第九話 魔者・前
私は、流れる風の中、お兄さんの背中にひっしと掴まる。少し気恥ずかしいけれども、そうでもしなければ、危ないのだ。
なにしろ、今時速八十キロは下らないだろう速さで疾走するバイクの上に身体がある。亡くなるのは、あまりに簡単だ。ただ、手を離せば良い。傷心から、そうしたくなる思いだってどこかにある。お母さんも言っていた。死は、誘惑だ。
けれども、私は誰かのために、お兄さんの背中を手放すことはないだろう。人のために、私の胸は早鐘を打つ。
「さっきは栄方面って言っていたが一応聞く。次の分かれ道どっちだ?」
「少し、移動した! やっぱり左折して!」
「了解!」
ヘルメット越しに地鳴りのようなノイズを聞きながら、私は移り行く分かり難い景色を、目を細めて望む。そして、お兄さんの言葉に、都度反応していく。行き先の大体は教えた。それでも、相手は生き物で蠢くものでもある。僅かな魔物の蠕動を聞くために耳をそばだてながら、私はちょくちょく方向に修正を加えていく。
「なんか、嫌な予感がするな……」
お兄さんが行ったカーブの際の重心移動に沿わせたその時。抱き付いた身体から呟きが響いた。予感。しかしそれがこの世で最高の精度を持つならば、果たして予言と何が違うのだろう。きっと、殆ど当たってしまう世界一のお兄さんの勘を思えば、これから嫌なことが起こってしまうのは間違いない。でも、そんなのは怖かった。
否定したくて、ぎゅっとその広い背中を抱きしめる。お兄さんは、現場に着くまでそれ以上何も口にすることはなかった。
辿り着いたそこは、公園だった。だだっ広い、真夜中の大森公園。入り口付近の明かりの側にて駄弁っていた人たちを無視して進んだ更に先。暗く沈んだ中で、水を吐き出さない噴水が不気味なオブジェと化し、鎮座している。
「で、だ。俺には魔物とやらの居場所が判らないのが困ったところだな。せめて、見て取れれば……」
高身長から周囲を見回す、その様子になんの怖じも見当たらない。お兄さんは、バケモノが潜む闇の中であっても平常運転。しかし、頼もしきことこの上ない彼も、流石に感覚器が届かない相手には眉をひそめるものだった。私はその険を取ってあげるために、その手に触れ、引く。
「何だ?」
「顔、下げて」
「こうか」
「そう、そのくらい――黄昏グラス」
私は、高いところから下がってきた強面ながらもどこか甘い顔に手を向けた。一度、お兄さんが瞬いたその間にそれは完成する。
見えざるものが見える、そんな瞬間をもしこの世に固定できるならば。私はそれを願ってお兄さんにそれをかけてあげた。きっとこれで、彼の視界は私と同じくらいに広がっただろう。
「お、眼鏡か。なるほどまず視覚の拡張とは堅実だ。似合うか?」
「うん。格好いい」
「そうか。……なるほどな。実に気持ちの悪い空だこと」
お兄さんがためしのように、仰いだ空には、未だに醜いレイアが展開している。それを、眼鏡越しに覗いたお兄さんは、どう思うのだろう。きっと、気持ち悪いと思うのだ。だから、私は視線を下げる。
「ごめんね、嫌なもの見せちゃって」
「謝るな、むしろ嬉しいもんだ……これは視界、一時だけの共有だろう。なら、判るとは言わない。それでも、少しは滴の苦しみ察せたよ」
「お兄さん……わっ」
「これにずっと耐えているお前は偉い! だから、今日くらいは思って、守らせてもらう」
お兄さんは、ごしごしと私の頭を撫でた。髪の毛が、暴れて、長い黒線がゆらゆらと視界に踊る。思わず頬を紅潮させる私に、彼は高みから微笑んだ。
「あは」
私も、笑う。なんて、気安い接触。しかし、それがとても嬉しい。何せ、遠巻きに見られることばかりでは、緊張するばかりなのだから。
誰かが言っていた。私は、お兄さんと違う、見た目だけの中身なし。そのために、注目は当たり前なのだろう。それでも私は、こうして触れてほしかったのかも知れない。
