町田百合は、地獄が溢れぬように取って付けられた蓋である。それが偶に人の形をして産まれているだけ。
彼女はその役割故に何より地獄に灼かれ続けることこそ重要であり、人間としての能力はおまけに近かった。故に、少女の持つ能力は最低限。
しかし、悪に耐える器でしかないその身を必死に動かし、今日も百合は人間に足ろうと努力を続ける。何より少女は愛に応えるために。
弥生の空は花曇り。風がそよいで花は溢れ死に行く、そんな綺麗に景色は過ぎていく。
転居してから二年。旧いアパートの内、満足な明るさとはいえない中、もぞりもぞりと百合は掴めない手を無理に使って絵を描いていた。
人より弱い彼女は、それなりに時間が経ってもまだまだ握力が育ちきっていないためにクレヨンを持つことは不可能だ。
だがならばと、その小さな手を色で汚して、それをぺたぺた貼り付けることで、百合はイラストとしている。
見た目は小さなモミジの大群。だがそんな下手でも表現を行うことを、少女は楽しみとしていた。
「てぃ、でぅ」
もう立って走って遊んでいる同い年くらいの子達はその元気を親に示しきっている。ならば、自分も自分なりに元気を、活きていることを示すことで両親に少しでも安堵して欲しかった。
そんな孝行娘の思いやりは、しかしろくに動かない口では届かない。けれども、一枚の絵にはなる。
赤にオレンジを、そして更に赤を重ねて創ったそれを、百合は咥えて母に示すのだった。
「かぁ、できた、でぅ」
「まあ、お上手ね! これは……ひょっとして、お花さんかしら?」
「ちがぅでぅ。これぇ、ゆぃ」
「あら。この絵は百合ちゃんだったの? うーん……なんだかびっくりするほど紅いけど、そうなの?」
「でぅ!」
「そう……」
なんだか真っ赤な自画像を咥えながら自信満々にしている娘に、母はどこか困惑を覚える。
今はレースの覆いよりも気に入ったらしい透け眼帯を両目にしているが、普段問題なく暮らしていることでおそらくこの子の目自体は悪くないと母は思っていた。
だがしかし、この肌色選ばぬただの真っ赤振りを思うと、百合の自認と色感が不安にもなる。
上手く言葉返ってこないと予想しながらも、母は娘に問う。
「ねぇ、百合ちゃん。どうして百合ちゃんは百合ちゃん自身を描くのにこの色を選んだの?」
首を傾げる母に、珍しくも赤子の頬を更に柔らかく微笑みのようにして、百合は返す。
「それぇ、は、でぅ」
「それは?」
「ゆぃ、これ!」
「えっと?」
今度、母は反対側に首を傾げることに成った。
百合は、上手く接続しない手首をぶらぶらさせながらも、しっかり自分に手のひらを持っていって示している。
曰く、百合は、これ。どうやらこの子にとってこの赤は己であるらしい。
しかし、足りないままに赤子という時期は過ぎている今、瞳以外は愛らしい稚児には頬の紅以外に赤は見つからなかった。
だから、不思議がる、親。でも、子供は何より賢く分かっていて、理解していた。
そう、明日は無理でも、何時しか少女だって人であるからには。瞳の奥のアレらと同じくして。
「ゆぃ、こう、なる! でぅ」
「っ!」
笑顔で、血の池かはたまた焦熱地獄を描いた少女を理解した親は、これまで湛えていた笑みを凍らせる。
警察官に成った僕、花屋さんに成った私。そんなものを描く子どもたちの当たり前のように、百合は想起できる未来を描いたばかり。
何より身近でそうなるべきものに己を浸して、紅く染めた。そんなのが、地獄に蓋した稚児の当たり前の絵空事。
そう、少女にとって理想は唯一つ。
「みんぁ、いっ、しぉ!」
世界のすべてが一つに堕ちる、そんな夢。
ああ、一体全体朱く染まって、誰もが何もかもが辛いばかりで苦しいばかりで悪なんて考えられなくなればいいのに。
そんな地獄的な、正義。誰もが唾棄する理想を、少女は自然に備えている。
「百合……」
悪どい熱に歪みきった子供の一人ぼっちの倫理観。それを分からずとも、何となく察してしまった親は悲しい。ああ、なんてこの子は厳しくって優しくって。そして。
「かぁ、も、でぅ」
「っ、そう、ね……」
どうしてここまで愛おしい。ぎゅっと握れず、ただ汚れた手をぶつけられたばかりの接触。
しかし、その際に感じる柔らかな温かみはどうしたって、人間的。だから、この子は地獄なんかじゃないのだけれども、それでもこの子が望むのなら。
「それが、あなたのためになるのなら、いいわ」
赤い紅葉を頬に一つ。そんな道化の装いで真面目にして、母は私の命なんて、あなたのための薪一つになり果ててしまったっていいと、そう本気で考えるのだった。
「あ、う?」
