第三十話 逃げ出してはいけない

マイナス百合 マイナスから目指すトップアイドル

ドームのゲスト室から望めるのは、空きを埋め尽くす夥しいまでの人の数。
五万を超える人波がうねるように一人を求めるその様は、まるで蜘蛛の糸のお話に出てくる地獄をすら想起できる。
そして、実際彼らはアイドル鹿子という少女一人に天国を覚えている者ばかりであるからには、尚必死であるのかもしれなかった。

怒濤のようなざわめきを遠くから認めた百合は、怖じるようにこう溢す。

「ふぇー……すっげえ人の数ですぅ……」
「おほほ。わたしにとってはこの程度の人波など慣れたものですが……百合さんはまだ新人ですものね」
「鹿子ってやっぱりすげぇですねぇ……百合も見習わなきゃですぅ」
「ほほ、どういたしまして、ですわ」

視界を遮る両眼帯以外の飾り無し。その上パーカースカートの普段着からすらも遠く離れた格好。お忍びでと伝えたところそんな姿でで来てくれた百合に、薄く鹿子は微笑む。
どこか緊張した様子の地獄少女と違い、正装の上等な黒と赤のパンクロリータファッションに身を包みながら、令嬢は上機嫌。
鼻歌すらしそうなそんな様子を見ながら、小さく百合は溢すのだった。

「こんなアウェイで歌わなくちゃならないとか、シークレットゲストってのも楽じゃねえですぅ」

四天王の鹿子が初夏にドーム開催にて行っている単独ツアー、「バンビダム」。
子鹿の支配なんて笑える名前だなと二番が溢したバンビとキングダムをくっつけたネーミングのそれは、毎回チケットがあっという間に売り切れることで有名。
その殆どがまた転売前にファンたる曰く【王国住民】達に行き渡るというのだからそら恐ろしいものである。

「まあ、文字通り5万といらっしゃいます私のファン達ですが……まあそれほど恐れるものではありませんよ。むしろ可愛いものです」
「そうですかぁ……あれですね、百合も野菜だとか思ってみていればぁ……」
「ふふ、あんなに夥しい数が野菜だと、むしろ恐ろしく感じてしまうのでは?」
「ですねぇ。それにもし百合の苦手なピーマンだと思ったりしちゃったらヤバすぎですぅ……尻尾巻いて逃げるしかなくなっちゃいそうですよぉ」
「あら、それはよくないですわね」
「ですぅ?」

開始前の緊張の中。ストレッチ的な雑談のための言葉。
冗談でしかないそれに、しかし先輩である鹿子は聞きとがめるところがあった。
正直なところ嫌う相手に助言を行うのは彼女にとっては嫌であるが、しかし世の中には冗談でも口にしてはいけないことがあるのは、この子供に伝えなければならないだろうと思う。

それは、不幸な少女だった頃から持っていた、彼女の信条。
カシマレイコのフォロワー達しかない異常な空間にても逃げ出さなかった、でも悪い子な鹿子を四天王たらしめている一つ。

「アーティストというものは、決してお客様から逃げ出してはいけないのです」
「なるほどぉ……」

格好つけた格好いい頭上の星の姿に、百合も自らの隠した目もきっと輝いているだろうと思う。
それは、悪どさに埋もれかけていた少女の輝石。どんな悪口や脅しからも逃げずに戦っていた女の子は気高く、貴くもある。
しかし、本来ならばそれだけで星としては十分な煌めきを目くらましとして。

「おほほ……百合さんも、決して私のファン達から逃げてはいけませんよ?」
「分かったですぅ!」

悪役令嬢は、己の信条ですらこれからの悪事のための毒薬に用いるのだった。

 

「はぁ? 百合のいしょーが届いてないですぅ?」
「はい……非常に申し訳ないのですが、郵送の類は全て鹿子様が取り仕切っていまして……鹿子様が知らないとあれば、百合様のご衣装も恐らくは何か不都合があって届いていないのではないかと……」
「こ、困ったですぅ……」

バックヤードが揺れんばかりの歓声の轟の中、百合は緊張に急かされる。
鹿子が誘われて出る前に、そういえばあなたの衣装が届いてませんよと零したことで、急ぎそこらのスタッフらを呼び止めて彼女は事情を聞いた。
すると、困ったことに確かに届けた筈が届いていないという事態が判明する。
これには、言われた通りイメージと違う普段着ですらないダサい格好で来てしまた百合は困った。
メイクさん達も驚きの表情で見ているが、ひょっとすると、このままのこのこ出て行って恥ずかしい目に遭うのか。

「百合ちゃん、大丈夫だよ。慌てないで」
「ユータ。でも、ですぅ……」
「大丈夫。ひとまず深呼吸して」
「すぅ……ですぅ」

そんな見当外れの恐れによって慌てふためく百合に、マネージャーは顎に手を当てながら抑えに入る。
我がアイドルに一息つかせながらも彼が考えているのは、一つ。これは偶然か、はたまた必然なのかどうかというもの。
そして自分も確認済みの事務方の不備を信じられないことと、仲間からはあまりいい噂を聞かない鹿子というアイドルの怪しさから、裕太は恐らく全てが彼女の目論見だろうと判断をする。
自然、歪む眉。それを親指と人差し指で和らげながら、彼はこう伝える。

