愛に肢体は要らない。誰がそんなつまらないことを言い出したのだろう。
心だけでは足りない。あたしは彼女の全てが好きだった。
亜麻色の柔らかなその髪に、チョコレート色の肌がお似合いの、芳しき伽羅の少女。水野葵はそんな女の子だった。
日向にあって誰にも優しく馴染む、小さな木陰。あたしは、葵をそう捉えていた。
あたしはよく、彼女と話した。好きに嫌いにどうでもいいを。そんな話芸にならない未熟の会話で葵は、ころころとあたしの前で笑っていた。
葵は、人が好きだ。愛され方を知っている。そしてだからこそ、彼女はあたしの愛をすら拒まなかったのかもしれなかった。
そう、一年ほど前に、微笑みながら、葵は緊張でとっ散らかしてばかりのあたしの告白の言の葉の一枚一枚を丁寧に集めて、頷いてくれたのだ。
それからずっと、あたしと葵は恋人同士だった。
女の子と、女の子。そんなの良くないかもしれないのだけれど、良いものばかりで人間が出来ているわけでもない。あたしたちは間違って、恋をした。それでもいいと、笑み合って。
チューリップ畑の横で、額と額をくっつけあった。ひまわりと背くらべをするあたしを、葵は手のひらで愛でてくれた。窓際のコスモスにそっぽを向かせて、ついばむようなキスをした。
そして、梅の花が咲くその隣で、あたしは葵を失った。それは、ひと月も前のことだった。
「もう、そんなに経つんだ……はは」
だから、そう。本当ならばあたしが葵のことを思い出すに、悲しみ混じりであって然るべき筈。
それなのに、あたしは未だに葵のことを考えると、ぽかぽかと胸が温かくなってしまうのだ。情緒を崩してはらりはらりと涙を溢しながら、あたしは彼女が残してくれた温もりに、感謝する。
なればこそ、安らかに。あたしは天国の葵のために、手を合わせた。あたしに幸せをくれた貴女も、向こうで幸せであってね、と願って。
そんな風に、部屋でまた彼女のことを偲んでいたら、ノックが三回。控えめなそれを受け、ごしごしと目の周りを擦ってから、あたしはいいよと彼女の入室を促した。
「なに?」
「お姉ちゃん……大丈夫?」
蛍光の明かりの中で、柔らかさばかりを身にまとっているような乙女がしゅんとする。絹の親愛に、どうしてもあたしの心はくすぐられてしまう。
こんな愛らしい子があたしと血がつながっているなんて信じられないなと思いながら、あたしは努めて笑みを作った。
「大丈夫に決まってるじゃない、アヤメ。おねーちゃん、そんなに軟に見える?」
「ううん。でも……お姉ちゃん、水野さんのことになると、ちょっと……」
彼女、あたしの妹、日田アヤメはあたしに似ないすらりとした長身を揺らして、言いにくそうにする。夜の色をした黒髪が、はらりと別れた。
あまりあたしの周りの人は知らないけれど、アヤメはあたしと葵の関係の本当のところを知っていたのだ。だから、こうやって気にしてくれるのだろう。嬉しくて、あたしは笑みを深める。
「そっかあ……心配させちゃった?」
「うん……」
「あはは。大丈夫だよ。ホントのところ、あたしそんなに辛くはないから」
「……そう?」
首傾げるアヤメに、あたしは目を細めた。身内びいきもあるかもしれないけれど、彼女はとても美しい少女だ。それも成長途中。
眩い可能性の塊の優しさに、あたしは喜びを覚える。だから、あえて突き放すようにあたしは言った。
「あは。もしかしてアヤメったら、少し前まであたしが貴女と一緒じゃないと寝れなかった期間に、添い寝に味しめちゃった?」
「そ、そんなの……」
いじわるなあたしの言葉に、うろたえるアヤメ。まさか、そんなことはないだろう。幾ら優しい彼女であっても、鬱陶しく縋り付く姉に喜ぶことなんて、きっと。
でも、それでもアヤメがあたしの温もりを欲してしまうことを、あたしは知っている。
それは、あたしが彼女に注がれる筈だった愛情の代替を与える役目になっているから。親代わりの姉。そんなものでも、アヤメは大切にしてしまう。
今も、白磁の指先同士を絡ませながら、頬に紅咲かせ期待を持った表情で、妹はあたしを認める。
そんな歪に付け込んでしまうあたしは愚か。だけれど、やっぱり寂しいから。あたしはこう言ってしまうのだった。
「あはは、冗談。でも……うん。今日もそうしたいなら、いいよ?」
「いいの?」
「うん。あたしは、いなくならないから」
「……うん!」
途端に笑顔の花を咲かせる、アヤメ。柔らかきフラワーブーケの少女は、きらびやかにあたしを愛で包む。
そこに葵と全く重なり合わないアヤメの綺麗を見つけ、何となく、今日はよく眠れるかもしれないな、とあたしは思うのだった。
日田アヤメは、実の姉である日田百合のことが大好きだ。
恋しくも、愛おしく、憎らしくすらあった。それほどに、想いがある。切ないくらいに、それは止まってくれない。
