八話 それが一夜の夢ならば

少女は星にならない挿絵 少女は星にならない

好きという言葉がある。

それは、おとうさんおかあさん好き好きと騒ぐ私に、みだりに使ってはいけないと注意された思い出が強い、そんな文句だ。
そういうものは、もっと多くを知ってから使いなさい、と仏頂面を少し緩めながら父は語る。
好きというのは本当に大切なものへと向かう心に付けるもの、そうにこやかを柔和にして母は言っていた。

でも、なるほどならば、私は。

あの日、ありとあらゆるものが、好きだった。

燦々と痛いくらいに強い陽光の下、悲しみに負けず愛のために仙境までたどり着いてしまった幼子。
瞳交じらせ思わず共感してしまった痛みを慰めたくて、その土に汚れた手に触れた時に痛いくらいに感じた思い。

それが恋の萌芽であるとするならば、この心を生んでくれた世界のすべてが、私は大好きだった。

ああ、だから。

――――姫さま。

そんなに、嘆かないで。もう、泣き止んで。私のために、苦しまないで。

――――きょ――――くん。

これ以上彼を悲しませたくなんてないから、だから私は、さようならだって言えなかったのだ。

 

久遠の別れに幾ら、大岩を叩いたところで意味はなくて。
でも諦めきれずに、今も岩戸を指先でなぞったせいでついた土が、汚い。

「……ごめんなさい」

 

ああ、私は大切な私の恋を閉ざしてしまった、この世がキライだ。

 

霧島神境は、文字通り神との境ともいえる神秘の域であり、ただの人があるべき場所ではない。
当然、そんな処に当たり前のように生活している少女だって、普通の存在である筈もなかった。

人であって、人にあらず。
彼女は崇め祀られるべき神仙、その極み。ひとたび目を閉じれば、それこそ彼女は神様の|カラダ《器》と変わらず。
畢竟するに、神代小蒔という少女は、まるで《《かみさまのようなひと》》だった。

「すぅーすぅー」
「おっ、迎えに来たのに、姫様、今日も寝ていますねー」
「ふふ。本当ね」

しかし、そんな奇跡に近い女の子も、普通一般に紛れてしまえば、不明にもなる。
永水女子。一般とするには歴史も何もいささか立派過ぎる女子高校にて、小蒔はすやすや寝入っていた。
放課後の頃、大きく発達した胸元を机に載せて、可愛らしい二つおさげの頭を更に上に、まるで幼子のように少女は曖昧に耽っている。
そんな様を、六女仙――神代の分家の少女たち。それぞれが神仙の域に到達している――の年上二人、石戸霞に薄墨初美はにこやかに見守っていた。
大小のお姉さん達に見下され、遠い学生の騒々しい音色を耳にしながら、しかし小蒔は安らかなまま。
そんな幸せな寝顔を見て直ぐに起こすのも悪いな、と同級生達のように思った二人は近くの椅子をそれぞれ借りて、間近に座した。

「すぅ……」
「ふふ」

人界にて霧島神境のような静謐は望めない。けれども、そうであるからこその人の心地にゆらゆらと、小蒔は寝入っているようだった。
思わず微笑ましくなってくすりと笑ったのは、果たしてどちらか。
親戚のお姉さんたちは、笑顔を鏡写しのように向かい合わせてから、小さく喋りだした。

「勉強に運動に、こっちはお山と色々違って大変でしょうからねー。疲れてしまうのも当然でしょうか」
「そうね……そうでなくたって、小蒔ちゃんは頑張り屋だから」
「ですねー」

うんうん。緩みを好んで着こなし気にせず、健康的な小麦肌を露出させながら、その矮躯といっても良いだろう身のてっぺんを初美は上下させる。小ぶりのツインテールが、大いに揺れた。
そんな頷きを見て、正反対に白くぴっちりしている折り目正しさをおばけなおっぱいが台無しにしている美人さんな霞は微笑みを深める。
子供のような、同い年。そんな彼女の大好きに対しての同じ理解が嬉しくって。
慈母の笑みの隣で、初美は続けた。