そんな風にしてここのところずっと、百合は絵を描くのを好んで手を汚してばかり。
でも、流石に食事前にはそれを止められ両手は綺麗に洗われた。
百合は思う。これは望ましい清潔である。でも、自分なんて汚いばかりでも構わないのに、と思わなくもないのだった。
「でぅ」
眼の前のドロドロの食事を前に、一度百合は目を瞑る。
ああやはりこの世の魂は挙って汚く、それらが熱で焦がされれてしまえ余計に不明に蕩けて混ざって気持ち悪い。地獄は、そんな食欲を削がせる光景が基本だった。
それが何時だって瞼の裏に広がっているのだから、今を生きていることこそが不思議で、彼女は贅沢にしか映らない。
けれども、ふわふわとした夢心地のままだって、お腹は空く。目を開いた少女は手を合わせること叶わずとも、手首を重ね、言うのだった。
「いただぃ、まぁす」
「はい、いただきます」
「はは、百合はいただきます、って言葉が一番上手だな」
「ふふ、食いしん坊さんなのかしらね」
「でぅ」
母の食いしん坊という言葉に、頷く百合。それはそうだろう。
本来ならば、育たぬほどに喰わずにいた方が良い。むしろ死んだほうがいいのが人間だというのが、地獄を参照し続ける少女の結論だった。
「あ、むぅ」
「小さなお口ね」
「あ、零した」
でも、愛ゆえに正しくなれない少女は今日も元気に離乳食をはみ続ける。むちゃむちゃ、口元を汚しながら。
この人達に恩を返すまでは、自分は幾らでも悪であっていい。そう思えるくらいの情が、百合にはあるのだった。
「う?」
そうして、味の感じられない餌を食むことに夢中になっていた最中。珍しくもそれが彼女の耳に響く。
旋律に乗っかった、上等な人の音。奏でる喉は未成熟であろうと、しかし夢溢れれば琴線をどこまででも揺らす。そう、それは歌だった。
「あれ、テレビつけ忘れてたか」
「そうね。音楽番組の……アイドルの子が歌っているみたい。まあ、偶にはいいかしらね」
「ぅう!」
「お、なんだ。気になるのか、百合」
「でぅ!」
夫婦はそれなりに勤勉な人物であり、教育から食事の時に余計を挟むことを嫌っていた。
だから、これまで中々食卓にて音が響いていたことなんてほぼない。しかし、今日は偶に騒々しく響く音を百合は聞いた。
「ぅー」
「あら、百合、歌ったわ! 凄い!」
「おお、百合は好きなんだな、歌が」
それが、どうしてこうも心に響くかしらないまま、身を乗り出し、それを損ねて顎をテーブルに乗っけ、そのまま食い入るように少女はキラキラした女の子を見つめる。
そんな彼女の喉が、地を引っ掻くような響きが、しかしリズムに乗るように鳴った。
「ぅう♪」
それはあからさまに、歌である。下手の底。言葉にすらならず音程すら地獄であるが、しかし、それでもそれは百合の初めての歌声。
物真似。百合はどうしたって、このキラキラ乙女と一緒をしたがった。
それがどうしてか。そんなことは彼女にだって分かっている。だって、この子は百合が今まで見た中で一番。
「らぁー♪」
「まぁ」
「上手いぞ、百合!」
活きている。輝いていた。物知らずであり、天使の様でもあるのだ。まるで地獄と正反対の薄っぺら。
しかしそれこそが、百合という地板の少女の心に響いた。
音とタイミングが合ったのは、ただの奇跡。でも、それだって彼女が発した初めての美しき音色。
産声ですら悪でしかなかった彼女は、アイドルというものに憧れることで、何より両親を涙ぐませて。
「あい、どぅ」
眼の前で歌って踊る、女の子たち。これには成れないと、思う。どう考えたって違うし、自分ではあまりに足りな過ぎる。
そして何より顔貌以前に夢に輝いて然るべき瞳が終わっていて、それでも。
「ダメぇ」
この胸の高鳴りに、嘘を吐くことは出来ない。無理でも無謀でも、それでも光に目を眩ませてしまえば、もう差し出さるを得なかった。
「うぅ……上手、上手だったね……」
「アイドル、か……」
自分の全てを持って、叶えたい。そう、まずは一音で泣かすことの出来た大切な大切な人たちを幸せにして、そして。
「ぜんぅ!」
全部。最期は皆を幸せに。
ひょっとしたら、この世の誰もが辛いのが悲しくて何の余剰もないのが本当なのかもしれないけれど、今度こそ信念を持って百合はそう想うのだ。
だって、どうしたって底から見たら全ては幸せになって欲しいくらいに尊いものでしかないから。
「あーぁ♪」
地獄を内に飼う少女は己になき偶像を崇拝する。
そうして、町田百合は生まれて初めて、不相応にもトップアイドルになる夢を持った。
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