右手左手を交互に突き出し、わんつー、わんつー。
さて。オレは実は意外な程に、人をぶったりけったりしたことなんてなかったりする。
いや、だって相手が痛いとか嫌だし、手なんて出さなくたってどうとでもなること沢山あるしさ。
もっとも、ばかさねちゃんだって聖人君子――せいじんきみことばかさねは読んでいる――じゃない。必要な時に拳をためらいはしない。
ただそれが、困った爺さんを正すために、っていうのが面倒だ。傍から見たら、老人いじめだよな。痛めつけるのはたるんだ筋肉だけでいいってのに。
まあでも、吸血鬼とか自称してるつよつよわるわる爺さん相手になら、弱パンチ連打くらいは許されるだろ。ということで、オレは近寄ってわんつーを繰り返すのだった。
「くらえ!」
「疾いな……」
丸く避けながらもジョンは、目をみはって驚いているようだ。いや、オレだって自分の拳の結構なキレ具合にびっくりしてるけれども。
パンパン音が後から聞こえるって、どういう理屈なんだろうな。音ってこんなに遅かったっけ。
そもそも、オレがここまでスムーズに突きを繰り出せるのがよく分からない。いや、もしかしすると。オレには心当たりがあった。
「オレ、これほどまでに漫才力が高かったのか……」
呟くオレの声は、はたしておののきに揺れていないだろうか。そう、オレはツッコミに関しては鋭いものがあると自負している。
なにせ、今も周りにボケボケな人間があまりに多い。それに、シモネタの帝王たる光彦の相方を前世は務めさせられてもいたのだ。何度、オレはヤツの言葉の訂正のために手の甲でツッコんだことか、数え切れない。
なるほど、知らずに上達するわけだ。間違えを正す。そのための拳をオレはこっそりと鍛えていたのだ。
そして、オレはジョンの優先順位の間違えを正そうと、声を上げるのだった。
「なんでやねん!」
「どうして急に関西弁なのか、とか拳が手の甲に変わったか、とかは聞かないよ……っと!」
「うわあ!」
しかし、ジョンも中々のツワモノであり、つれない。
引きずる片足をどっぷりと影につけたまま、僅かの動作だけで回り込んできたと思えば、今度は杖を持ってそれで突いてきた。
これは普通に危ない。全身のバネを使って大げさにオレは避ける。そして。
「うおっ、なんかすっごい滑る!」
自分の《《影》》に足を滑らせてすっ転んだのだった。お尻から、どすん。尾てい骨のあたりがとても痛い。
と、そんなこんなによって出来たのは、あからさまな隙。
当然、そんなものを見逃してくれるほど、ジョンだって真っ当にいいヤツじゃなくて。
「すまないね」
眼前に、杖の底。もう少しで擦り切れそうなゴムの先端が映った。
そういえば、オレは少し前にサオリさんから聞いている。ジョンは影を負う者という二つ名で呼ばれている、と。
なにそれ中二病っぽいな、とか言ってたら隣に居たイクスがオレの頭をぱちりと叩いてこう言った。
――あなたは全然、本気じゃないのねと。
その時、オレは、彼女の冷たい青い眼に向けてむむむと返したと思う。
思う。いや、思うだけだ。実際あの時オレは何を言っただろう。くらくらしてしまって、よく分からない。
でも、分かんないままでは嫌だ。だから、オレは。
「――――今度こそ本気に、なるぞ!」
くらくらする頭を左手で支えて持ち上げながら、影絵の中のような夜へと再び飛び込むのだった。
闇をざわめかせながら遠く、足を、いいや《《影を》》引きずりながらジョンは振り返りオレに言う。
「呆れた身体能力だな……もう少し昏倒してくれると思ったのだけれどね」
「寝たら起きる! 当たり前だろ?」
「そのスパンが短すぎてね……娘のための最適なゆりかごに傷をつけるのは嫌なのだが……」
「ふん! ちょっと傷ついたくらいでオレが止まるもんか!」
胸を張り、オレは言い張る。そう、ちょっと痛くたって止まるもんか。ジェーンの寂しさのほうがもっと痛い。