しかし、そんな私であっても、無遠慮な悪意は、流石に嫌う。聞こえるか聞こえないかの微かな、とす、という音に向けば、そこには魔物の姿があった。
細い四足を地につけて、裂ける程に顎門を広げてそれは私へと目を向ける。その歪んだ赤の側には大げさな感覚器が備えられていた。ピンと立ち上がる耳と、尖った鼻。その歪んだどれもが、大好きな動物を思い起こさせた。吐き気を催しながら、私は言う。
「犬?」
「ふうん。これが魔物か……確かに、気持ちの悪いアレンジがなされているが、イヌ科の動物にも似ている姿だ。サイズは……そこらのダンプと同じくらいと。まあ、それはどうとでもなるが、しかし二匹も居るっていうのは厄介だな」
「二、匹?」
「後ろだ」
お兄さんの、僅か緊張の孕んだ声のその内容を理解して、私はばっと後ろを振り向いた。すると、そこには鏡写しのように似通った魔物が存在していた。低い体勢で、少し出っ張った腹を地面に付けながら、私を睨む赤。それに私は怯える。
「ひっ」
私に気取られず、背後を取っていた獣。前の存在は囮だったのだろうか。この魔物は狙うためにその蠕動すら隠しながら音もなくゆるりと動いて、もう一匹と合流する。そして、バカでかい二頭が、視認している私達の前で牙を向きながら様子を見始めた。
私は彼らに今までの魔物にない知恵を感じ、戦慄を覚える。そして、更に嗅げて聞こえる筈の私に察せなかった魔物の存在を見もせず先に解していたお兄さんが不可解に思えた。だから、問う。
「お兄さん、見ていなかったのに……どうやって分かったの?」
「勘。それと、強いて言うなら無いものがこの世で動いていたら、ちょっとは違和感を覚えるもんだ。それを、俺は逃さない」
「お兄さん……」
私は、忘れようとしていた。お兄さんが彼方の人物であるということを。人の範疇でありながら、決して届かない最高の存在。私のような外道とは違う、正道の理想像。魔物なんて、きっと彼の敵ではないのだ。
こんな素晴らしい人が、大須家に生まれてくれたのはどうしてだろう。きっと、私というマイナスな存在への補填なのだ。そう思い、見たことのない日輪をお兄さんの背中に想起する。
そして、私はその全身を飾る眩い鎧を思いついた。私は、それを創り上げるために、両手を大きな手のひらに重ねる。
「今、魔法を……」
「滴はまだ、人に委託しないと戦えないか。それでもいいが、今は変身している暇なんてないな……来るぞ!」
「きゃ」
しかし、それを許すほど今回の魔物は悠長ではなかった。あからさまに私達を敵と認めて彼らはぐるると牙を剥く。巨体は全身の繊維をバネにして、飛びかかってきた。あまりに速い二つに、私達は逃れるばかりで精一杯。故に、私の魔法は中断されて、半端なものがお兄さんのその手に残った。魔が凝った小さな形を持って、彼は構え出す。
「用意できた装備は、これくらいか」
「王冠エンド……そんな手甲なんかじゃっ」
それは、王に被せるものの端。揃って初めて意味を持つ鎧の一部。敵対する先端。それだけでは、魔に触れることが可能になる程度の効力しか持たない。
しかしお兄さんは、それをぎちりと握って確かめてから、爆ぜた。
「十分だ」
「え?」
私が彼を見逃してから、爆音と共にきゃうん、という悲鳴が遅れて聞こえた。見ると、お兄さんが仁王立ちしているその先に、巨体が一つ、転がっている。
あまりの早業。かもしたらお兄さんが手甲で殴りつけたのだろうか。異形は歪んで震えて、明らかな戦闘不能となっていた。だが、それは片割れ。私の視界が瞬きで閉ざされた合間に、もう一頭の魔物が、お兄さんに覆いかぶさらんとする。
直ぐ様私が上げんとした悲鳴は、しかし形にならなかった。
「どうにも、聞いていたみたいに屠殺するばかりの作業とは、いかなそうだ!」
ダイアウルフどころではない、象と比するレベルの魔物の巨体が、お兄さんのアッパーカット一つによって浮かび上がったのだから。やがて、バケモノ犬はそのまま、ごちゃりと落ち崩れた。そして、僅かに身じろぐ。
