十六話 太陽/あなただけを見ていれば間違いないから

少女は星にならない挿絵 少女は星にならない

神代小蒔は、空には太陽以外に要らないと言い切れる人である。

月はあまりに冷たい色をしていて、星星は暖を取るにはあまりに微か。
ならば、ついうとうとしてしまいたくなるくらいのお天道様こそ大事に、想い思って愛していた。

「私は――星に願いません」

遍く全ては、天を中心に動いている。だから、それは起こるべき奇跡だったのだろう。

 

「う……」

それは毎年にならい大嫌いな雨季に耐えながら、牽牛織女の逸話めでたい七夕を待つ頃。
何時ものように梅雨で重たい空を窓の向こうに望みながら小蒔は一瞬の間だけ自失していた。
忘我。彼女のそれは睡眠とよく似た瞑想の究極。小蒔はそれこそ神の皿たる器の身から我を失させることすら気楽に行えるのだった。

さて、神代小蒔はその身に神を降ろせる人である。
六つ仙女が崇める姫。そも、名実ともに世界が愛する少女の一人であるからには、その序列は神に次ぐ。
そして悲しみに人界から目を背けるようになった彼女は、既に神に紙一重で違うだけの存在にすらなっていた。

「うぅっ……」

なら、そんな小蒔を導きの炎が彼女を己が身に移してまで救おうとしたのは、最早当然のことだっただろうか。
枕越しに文机へと頭を預けて寝入る少女の閉ざされた瞳から落ちるのは一筋の涙。
そして、本来暗黒であって然るべき彼女の視界はどうしてだか明瞭に開かれていた。

『あら、ここは……』

夢中の小蒔の視線は高く、それこそ雲の上を飛ぶものに移っているようである。
厚い、暗い雲の上を滑るように進むそれの勇気はお姫様でしかない囚われの少女にとって、少し怖いくらいだ。

右に左の端に紛れる艷やかな黒羽を思うに、きっと今小蒔が借りている視界の主はカラス。
しかし、この子はただの鳥にしてはあまりに大げさな程の高みを行き過ぎていると、そう小蒔は感じた。

『太陽が、こんなに近いです……』

見上げれば、直ぐ。そう感じてしまうくらいに烏の場所は天近く。最早神々の領域侵犯と取られてもおかしくないくらいの高み、成層の青に囲まれながら飛んでいた。
しばしの、飛行。無限のような青を切り裂いて、烏の黒い羽ばたきは続いていく。
これは或いは旅路の光景なのだろうか。だが勿論、そこに他に生き物が存在することなどあり得ない。
そこは気生プランクトンですら存在を疑われる程空気を失くした高みだ。
そんな場を飛べることこそこの烏が現し世の生き物でないことの証ではあるのだが、しかしそのあまりの孤高に小蒔は感ずるところがあった。

『あなたも、淋しいのですか?』

烏が往くのは青と白の世界。少女が佇むのは朱と白の結界。
大きく違う二《《柱》》の環境は、しかしぴたりと少女の胸元にて重なる。

だって全くもって、それは隣に最愛が居ないところがそっくりだったから。

烏は頷くことも頭を振ることもなく、そのまま黙って天を行く。
雨雲に蓋された大凡は、どれもこれもが暗いばかり。しかし仰ぐにはお天道様が眩しすぎて、ならば隣を見ても青しかない。
そのうちにこの烏の旅の終わりが来るのか不安に思い出す小蒔だったが、しかしそれは意外にも直ぐに訪れた。

『あら?』

雲に、切れ間。
烏がそれを見つけたかと思うと、視界の変遷は目まぐるしく進む。
光を背負いながら雲に飛び込むように、彼は地へと飛び降り行く。その速さは雨の粒を追い越し、尚早くて。
瞬く間に三本脚の彼――|八咫烏《導きの神鳥》――は瞳にそれを映した。

見えたのは、立派な校舎。白いそれが掲げる横断幕には誰々が全国大会に出場したと記されており、所属として印字された部分には白糸台高校ともあった。
小蒔がここのところずるくも休んでいる永水女子高校とは少し趣の異なる全体に一瞬、目を引かれたが次に。

『ああやっと――――見つけました」

太陽を見上げて目を細める変わってしまった/変わっていない彼の姿を認めて、目を覚ますのだった。

 

「彼の下に、行きます」
「小蒔ちゃん……」

遠く、決定事項が姫の口から放たれる。
それに従えないのが何より辛いのだと、少女は畳の目に立てた爪で主張した。

神代小蒔は、正しくない。むしろ間違えていることなんて、彼女に従う六女仙の皆全てが知っていた。
でも、だからこそ神様のようなのに可愛らしいとして彼女らは彼女を愛していたし、その過ちを皆が許していたのだ。
だが、此度小蒔は神秘を持って度を越した願いを叶えようとしてしまった。

