「ふぅん」
それは紅霧異変が発生する、10日ほど前。
いっそ嫌になってみたくなるくらいに尊い色をした広がる透き通った空のもと。
博麗神社に、久方ぶりに侍が訪れた。
本人は隠しているつもりもないが、実際ポニーテールと言うよりも髷の出来損ないといったざんばらをなびかせ分かり辛くとも、その性は女。
そして今も剣舞の音色を気にする紅い羽織に白袴の彼女の名は、明羅と言った。
「鈍いな」
だが硬質な物同士が弾け合う遊びの音色を聞いた鋭い彼女の感想は、そんなもの。
旧くからの技術を高めきった彼女からすれば、神をも裂けぬこんなものは鈍らどもがじゃれ合っているばかりとしかとれず。
「咲夜! もう、次で当たっときなさい!」
「嫌、です……夕餉の魚は死守しますっ」
「このー! 生意気になっちゃってー! えいっ」
そして、実態も彼女の感覚に似通ったものではあったようだ。
獣の俊敏にて猫又が鋼鉄のような爪を踊るように振るえば、巫女の乙女が過ぎた道具を持て余しながらもそれを下手に防ぐ。
互いに致命的な部位を狙わないからこそ、長引く戦舞。遊びだらけのそこに険は欠片もない。
これは先に姉のつもりである猫又、橙が夕飯を賭けて特訓しようと暇を明かして尻尾をゆらゆらやって来たのが事の発端だ。
「避けないでよっ」
「避けます!」
「可愛くないー」
「そんなの、私にはありませんっ」
「えー、昔はちっちゃくて可愛かった……わわ。危ないなー」
一撃ごとに一品という取り決めに、しかし実力伯仲であれば互いに掠める――グレイズ――ばかりが精々のこと。
そもそもこれが遊びと一人と一匹が理解しているのであれば、痛打すら狙うこともない。硬質が発する火花ばかりが宙を彩る。
正しくじゃれ合い。それに相当する訓練足らずを目にした明羅は。
「久しいな、今代の巫女に、八雲の猫」
こんなものは鉄火場足らず。まこと平和で大したことではないと、挨拶を優先することにしたのだった。
剣とまやかしの突端がぶつかり弾けて火花を散らし、彼女らはかけられた声に離れる。
そして、まこと怜悧と呼ぶに相応しい眼差しと二対の瞳がぱちぱちと向かい合い、そして。
「明羅さん……」
「わっ、時代遅れの侍人間! 生きてたのねーっ」
「ああ。残念ながら、こうして五体満足に戻ってきたよ」
その反応は裏表。
感動に止まる咲夜と違い、橙は天敵を目にしたと二つ尻尾を逆立てる。
しかし、愛に怒りに、そんなもの全ては明羅には柳に風。さらりと言葉だけを受け流しながら、一歩。
それだけで二人の間合いに迫っておきながら、何一つ構えはなく。
正しく子供らを相手にしないそれを見て、博麗咲夜は頬を興奮に赤くし、変わらぬ懐かしさからこう呟く。
「良かった……っと」
「いいわけないでしょ、咲夜っ! 私がこいつにどれだけしてやられたか忘れちゃったの?」
「それは……」
「言い淀むな、我が弟子。勝手に自滅し続けたお前が間抜けなだけだと、橙に真実を伝えてやるんだ」
「なにおーっ!」
馴染みに情を交わさんとする人の間に入って化け猫はやんのやんの。
敵わなかった思い出ばかりを持ち出して、湧き上がる怒りに我を忘れて己の疾さに身を任せる。
それは、ケダモノの速度。激情に身を任せたそれは無軌道に爪を振るい、加減なんて少しもされてはしなかったのだが。
「くっく……」
「くうっ!」
そもそも、その行動の《《起こり》》に尽く邪魔が入れば少しも上手くはいかない。
機先は制され、爪が届く前に手首に鞘で痛打が二つ。それを気配なく行われたのだから、橙もたまらない。
ついでと言わんばかりに鋼にも突き刺さる筈の妖猫の爪を指先で撫でるように導き、明羅は転がした。
「凄い……」
「っ」
石畳を転がる姉貴分に、彼女に対する心配よりもやはり明羅はこうでなくてはと思ってしまう咲夜。
憎き敵の横で輝く瞳の前に、ますます苦い顔する橙を見下ろし、明羅はこう煽る。
「修行も足りなければ、実力の程すらも分かっていない。橙よ……お前はこの数年で何を遊んでいた?」
「このっ、なら本気を見せてあげる、いくよっ前鬼……」
「姉さん、それはっ」
そして橙の怒りは、度を越した。
途端に彼女がどこからか取り出したのは式神を操る、符術。出だそうとしたのは、またどこかの修験者から貰ったと己を操る狐から聞いた上等なもの。
少女の持つお符から悍ましい程の妖気にプレッシャーが溢れ出し、つい咲夜が手を伸ばしたその時に。
「止めるんだ、橙。式の分を越えてはいけないよ?」
「ら、藍様っ!」
こうなることだって計算済みの九尾の妖狐がそれを握りつぶして止める。
暴れる妖気は、とてつもないものに潰されることで形になることなく符の中に戻った。
「ご、ごめんなさい……」
命令外行為。となると、式の橙が血相を変えて慌てるのも自然。どうお叱りが来るのか黒い耳をおろして目を瞑る彼女。
だが、足音はその隣を素通りしていく。
「――――そして、久しぶりだね、明羅」
そう、笑みを称えた八雲藍は可愛い橙の粗相だってどうでもいいのだとばかりに、明羅を細めた目に容れる。
「はっ、藍か」
対して侍も、つわものの登場に、獰猛にも笑った。
藍も旧き縁の対等の者の登場に、ついついと言った風に頬を綻ばしてしまう。