「お姉ちゃん……」
だから、こんな真っ暗部屋の中。感触だけで受け取る姉の柔らかさに、こうも心乱されてしまうのだ。
矮躯とも言うべき頼りなさに縋り付くように抱いて、まるで死んだように寝入る百合の横でこじらせた想いを揺らがせる。
アヤメが物心ついた頃に、もう両親はいなかった。家には姉と、叔母の二人。
そして、これでせいせいしたと、一人で家事が出来るまでに成長した百合に叔母が吐き捨てて出ていったために、アヤメが頼るべきは必然的に姉一人となった。
最初は、心細かった。こんなに、触れれば折れてしまうような儚げに、その身を預けるのは怖くって。
しかし、そんな遠慮はどうでもいいと、百合はアヤメを引っ張って笑った。
追いつくために走って、転んだ。そうして、アヤメは空気の美味しさを知って、痛みの大切さも理解したのだった。そうして彼女は広い世界に浸潤していく。
やがて、人の輪で温もりを当たり前にしてしまい、一時アヤメは百合を蔑ろにしていた時期があった。優しさという低刺激を嫌った少女の反抗を、姉はそれでも無視せずに愛してくれたのを、妹はよく覚えている。
そんな複雑な想いが致命的に絡む契機となったのは、アヤメが壁に記した姉の身長と背比べをしてみて、勝ってしまった時から。
淡くて脆い、シニャックの絵のような百合の微笑みを少し上から見つめて、アヤメは溢した。
『おねーちゃんって、ちっちゃいんだね』
『あはは。アヤメったらあたしが気にしていることを、言ってくれるなー』
『えっと、そうじゃなくって……』
ぷんすかとしている姉の前で、アヤメはそうじゃないと慌てる。そう、違うのだ。
かの点描を彷彿とさせる程、アヤメにとって百合は光の印象でしかなかった。だが、これからそれから少しだって離れたところからそれを見るようになるなんて、それは。
『いや、だなぁ……』
そう、本心からアヤメは思う。自分の世界は思っていたより愛で溢れていた。でも、それが愛であることを教えてくれたのは、最初の優しさはやっぱり姉によるもので。
その光から、遠ざかるのは、成長して縋れなくなってしまうのはどうしても辛い。
だからぽろりと、目から雫は落ちていくのだ。瞬いて、それは輝きとなって主張した。
『ええっ、泣くほどおねーちゃんが小さいことが嫌!?』
『違う、違うの……ううぅ』
妹の泣き顔に慌てる姉に、アヤメは温もりを求めて、百合を抱きしめるのだった。
それから幾年も、過ぎた。時間が経てば心は変わるもの。合間合間に光から隠れるようにして、アヤメの想いは深まった。
姉に求めるのは、愛。それ以上は要らない。それだけでいい。
ただ、最近一つ、アヤメは百合にして欲しいことが一つ出来た。
「むにゃ……」
「……私を無茶苦茶にして、欲しいな」
喃語のような言葉が姉の薄い唇から溢れるのを聞きながら、アヤメは少し危ないことを口にする。
暗がりの中で求めるように、彼女はその長い足を絡めた。布団が擦れて、ごそりと中身が身じろぐ。
「もっと、私を……愛して」
そして、眠っている百合の耳元にアヤメは囁く。
家族の愛。そんなものはもう結構。
貴女は私をとても大切にしてくれた。優しく、柔らかに私を育ててくれた。でも、もういいの。充分。熟したりんごをむしり取るように、私を。そうして遠慮なく、齧りついて。
アブノーマルにもアヤメはそう、思う。思ってしまうのだ。
「あぁ……」
だから、ついつい縋る姉の頬に手を這わせて、口元を探ってしまう。
漏れる吐息。我慢のために噛み締めた口の端の痛み。それらを覚えながら、彼女は彼女の柔らかな唇に指先で触れた。
一拍。そうして、齧ってもらうためにそこに口元を重ねようとしたその時。
「葵……ごめん……」
姉は、そう言った。彼女の頬に溢れた涙の冷たさに触れた妹は、動きを止める。
「お姉ちゃん……」
もがくようにアヤメはそう口にした。
思い返すは、恋人が出来たと喜色満面の笑みの姉に、笑顔の仮面の底から自分を見つめる無色透明の視線。
あんな気持ち悪い女はもういない。だというのに、大好きな人をアイツはこうも苦しめる。アヤメは、心を奪ったまま死んでしまったあの女のことを、一生許さない。
「ごめんね」
だが、そんな怒りなんて最早どうでもいいことだった。今、百合を慰められるのはアヤメ一人だけなのだから。
アヤメは奪うために頬を愛でた手のひらを疾く涙の受け皿と変えて、発達してきた胸元にて姉を安らげさせる。もう、胸は弾まない。ただ、姉に安らいでほしいから。
そうして、アヤメは百合の唯一人の家族に還るのだ。
「むにゃ」
「ぐう……」
やがて、温もりに境界を忘れ。次第に二人、深く眠り入っていくのだった。
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