それこそ、普通の男の子と普通に幸せになろうなんて、そんなあってはならないこと。

貴女はだから姫様なのだと悲しむ一つ年上のお姉さん代わりである石戸霞は目を伏せながらこう続けるしかなかった。

「そもそも、彼との出会いはほんの一時のものでしかなかったじゃない……」
「そう……だったのかもしれませんね」
「ならっ!」

霧島神境は、山から入る奥の山。
あらゆる神域と繋がる大山として信仰されるが、しかしそれは反して《《招かれざるもの》》をも容れてしまう可能性があるということでもあった。
あれは一夜の夢であったのだと、何度言い聞かせたことか。そもそも、彼にだって今でなくてもいずれ忘れるに違いない過去でしかないのだ。

「でも、私には永遠でした」

だが、それでも。
少女は両のおさげを解きながら、そう淡々と告げた。

京太郎。情によって洞と領域を安安と越えてきた優しき少年。
彼は決して、小蒔に神を求めなかった。そして人としての小蒔だけを求めて、でもそれだけでなく。

『おじいちゃん、おばあちゃんが居なくなって……ずっと淋しかったんだ』
『……そうだったのですね。私も……そうだったのかもしれません』

ぎゅっと、幼さと稚さを手のひらで精一杯に結びながら、二人は互いの種類の違う一人ぼっちを共有した唯一無二だったのだ。

神代小蒔は、だからこそ《《すが》》るように恋をする。
私のためになるあなたを、あなたのためになる私を。そんな風に境をごちゃごちゃにしながらも、ただ一つ今再び一緒になりたいと熱を持つのだった。
神に捧げるための衣を解いた小蒔は、霞を眼下に置いてこう続ける。

「私はだから、確かめなければならないのです」
「それは……」
「京太郎君……彼に私が未だ必要であるかということを」

彼は太陽のような永遠の炎。一人ぼっちの私に対する永久の助けだった。なら、この苦しいまでの想いを僅かでも返さずには居られるだろうか。
そんな風に、小蒔はたった一人の星を見上げる同胞を心の底から愛していたのだった。

改めて、その瞳の真っ直ぐさを見て取り、見返すことも出来ずに視線を逸らしながら霞はこう言う。

「もし……彼が小蒔ちゃんを忘れていたら、どうするの?」
「それなら、それでも……いいでしょう」
「そんなのっ!」

激情に涙一つ。何もかもが思い通りにならず、お姉さん代わりは怒りをすら露わにする。
噛みしめるように、呟いた小蒔の是認。それが、本来迎合すべき立場の霞にはあまりに認め難くって。

好きで好きで幸せにしたくて、でもそれらを収めてしまえるくらいの好きなど、少女には理解できない。
霞にとって、小蒔の想いは良くも悪くも花である。
綺麗で誰からも愛されるべきフラワーブーケ。
それが披露されることすらなく押し込められるなんて、可能性すらあり得なかった。

「小蒔ちゃん……それだけは、ダメ」
「……霞ちゃん?」

霞は思う。この神のような子は故に決して人として幸せになるべきではないのだけれど、でもそれとは別に恋を叶えて欲しくもある。

『京太郎君……京太郎君を返して下さいっ!』

だって、それはこの神様にその身を受け渡してしまえる程に自我の薄かった小蒔のはじめての《《乞い》》だったのだから。
この一瞬、立場なんて重荷どうでもいいと霞は思えて、故にただの姉のような人として彼女はこう語るのだった。

「貴女は二人で幸せに、なろうとして……お願い!」
「霞ちゃん……」

少年少女の淡い情。大切な人のそれを邪魔した大人を、霞だって憎々しく思わないはずがなかった。
でも、立場と理想に押し込められ窮屈にも一言だって表せなかった、応援の言葉。
それは一度発してみれば思いの外真っ直ぐに、本当はただ愛すべきだった姫様の胸元に届いて。

「分かりました!」

小蒔はやっと太陽のように陰り一つなく笑んだのだった。

 

さて。改めて、神代小蒔は神のような人である。
とはいえ、あくまで基調が人であるからには、山にのみあるわけではない。そして、神秘が暴かれることなんて、茶飯事。幾ら彼女でも大昔でもなしに山間以外への距離の短縮は不可能ごとで。
つまり、どういうことかと言うと。

「それじゃあ霞ちゃん……白糸台高校っていう学校のあるところまでの行き方を教えて下さい!」
「はぁ……小蒔ちゃん。まずは、私と一緒に東京行きの用事を考えることからはじめましょうか」
「え?」

鹿児島から東京までの距離を女子高校生が移動するにはそれなりの大義名分や金銭が必要であり、それを用意するまでにはしばらく――夏休みまでは――かかるようだった。


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咲‐Saki‐1巻
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