紛れもない笑顔で、彼女らは向き合った。
「界を越えて旅立った貴女が戻ったとなれば、紫様がこの場にいらっしゃったらお喜びになられたと思うが……」
「しかし、あのスキマ妖怪は何処にでも現れることが出来るのに、ここにない。なんだい。そんなにアイツは不貞腐れているのか?」
「ああ……紫様はまるで《《運命》》を狂わされているようだとすら述べていたよ」
「己の光明に運命とはまた大業な物言いだ。知恵者ほど先を見たがるが、しかしそれは今を生きぬことと同義と言うのに、全く嘆かわしい」
「はは……耳に痛いね」
悟った言葉についぴこんと耳を動かす、大妖。考えることは得意であっても、確かにそれに囚われるようでは愚だ。
賢者は、大概において覚者に弱い。そして、この二人の関係は全くその通りであり、故にこそ言い負かされる九尾の狐なんてものが見て取れる。
「流石……」
呟いてしまう咲夜とて、母親代わりの一人である藍がやりにくそうにしているのを歓迎しているという訳ではない。
だが、でも見惚れてしまうのは止められないのだ。
ああ、こうなりたいと思える瀟洒を越えた泰然。
刀を帯びるものとして最高の存在を師と出来たのは、私の数少ない幸運の一つだと咲夜は改めて理解するのだった。
「それで今日は何用だい? また滞在する予定ならばそれなりに用意する必要があるのだが……」
「当然。私は博麗を貰いに来た」
「それは……」
しかし、藍の疑問を前に明羅は相変わらずの望みを口にする。
彼女は博麗の秘宝であり、そもそも博麗の価値そのものである秘宝、陰陽玉を手に入れたいと、頑なだった。
そして、それは今も変わらぬ様子である。
口ごもる藍。彼女は恨みがましく咲夜を見つめる。
実際咲夜こそが陰陽玉に未だに認められず、むしろ何処かに消え去らせてしまっているという前代未聞の巫女だ。
今の博麗は未熟だから仕方ないかと、明羅が諦め去るくらいには巫女として足りないばかりの少女。
そんなしかし博麗の咲夜は、きゅっと口の端を結びながら、憧れの人にがっかりさせてしまうことの恐れに耐えつつ、こう言った。
「ごめんなさい、明羅。私はまだ陰陽玉に認められていないの」
「ああ。恥ずかしい話だが、その通りでね。咲夜もまあ咲夜なりに務めてはいるのだが……ここに明羅の望むものは未だに顕れていないよ」
咲夜は己の物足りなさに恥じ入り、穴があったら入りたいような気持ちになる。
そして、任されたのに巫女をろくに導けていない藍も己の不足に沸き起こる怒りを隠すが。
「それは妙だ」
しかし、侍は空隙ばかりの青い空を見上げながらそう呟く。
ちらと咲夜を見て、そしてまた一歩。
それだけで距離をあり得ざる程縮めた明羅は、それこそ目の中に彼女しか入らないくらいに近くにあって。
「咲夜ほどの巫女が博麗でないのは、あり得ない」
「え?」
間近で、そんな嘘のような言葉をかけてくれたのだった。
手慰み。そう言わんばかりにおもむろに銀の髪散らかる頭頂に置かれた手のひらはしかし優しく左右に動いて。
「――――よく頑張っていたようだな、咲夜。目を見れば分かる。私は師として誇らしいよ」
顔をおろし、真っ直ぐ眼と眼を合わせながらこの《《月を支配する天使》》を斬ったという最強の剣士がそう言ってくれたから。
「う、あ……ああ……っあああっ!」
「よし、良し」
今まで泣きも喚きもすることなく努めてきた彼女は嬉しくて泣き叫ぶことが出来たのかもしれなかった。
やがて、誰もが寝入った夜の縁側に虫の声影二つ。
「はぁ……あの程度の出来で調子に乗られたら困るから、あまり咲夜のことは褒めそやして貰いたくないのだが……」
「いや、あれは本心だ。あやかしには不足に見えたところで、咲夜は十分博麗に足りている……それこそ、私があの子を斬りたくなってしまうくらいに」
「なら、つまり……」
理解に、息を呑む音。そして女侍は曇りきった空に見えぬ歪んだ月を見上げて。
「答えは、単純。どうやら上には上がいるようだ……っ」
「な」
途端に揺れる、鯉口。空を疾走る銀閃によって切り裂かれるは幻想郷という空間。
驚く藍は他所のこと。そして、べろんと表れたその《《スキマ》》の先に。
「ふぅ……」
「だろう、紫?」
眼と眼と眼と眼。理解不能を視線で表現したその中心に瞑目していた狭間の美人、八雲紫はあった。
数多の視線中少し経ってぱちりと開く、八雲の端の深き色。そして、彼女は彼女と向かい合い語り合う。
「ええ、だから私はあの子の未来に期待しているわ」
「なるほど。今はそのための試練か……反吐が出る」
「お優しいこと。貴女ばかりはただ身綺麗にしてばかりでは明日はないと分かっている筈でしょうに」
「識っている。だが、何であろうと私だけはあの子の味方だ」
「それでいいわ。存分に人間ごっこを楽しみなさいな《《水月切り》》」
「《《ヘルン》》。お前こそ、妖怪ぶるのも程々にな」
そんな言葉を交わす二人に、情の色は欠片もなく。
「ふふ」
「はは」
ただすれ違うばかりの決意ばかりが強く、闇夜に火花を散らしたのだった。


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