十一話 だから少年はその広い器を水に浸す

少女は星にならない挿絵 少女は星にならない

須賀家は、大家である。それは金持ちであるというだけの理由ではない。
遡ることの出来るだけで千年を超えるその積み上げてきた歴史、国に波及した影響力の高さから多くからそう認知されている。
だが、関東の大震等によって経済的な力は随分と衰え、地盤を変え戦火から逃れるように籠もった長野にて機械事業に絞って励んでいたが昨今の情報電子化やらについて行けず龍門渕財閥に降るなど、ここのところ体を維持するのにも難儀する様子はあった。

「りゅーもんぶち?」
「ああ、そうだ。龍門渕、つまりこの家は須賀の家とは遠い親戚で……うん。確か京太郎と近い年の女の子が一人、居るはずだ」
「そうなんだ!」

それは、龍門渕が須賀グループを吸収合併するというショッキングなニュースが大々的に流れるいくらか前のこと。
幼い須賀京太郎は父の大きな手に引かれて龍門渕本家に訪れたことがある。
蓄えていたチクチクして気持ちよかった髭を剃っていつものより立派な仕立てのスーツを着込んでいる父。それに倣うように京太郎も子供らしくないくらい窮屈な衣装に身を包んでいた。

「ともだちになれるかな?」
「……今日直ぐには、難しいかもしれないね。でも、しばらくこの近くに宿を取る予定だから、その内にはきっと仲良くなれるさ」
「たのしみだなー」
「ふぅ……京太郎はそうだろうね。だが、僕は心配のほうが大きいかな」

だが、大恋愛して須賀家に迎えられた婿殿と違い、一人息子である京太郎に、緊張はあまりない。時に蝶ネクタイを縦に崩して遊ぼうとする彼は、近づくにつれ周囲に顔を出してきた贅を目にしてもずっと呑気だ。
まあ、それも仕方ないことだろうか。
立派な門の随分先にあった龍門渕本家は、その昔渋谷にあったものをそのまま移築した母方の実家である須賀本家よりも随分新しく若干大きめなそんな程度だ。
これまで、縁作りに訪れたことのある、方方の金持ちの家の中でも群を抜いているような様子もない。東京の弘世の館ではそのあまりの洒脱ぶりに面食らった覚えがあるが、しかしこの家はごてごてと権威的にし過ぎている在り来りだ。
そもそも、親が仕事をしている合間に案内されて遊ぶ場所に緊張をすること自体京太郎にはあまりなかった。

「それじゃあ、行ってくるね」
「いってらっしゃい!」

しかし、ぶんぶんと手を振り返す息子と分かれる父の心地は、実に冴えない。京太郎を預けた萩原という執事に目礼しながら、後の合併のために働かなくてはいけないことに彼は本当は溜息の一つでも吐きたかった。

「……おとうさん、だいじょうぶかな?」
「大丈夫ですよ、須賀様。龍門渕家が須賀様の父君に失礼を働くようなことはありません」

去りゆくがっしりとした大きな背中に、どこか何時もと違う頼りなさを覚えた京太郎は素直に呟く。それに年若い執事は笑顔で端的に答え、まるで名家の子らしくないお坊ちゃんを静かに見つめるのだった。

「ふーん……」

最近の癖で顎に手を当てる、少年。京太郎とて最近父が忙しそうだったということは察している。だが、それが何のためなのかは分からず、故に慮ってばかり返報に撫でられるだけで、少し不安だった。
実際、須賀の歴史と比べては新興もいいところの龍門渕と再び手を組むどころか傘下に入るということに関しては、大変家中で揉めたのである。
須賀グループから独立後、それこそ昭和の中頃から急成長を遂げた龍門渕。手広さばかり得意と蔑んですらいた相手に頭を下げるのはと、老人たちはごねた。
そんな彼らに現状と未来の赤信号を正しく知らせることで過去の栄光を忘れさせた京太郎の父は辣腕だったと言って良いだろう。
しかし、入り婿という立場の彼は長老らにならお前が全部取りまとめろとされてしまえば、それに従うしかない。
また極秘とされたが故に、縁戚家にて子を遊ばせに来たというカバーストーリーを構築すらして個人で仕事をする羽目にもなっていた。
きっと、これから海千山千の当主と会談を行うだろう京太郎の父が大丈夫かといえば、そうではないだろう。

「ま、いっか! ねえ、しつじさん。あそぼー」

だが、そんな大人の都合なんて、子供には分からない。
ただ、お父さんが居ない間は遊んでもらっていなさいと言われて都合のいいその文句を信じた京太郎は、ひとまずは隣の優しそうな執事の裾を引く。
その、なんとも普通の子供のような様子に逆に面食らった、執事――後にハギヨシと京太郎が呼び、長野で二番目に仲の良い友となる彼――は少し悩んだ様子を見せる。
そして、執事は視線を男子に合わせてから微笑んで、彼は提案した。

「そうですね……須賀様と遊興を共にするのは光栄なことで私としては一向に構いませんが……実は我が主に是非須賀様を呼んで欲しいと言われておりまして……どうでしょう、透華お嬢様とご一緒に遊ばれるというのは」
「とーか? ここのこ?」
「そうです。須賀様が須賀家の長子であるのと同じで、透華お嬢様は龍門渕家の長女でして……」
「ふーん……ねえ、しつじさん、つれてって!」
「ふふ。かしこまりました」