「不可解な殴り心地だ……仕留め損ねたな」
「お兄、さん……」
筋力、人間の身体で想定される限界。速力、人にはありえないと否定されてしまう程。握力、そんな身を軋ませる威力の歪。それらが全て本気で用いられれば、こうまで高まってしまうのか。
暴力。拳を振るうだけの行為は、天のどこまで届くのだろう。最低でも、空から堕ちた程度の存在であっては、お兄さんに敵うべくもなかった。
魔でも鬼でも何でも無い。純な力の最高峰。これが、最高の人間の一端。私は、思わず唾を飲みこむ。
「さて、ただの野生にしてはどうも不思議なものを感じるが……しかし、これ以上に何もないなら、次でお終いだ。これ以上滴の手を、借りるまでもない」
一頭は、内臓を突撃でしっちゃかめっちゃかに。もう一頭は、殴打で頭部を破損させられて。動くことすら難儀する彼らを見れば、私からもお兄さんの追撃に応じることなど不可能に見えた。
「と、このまま続けるのは甘い考えだ。滴。すまないが、やはり力を借りよう。万全で行く」
「……うん!」
しかし、お兄さんは自分の優位を過信しない。四肢に頭。武器になるだろう二頭の五端を確りと眼鏡越しに目へと入れながら、私の元へと歩み寄る。
それは、二歩も掛からない程度の距離だったろうか。私がお兄さんにかけるための王冠の魔法を用意しながらそれを縮めるのを待つ僅かな時。私の耳に、何かが沸騰するような音が聞こえた。良く分からない。
だから、私は注意を換気させようと口を開こうとして、そうして遅きに失した。
「――ばあ」
「そっちか! 滴、動くな!」
「あ……」
私には察せない間隙。その間、何の攻撃が行われたのだろう。私は、少し目を瞑ってしまっても居たから判らなかった。言われるまでもなく、私は身動きを取ることなど不可能。しかし、また私が何もしていない間に、状況は最悪へと転がっていく。
目を開けると、辺りには、飛散した臓器のようなもの。そんな魔物が秘めていた悪臭に混じって、肉の焦げる匂い。人を消化する内分泌液にて足を灼かれたお兄さんが膝を付いていた。私を庇って、手甲焦がしながら。
「ちっ。流石に、腹からの攻撃なんて、想像してなかったな……」
「お兄さん!」
私は涙目になりながら、最愛の家族に駆け寄る。どうして。命持たせる内腔を、飛散させるような、生き物なんて居るはずがない。自死を容認してまで攻撃するなんて、人間ではないのだから。
そこまで、考えて、私はぞっとした。声。ああ、まさか、まさか。
「――誰?」
胃の袋を破ってそれは、新芽のように、ゆっくりと、立ち上がる。そして、腸(ちょう)舞い散る、離(はな)の園に、一人。彼女は呟いた。
「……犯されるより、犯す側の方が、やっぱり気持ち良いね」
いや、それは一柱。どうしようもない高みに引っかかってしまったヒトだったものが、私に向かって、笑っている。くしゃりと、はにかむように、喜色は蕩けだした。
「襲田、さん……」
何時もの笑みが、場違いな場所で花咲いた。しかし、どうみても魔と癒着したその身は、ただごとではない。
「あはは。そうだ。思い出した。私は、襲田茉莉だったね』
その声色は、最早私以外にはきっと聞こえない。しかし、そのことをすら悦んでいるのだろう、襲田茉莉であった、少女は笑う。
「あはははは!』
収斂、蠢き、魔物だったもの、そして動けない魔物ですら少女の感情の渦に呼応して、肉が踊る。それは、どこまでも命に対して冒涜的な光景だった。
「やっと私だけを見てくれたね』
ああ、全てはきっと、それだけのため。死、そのもののように生(な)った、少女はただ私を誘惑する。
襲田茉莉。今や彼女は完全に魔なる者。魔者だった。
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