第四話 ファンっすから

朝茶子 うつくしさ極振りのアイドル生活

ぱたん、と扉が閉じられる。それだけですべての無闇な緊張が解けるのだから、恐ろしい。

絶世に対する畏れから逃れられた後に、残るは男二人の無意味な沈黙。寡黙では決してない大男二人であっても、しかし開放からの快感はどうしようもなかったようだ。
全身から力抜け、どすり、と一番に偉そうなオールバック男性が大げさな柔い椅子に倒れるように座り込む。
空虚な王座。ついそうもう一人の巨漢は思ってしまい、頭を振る。

この場所は田中勇作芸能事務所。先まで歓談が咲いていた筈の場所に、残っているのは今や男二人の無様。
社長、田中勇作は気を改めるように目下の芸人に向けて呟いた。

「……行ったか」
「そうっすね。行きましたよ……やっと行ってくれましたよ」
「やれ、男がいい女に対していい格好しいなのはどうしようもないな」
「はぁ。僕も、ついあの子に対しては緊張を隠せないっすよ。僕、デブ専なんすけどねぇ……」
「私だって、妻一筋さ。だが、そんな拘り全ては、小賢しい我慢でしかないのかもしれないな……」
「認めたく、ないっすけどね」

元プロ野球選手、でありながら現役時代の通算ヒット数よりも芸人としてのヒット数の方が多いのではという異色の社長は、アレを何より美しいと思ってしまう自分に苦しむ。
そして、肉々リュウハこと山田輝(ひかり)は、自分の持ち前の愛してやまなかったはずの脂肪を両手で救いを求めるように掴みながら、その無意味さを思うのだった。

ああ、恐れ多い、ミューズ以上。あんなものの前では、我を忘れて目を閉じるばかりこそが正しい対処法。
またあれと波長が合ってしまったことも、我らの不幸だろうか。過たず、男たちは彼女の本質を見て取れてしまう。
有能というべき、人を見る目。そんなもの、抉って捨てたいと、初めて彼らは思うのだった。

「にしても社長、どうしてあんな子、見初めちゃったんすか?」
「いや、解像度の低い写真だと、まだマシに見えたんだよ。だから、人間として祀り上げられると思った」
「そうしたら、それこそ異世界の邪神みたいなホンモノがやってきたってオチっすか。僕、後輩のバーターで呼ばれるの嫌なんすけど」
「けれども、その未来は確定的だ」

目を閉じれば、まざまざと想像できる。アレを直視した幾らかが心狂わせて彼女を有名、いや高名にさせるために血道をあげること。
すでに、渡辺まこに至っては手遅れ。あの片桐朝茶子のシンパは、たとえ死んでも彼女のために尽くすことだろう。
そして、トップアイドルになったアレの先輩として自分も有名に。そんなのクソッタレと思うが、しかし最早異常の蠕動は止められそうにない。
最早、時すでに遅しという感がある。でも、改めてこれからきっと過大評価をされ続けるだろう肥満体は、見せかけばかりの強靭さを保つ男に聞いた。

「これ聞くの何度目かと思いますけど……あんなの、世に出しちゃって大丈夫なんですか? グロ画像より規制すべきって思うんすけど」
「美は規制できるものじゃない。そして、私は彼女の夢を叶えてあげたいと思ってしまった、遠くで見て聞けば愛らしいものと勘違いしてね」
「愛なんて響くわけないっすよ、割れ物に」
「キミは察しているか、あの子の壊れを」
「そりゃ、脂に負ける自己を持つ人間が普通なわけないっす」

口を開けば、本音ばかり。高い音色を垂らして彼女は笑う。陶器地味たその異様な創り込みをされた見目にて、笑顔すら邪魔なものだというのに。
しかし阿呆にも彼女は嘘を言わない。そして、あたしはダメだと勘違いを続けるのだった。