「姫様ほどの高位だと、人の道理は小理屈でしかないですからねー。きっと、分かりにくくって仕方ないと思いますよ?」
「……私達だって浮世離れしているとは言われるけど、それに比べても小蒔ちゃんはとびっきりだものね」
「正直、こんなに人と神の境が見当たらない子、私は最初信じられなかったですよ」

普通なら、人と神をくっつけたらツギハギだらけになりそうなものですけれどねー、と言いながら初美は触れがたい無垢を見る。
一度彼女が寝入ってしまえば六女仙ですら近寄るのに難い。それどころか何時だって、この少女とは敵対する思いすらわかないのだった。
まあ、それも当然のことだろう。同等の大きさでなければ、争いは中々発生しないのだから。

「故に姫様は神たる器である……だからどこだって安心しちゃうのね……ちょっと違うけれど、天上天下唯我独尊、ってことかしら」
「まあ、どこでも眠れるなんて、危機感が全く無いか、或いはこの世に敵がないことを知っているかのどちらかですよねー」

二人、呆れとともにそんな言葉を零す。遠すぎる、愛すべき存在への畏怖を抑えながら。
思う。幼き頃に、小蒔と六女仙とで遊びで麻雀にて競っていた頃がもはや懐かしかった。きっと、もう何をしかけたところでどんな遊戯だろうとこの子には勝てないだろう。
そんな諦観は、しかし愛おしさから苦笑となって表れるのだった。

そうして、一番に少女に近かった筈の霞は、思わず言う。

「なんとか、したかったな」

でも、もう無理なのだ。

「むにゃ……――たろ、くん」

彼女の心は既に、閉ざされているから。

 

何時からだろう、少女が比べるまでもないとびきりになったのは。
昔はまだ、人だったろう。しかし、彼女が全てに対して敬語で突き放すように語りかけるようになってから、変わっていった。

もはや、神にその身を委ねることに迷いなんてない。やがて心の断崖は、格の差まで生み出した。姫たる小蒔はもはや神仙の域すら超えかけている。

『すやあ……』

だからこそ、彼にもう一度会ったときのためにと頑張り続ける反面、何もかもがどうでもいいと眠って眠って今を忘れたがった。

それが一夜の夢ならば、どれだけでよかっただろう。
しかし、あの奇跡の日々は、未だに確かにこの胸に宿って止まってくれやしない。

『むにゃ……ううん……ここは、どこ、でしょう?』

そして、そんな風だからこそ。
神の力すら届かない岩戸の先の運命を、夢うつつにて。

『貴女、は……』

ようやく彼女は掴んだのだった。

『京太郎、君?』
『姫様!』

伸ばし合う、手と手。想いが惹き合うのだから、それが繋がれるのは間違いない。
夢の中で、夢が叶う。それは、どれだけ素敵なことなのだろうと小蒔は思う。

先に、合わさる目と目。擦れ合う、心。

『っ』

だが、一瞬。彼にためらいが生まれ、そして。

 

「――だーめ」

ぶつん。

『え?』
「まったく。京太郎は私のものだよ? じゃあね」

金色一閃。夢は断たれたのだった。

 

曖昧から、確固たるものに。眠りから、次第に意識というものは現に帰っていく。
それが、どれだけ面白くないことか、自分以外には分からないだろうと小蒔は思う。

「ふぁ……おはようございます」

でも、起きる。そうでなければ、また夢が見れないから。
先の夢はどんなものだっただろうか。忘れてしまった。でも、こんな無聊なセカイなんかよりよほどいいものに違いない。
そもそも彼と共にある、そんな許されないことが許されるのは、夢中でしかない。それに、彼のないこの現し世はキライ。だから、またいつか一眠りするためにも頑張ろうと彼女は笑みを貼り付けようとして。

「あれ……」
「姫様……」
「……小蒔ちゃん」

出来なかった。
二人の視線をたどり、少女は自分の頬をなぞっていく雫を知る。

「私って、まだ泣けたのですね」

ただ一つ。神代小蒔はそれだけ零して黙すのだった。


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