おもむろに乞って手を掴んで来た子のためにその執事が作った笑みにもう、作為なんてものはなかった。
名家の跡取りで、でも普通の子。そんな変わった相手が自らのお嬢様の目に面白いものと映らないはずがない。
或いはひょっとしたら、最近気落ちしていた透華の心をこの男の子は自分の代わりに慰めてすらくれるかもしれなかった。隠形と人を見る目には自信のある彼は、そう信じた。
そんな期待すら抱いていれば、豪奢に過ぎる家中においての先導にも緊張なんて起きる筈もない。違うことなく、彼は子供を目的地へと連れて行く。

最中、歩調を上手に合わせてくれる年上の隣でちょこちょこ足を動かしていた京太郎は、彼を見上げてこう呟いた。

「しつじさん、せーたかいねえ」
「そう、ですね。平均と比較すると私の身長は高い部類でしょう」
「オレもおおきくなれるかなあ?」
「ええ。須賀様なら間違いなく」

不安げな京太郎に執事は、先に見送った自分すら見上げかねない程の背の高さの彼の父を思い起こしながら、迷いなく肯定する。
身長に遺伝が関係しがちなのは、世の道理。永い廊下を踏みしめながらきっと、あと十年も後にはこの男子も父に負けないほどの長身になっているのだろうと執事は思う。
だが、少年が目指していたところは、彼や父の程度では実はなかった。驚くようなことを、京太郎は次に言った。

「よかった。オレ、ほしがほしくってさー」
「星、ですか?」

目を見開く執事。しかし、星が欲しいと述べる子供は、いたずらっぽく笑んでから言う。
並ではなく相当に高い天井、だがそんな手の届きかねないものの更に先、宇宙の暗さに浮かぶそれを夢見る少年は手に入れたくって。
小さなヒトデがぐーぱー。彼と繋いだ逆手で京太郎は空に手を伸ばして宣言をする。

「うん! オレはおっきくなって、ほしをつかむんだ!」
「そう、ですか……」

ここで、ようやく執事は気づく。この子供は、きっと普通どころじゃないぞ、と。
先に目を合わせて良く見た筈の彼の瞳は、今爛々と輝きそれこそ星のよう。見果てぬ夢を語るだけの子供が、しかしここまで眩しく見えるのはどうしてか。
それは、一重に貴いから。どうしても汚せないと思えるほどの煌めきを、金色に少年は心に持っていた。

「それは素晴らしい、目標ですね」
「でしょー」

頭上の頷きを見、笑顔の途端に普通に還る少年。愛らしいそれは、先の光輝を思い返せばどうにも常ならぬものに思えた。そして、きっと未だ剪定一つされていないこの様子を見る限り間違いではないのだと、執事は理解する。
そう、須賀の跡取りと目されている長子京太郎に、父があえてそれらしい教育を行っていなかったのはその大器に対する期待に依るもの。
役割を着せることなくただ親として育てたくなった、両親のその気持ちに方針は、きっと過ちではないのだ。

「ほしをもってきたら、きっとみんなよろこぶぞー」
「……そうですね」

それは愛に対する最大限の返報のために輝きを持ってくるという夢。
彼の目指している星のごとくに多くの人に愛されるものを持った子供は、その時ひたすらに空を目指していて。

「トーカも与太者だ! 衣はもう、知らない!」
「衣!」
「わ」
「貴方は……須賀の……」

「……む、誰だ、お前は? お前も、衣を悪く……」
「ううん」
「なら衣を放って……わっ!」
「いこ!」

「急に衣を外にまで引っ張り出して……何なんだお前は?」
「ねえ」

「あんなに、つきがきれいだよ」
「っ!」

「ああ、っく……本当、だ」

だからこそ、そんな少年が星ではなくて足元の月影を救えた、全てを掛けて掬ってしまったことは、万金よりも価値があったのだろう。

 

過去は水と流れて、少年は大人の手前の今に還る。
広い器の青年でしかなくなった京太郎は、ときに夜に携帯の薄さに心を預けることがあった。
それは、一時夢よりも大切な家族と繋がるため。
両親が九十数年ぶりの東京への本社移転と共に居を移しため長野に残してしまった姉が登録している番号を呼び出し、彼は液晶に向かって声をかける。

「もしもし、衣姉さん?」
『京太郎! 大過なかったか?』
「衣姉さん、今週もお疲れ様。俺は大丈夫だけれど……衣姉さんも元気そうで良かったよ」
『ああ、月曜日に一度に減らした電話を一日千秋。いや、三秋か。衣はそんな思いで待っていたぞ? 快然だ!』
「なんか数字減ってるな……どんな意味かは分からないけれど、まあ楽しみにしてくれてたのは嬉しいよ」
『ふみゅ。京太郎はそれでいい。それで……』

『今日も京太郎の空の月は綺麗か?』
「……ああ。眩しいくらいに、綺麗だよ」

新月の宵。一人ベランダに腰掛けた青年は夜空を見上げもせずに、携帯電話の先の姉のためにそう断言をする。

ばちり、と蛍光灯が瞬きとともに一度だけ鳴った。


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咲‐Saki‐1巻
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