「百合ちゃん。ひとまずはその格好で良い」
「えっとぉ?」
「百合ちゃんは可愛い。まずは百合ちゃん本人がそれを信じよう。それでも信じない不届き者が居るなら……歌で黙らせてしまえばいい」
「そう、上手くいきますかねぇ……」

百合はひょっとしたらこの頼りになる半身が変わりの衣装を探してくれるのではと考えていたのだが、寝間着に近い今の格好でゴーサイン。
歌で黙らせろと言われても、と後ろで波のように大きさを変える歓声の響きのように心を緊張で歪めるのだった。

「大丈夫。百合ちゃんは、決して負けない」

だが、もし悪意の画策に依る今の状況であるのならば、保護者たる自分が百合から離れるのが、悪手。
そう考えて代替の衣類を探すことも、諦めることも中井裕太はしなかった。
口から出るのは本心からの、でも安い慰め。こんなものでは百合の心を和らげるには無理だと知ってはいる。

「そう、ですねぇ……百合は負けないですよぉ」

だが、そんな程度で巻き上がる火炎もあった。
逆境逆風。逆巻く炎はそれをすらただのエネルギーとして燃える。

「むしろ、普段だったら鹿子の格好と被って、目立たなかったかもしれないですぅ。むしろ好し、ですよぉ!」
「うんうん。その意気だ」

頷き、微笑む裕太。
百合の炎は並大抵のことではびくともしない程に燃え盛り、これと実力を合わせればもう、失敗なんてあり得ないだろうと信じられた。
だが、もうマネージャーには油断はない。

「それじゃ、こっちはこっちで準備をしようか」
「ですぅ!」
「……それじゃ、ちょっと話し合いがあるから皆さんちょっと部屋から退いておいて貰えますか?」
「ええ……わかりました。それじゃ、皆失礼しようか」
「ですぅ?」

突然の撤収。何も知らない百合はマネージャーの突然の失礼とも取れる要請に首を傾げるばかり。
しかし、ここは敵地と認識した彼の耳は元気を取り戻した百合を見て一人のスタッフがした舌打ちをも、確り捉えていた。
閉じた扉。しかしここに耳が彼らのもの以外にもないとは最早信じられず、しかし一つ彼は息を吸って。

「ふぅ……百合ちゃん」
「ユータ、どうしたですぅ?」
「何があっても大丈夫。僕は君を信じている」
「ユ、ユータ。こんな近くで、そんなぁ。目があっちあちですよぉ……」
「だから、君も僕を信じて、大丈夫だと思って欲しい」
「……それはぁ……」

盛り上がりは現在最高潮。歌と踊りと婀娜一つで地響きを起こせるアイドル四天王というものはやはりとんでもないと、裕太も思う。
そして、それが我がアイドルに矛を向けているという事実。本当は不安である。だが、それを上回る百合の努力と信念を彼は知っているから。

「きっと何かがこれからある。でも君は僕の信じる君を信じて欲しい」

その瞳には、きっと妄執地味た心の炎が宿っていた。
試練に勝つには、悪意に勝る意気が大事。それを知らずにマネージャーは伝えて。

「勿論ですぅ!」

何もかもをエネルギーに、百合は小さなえいえいおーをしたのだった。

 

「すぅ……」

バンビダムの地下。暗いそこにて呼気を深く行う少女が一人。
町田百合は、嫌われ慣れている彼女は今更ながら周囲の自分に対する隔意を感じられた。
このポップアップの演出のための人員ですらやる気もなければかけて来る声も説明も僅か。
なるほど、これは我がマネージャーが危惧していた通りである。これにはきっと、鹿子の悪意が広く伝わった結果。

全てが百合を辱めようという思惑によって操られているのだろう。
関係者でもこれ以上は難しいと裕太の入室も退けられた今、孤立無援を今更ながら百合は感じるのだった。

「はぁ……」

だが百合も馬鹿ではない。
百合がこの場で一曲歌う契約というものは既になされていてオーキッドの皆が精査したそこに瑕疵などない。
なら曲がりなりにも、百合は歌えるのだ。そしてその一唱にて全てを変えてしまえばいい。

「頑張る、ですぅ!」

実力にて夢を見る。それくらいの努力はしてきたし、実際彼女の歌は全てに夢を見させることが可能だった。

しかし、悪意はそう容易いものではなかった。
夢の音にて夢を見れない、鹿子の音のジャンキー達は知っていてわざと百合を陥れんとする。

「はい、それではポップアップを開始します」
「ですぅ? 今はまだ歌の途中じゃ……」
「数えます……3、2……」
「いやいや、ここで出たら百合はとんだ空気読めない奴でぇ……」
「1……ゼロ。それじゃ、よろしくお願いします!」
「きゃっ!」

「―――♪」

歌は途中。むしろ熱唱で汗を煌めかせる主役の隣にぽとんと見窄らしい姿の百合の登場。

「ご、ごめんなさい、ですぅ」

気づけば、胸元のマイクも自分の声を拾ってくれない。
都合小さな小さな謝罪の言の葉は無視されて。

「――っ、あら?」
「あぁ……鹿子ぉ」

ざわめきとともに中断される歌。
わざとらしく首を傾げる鹿子に救いを求めるような小さな声が百合から漏れ出たが。

 

スモークの雲の上の王国の主は。

「おほほ――――貴女、誰ですの?」

眉をひそめて、全ての信者を敵に回らせたのだった。


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