だって、オレは昔――前世――から親の愛を満足に得られない痛みなんて、よく知っているものだから。
でも、オレは新しい命にて、それを得られた。なら、同じようにジェーンも幸せになっていいはずだ。
だから、このわからず屋を止める。それに、迷うことなんてないんだ。
影を負う、ということはつまり影を操っているのだろうか。なら、あまり影に入ってはダメだな。
そう考えたオレは、ジョンの支配下になっているのだろう足を取ろうとしてくる自らの影を思い切り踏みしめる。
そして地を砕きながらジョンの元へとひとっ飛びに向かい。
「その通りのようだ。やれやれ、頑丈な創りの存在はこれだから困るね」
「なっ――」
その全身を、黒でぐるぐる巻きされて停止させられたのだった。
手が動かない。闇で錠されている。足が踏めない。闇に引き上げられていた。四方八方からそれは続いている。
そして、その闇は方方の影から生えるように伸び出てきていた。黒と黒で、闇と影は似ている。しかしかもすれば闇の方は影よりも昏いかもしれない。
これは、影を操っていたのではなく、ひょっとして。
「――影に、何かを潜ませてたのか?」
「ふうむ……それをひと目で理解できるとは、キミは賢いんだな」
「褒めるなってー」
当たり前のことだが、褒められた照れて頭をかこうとするが、闇がぎしりと音を立てるばかり。邪魔だなこれ。
こっそりとジョンが影に隠して飼っていたのだろう、アメーバみたいな闇の触手は揺るぎもしない。
これは、困ったな。
「余裕、というわけでもないのかな? しかし笑っている。……いや、キミは本当に不明だ」
「そうか?」
「どう見たところで同族で、しかし死んで、生きている。そして、バカみたいに単純に見えて、実は違う。それが人間に紛れているのが不思議で仕方がない」
「むむむ……」
本心から困った様子のジョン爺さんの前で、宙に張り付けにされているオレは、その言に悩む。
死んで生きている、ということを知っているということは、ジョンはオレのことをある程度知っているのだろうか。
でも、オレを人間じゃないと思っているし、バカみたいに見えちゃってるなんて目も節穴だしで、よくわからない。
「ま、いっか」
ちょっと、悩んで。そして吹っ切れる。傾いでいた首を真っ直ぐにして、両肩にツインテールを流したオレは。
「一回殴ってから聞こう」
本気を出した。
靭性、なんてよくわからない。硬くたって、それがどうしたのだろう。不自由なんて、もともとあんまり知らなかった。
「な――」
筋肉は足りない。しかし、鍛え方が違う。それにオレは天才だ。
そんなオレの本気の足掻きを食らって、よくわかんない闇は《《バカ》》になる。
一度力を込めて引っ張って、ブチン。二度目でずどん。ジョンという存在が負ってきた業を踏み抜いたオレは拳を振り上げて。
「えい」
「くっ」
避けられた。なら次は。
「わん、つー」
「ぐっ!」
当たった。あ、でも鈍いな。これはあの闇っぽいのをクッションにしたな。あんまり効いてない。
弱パンチじゃダメか。じゃあ。
「よっと……」
強キックだ。そうオレがくまさんパンツの暴露を気にせず足を上げようとした時。
「止めテ!」
オレらの耳は少女の必死を聞いた。
振り返って確認するまでもなく、それは正しい言葉。
「く……」
「おっと」
ジェーンの願いのとおりに止まる二つの影。
しかし。
「――あら、チャンス」
飛来してきた三つ目は止まらない。ひゅん、とそれは音すらほとんど殺してやって来た。
闖入するは、空飛ぶ吸血鬼こと、イクス・クルス。
初めて見る、彼女の風切る翼は何よりも鋭利だった。どう見たところで、それはすべての命に障りかねない鋭さ。
ぎらり、と刃は光を映す。
「さようなら」
それが大きく一振り。
オレの目の前で、ひどく赤い花が咲いた。
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