱいの後輩は椅子を転がしてくる。

「ふふ、分かった。しばらく失礼するよ」
「やった! 暇つぶしゲット!」
「はは……君も失礼だなあ」

もし面倒を見るなら大変そうだが、ただこうして眺めるだけならこの子も愛らしいばかり。おどける少女に微笑んで、提案を受け入れるのだった。
黒の対象は金なのか。室内でもキラキラと光りを空に散らしながら手を広げ、まるでここが自分の部屋のように振る舞いながら、淡は菫に言う。

「本ならよりどりみどり、いっぱいあるから好きにどうぞー! 私は本読むと眠くなっちゃうから、ケッコウだけれどねー」
「いや……それは、文芸部員としては致命的じゃないか? まさか、数合わせの部員というわけでもあるまいし……」
「それには、涙あり、笑いありの衝撃の事実があってねー……えっと、簡単に言うと本当は創部したかったけど、ダメだったから文芸部に転がり込んじゃっただけ?」
「……どうして最後が疑問形なのかは解らないが、変わった入部の仕方もあるものだな。……ちなみにキミは本来ならば、どんな部活を創設したかったんだ?」
「天文部! 私、お星さまを数えたり、宇宙について調べるのをしたかったんだけど……」
「だけど?」
「今も出来ちゃってるから、もういいかも。須賀はまだ諦めてないみたいなんだけれどねー」
「……そうか。ふっ」

爛漫乙女と話を続けて、しばし。どうしてか諦めていないという下りでつまらなそうにふわふわの髪を弄りだした淡を他所に、菫は少し考える。
宇宙。そんなものに幼い頃の京太郎は夢を見ていた覚えがあった。もしかしたら、未だにそうなのか。そのことを、嬉しく思わないことはない。
それは、良いところのお嬢様とお坊ちゃまが社交場で出会った際の記憶。優しげな磨かれていない少年が放つ輝きに満ちた夢を聞き、菫が胸高鳴らせた、そんな思い出。
輝く鳶色の瞳に著しく目を惹かれた。或いは、あれは初恋だったのかもなと、二度目の恋を待つばかりの少女は苦笑する。
そして、須賀という名前を聞いて質問をしないのかと疑問を持った淡は首を傾げながら、問った。

「ねえ、菫先輩。ひょっとして須賀のこと、知ってたりする?」
「ん? ああ、まあ隠していた訳でもないが、彼と私は知り合いではあるな。それこそ、語るなら幼い頃の話になってしまうが……っと」
「おーい、淡、開けてくれ! 部長も俺も手が塞がってて扉開けられないんだ」
「あ、はーい! 今行くねー!」

どんと、何かぶつかった音と共に、ドアの向こうからかけられた声。その低さをなんだか菫が不思議に思っていると、疾く淡が動いてドアノブを引く。

「戻ったぞー……ってお客さんか」
「あ、菫?」

そして、開いた戸から顔を出したのは、照と京太郎。
二人は確かに手に本を無理に重ねて持っていて、斜めに見なければ最早表情すら伺えないくらいだった。
取り敢えず、と扉の側に本を置いた彼ら。ただ手を挙げて歓迎している様子の照の隣で京太郎は首を捻り、問った。

「スミレって……ひょっとして、貴女、弘世家の……」
「ああ、弘世菫だ。須賀京太郎」
「ああ、お久しぶりです! 白糸台に通ってるとは知りませんでした!」
「言ってなかったから、な」
「あはは……お元気そうで良かったです」
「そうか、京太郎は……」

胸は、一つ期待に高く鳴る。あえて言わなかったのは、気恥ずかしさが勝ったから。
再会の喜び、そして親愛に目を細める菫。
しばらく彼女はあの日の面影がある背高の青年の瞳を優しく見つめて。

「……うん」

少女は過去を見失う。ああ、あの輝く星はどこに消えてしまったのか。

「変わった、な」

誰かのためによくなってしまったのだろう青年を前に、菫は初恋の終わりを静かに知るのだった。

 

挨拶とごたごたのを終え後輩二人、気を利かせて先に帰った後。
二人きりの部室にて、向き合う照と菫。あまりないことに、こうして真っ直ぐ目を覗きあうことに違和感すら覚える。
座りの悪さを覚える菫。それを観て先に、照が口火を切った。

「菫は、どうして文芸部室に?」
「ああ、今日は麻雀部が休みだったんだ。それで、一つ照には礼を言わなければならないことに気づいてな」
「あ……そうだ。改めて、麻雀部、全国大会出場おめでとう」
「ありがとう。そういえば、照の口からは祝福を聞いてなかったな」

意外で今更な褒め言葉に、菫は瞳を瞬かせる。
ただの友達という関係上、真っ先とはいかないだろうが、それでも早く聞けると思っていたのに、なぜ今。
そんな疑問を覚える彼女に、少し暗ったく照は告げた。

「それは……信じていたから」
「そう、か……」

信じていたという一言。それだけで救われる心は確かにある。
麻雀部前年の不振。それに今年も倣うようになってしまうのではとよく囁かれていたことを菫は知っている。
だが、この子は私達を信じてくれていて、そして。胸に手を当て、菫は照に思いを吐き出した。

「私はな。私が自らの雀風に悩んでいる時に照がそのままでも大丈夫と、断言してくれたことを宝にしている」
「そうなんだ……」
「ありがとう。私を変えないでくれて」
「菫……」

菫の告白。それに、むしろ照は苦しそうに表情を歪めた。
まるで、その一言が辛い矢じりであったかのように、受け取りに苦心する様子。
少しの間を不安に思った菫に、照は呟くように小さく言う。

「実は、私……貴女が変わったほうが楽に強くなれるって思っていたんだ」
「そう、なのか?」
「うん。でも……」

でも。そう、楽をして得意を活かすばかりが正解なのか照はその時悩んでいて、そして結果を望んでもいた。
そして、うってつけの相手が隣に居て。失礼かもしれないと思いながら、照は既に《《観えて》》いる相手の得意を無視して大丈夫とだけ口にしたのだ。

「私は菫に夢を見たんだ。楽ではない道を進んで貴女にはもっと良いものを掴んで欲しいって。だから……」

はじめて勝利を願った、不得手を矢にして挑む少女の挑戦。それが、その結果がここまで綺麗に実ってくれて。

「私こそ、ありがとう……」

そんなのが泣きたくなってしまうくらいに嬉しいとは知らなかった照は思わず、感謝とともに心の澱を瞳から流すのだった。


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