ああ、最早ダメどころか美の終着点だというのに。あの嘘つき女は金の卵と嘘を吐いたそうだが、生まれない静物になんの価値がある。
そんなの見て、愛されるばかりが精々か。なるほどしかしそれを思えば彼女もアイドルにはふさわしいかもしれない。とはいえ、偶像が現実にいられても、困るばかりだが。

山田輝は頭を抱える。どうしてあんなに綺麗に歪んだ。もし、あれが悪ならどうしようもあったのに。そう思う。
懊悩を察し、勇作は空に言葉を向ける。

「あれでいい子なのが、たちが悪いな」
「たまたま、いい子で固定されてるだけと思うっすけど?」
「それでも、愛すべき心だ」
「まあ、確かに先輩の義務感ばかりで僕も構ってあげてるわけじゃないっすけど……」

美しいばかりの姿に目を瞑る。すると、中々に面白いとも思えた可愛いとすら感じる。だから、更に見てられない見目になってほしいと、彼女を台無しに太らすために奔走もする。
けれども、片桐朝茶子は、おそらく不変に近い。そう、夢想できて確信してしまうくらいには、人間離れしていた。
ああ、あれが余計な運動や思考などが不得手なはずである。まるでどう見たところで、あれは生き物に向いてはいないのだから。

別に嫌いではない。だがそんなモノに先輩面をするのは、流石に出過ぎではないかとも思えてならない。
お笑い芸人なんて単純な心である方が長持ちするだろうに、また嫌に複雑に変化してしまったものだと、輝は嘆いた。
諦めるように、彼は思ったことを尋ねる。

「ガッコウとか、普段どうしてるんすか?」
「とある女子が付きっきり、だそうだ。家でも似たようなものらしくてね。徹底的に管理されていたそうだ」
「いや、芸能のイロハどころか有名人殆ど知らないこと箱入りは察してたっすけど……それが、どうして急に?」
「それは、不明だ」
「社長でも肝心なトコでダメっすか……」

使えねえ、とは流石に輝も言えなかった。実際、あの子が来る前はこれ程ないくらいにこの人の辣腕に助けられていたのだ。
この厳しい顔立ちが嘘のようにクリーン極まりない、性根。また厳しくも優しさを備えて尊敬までさせてくれた。
自分は当たりの事務所に来たのだ、誇らしい。だから、次にアイドルを育てたいという考えだって大いに賛同できた。だって、この人に依れば、誰だって絶対に幸せになれると思ったから。

しかし、現実は違った。どうしようもないくらいにアイドルでしかない極まりを間違って社長は見初めてしまい、その性根の真っ直ぐさから見捨てられずに。
ああ自分はきっと、これから大変だ。あの子はおそらく喰い散らかすぞ。愛とか恋とか、そんな些事をバラバラにして、光を一人だけ浴びて嘘のように輝くのだ。
その後の始末もケアも、きっと辛い。
でも。

「まあ、僕はこれでもお笑い芸人の端くれっすからねぇ……」
「そうか……」

そんなあの子の美人が台無しになるくらいに笑んでもらいたい。そんな夢を持ってしまったから。

「本心からの笑みって奴を、あの子に見つけてもらうまでは、ここを辞めないっす」

そう。今日も何時ものように纏ってきた、誰かの写しの表情。そんなものしか片桐朝茶子というアイドルには貼り付けられないなんて認められない。
何しろ、山田輝、いや肉々リュウハは知っている。あの子が自分なんていう笑われても仕方ない負を目にして。
可愛いです、って本心から言ってくれたことがどれだけ嬉しかったか。それにどれだけ救われたかなんて、誰も知らないだろう。だから。

「ファンっすから、応援くらいしますよ」

胸に手を当て、まず感じるはぶ厚い脂肪。しかし、その奥でどくんと脈打つ鼓動。
世界の寒さから守るために付けた滑稽さの奥にある、それだけは彼にとって確かなことだったのだ。

「ああ、頼んだよ」

だから、そんな男の捻くれをすら利用するしかない伽藍の社長は、そうとしか呟くことは出来なかった。


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