「が、あああぁああっ!」
「あれ、うるさいよ?」
静寂は切創により死ぬ。少女の開いた口からおおよそ人の発するものではないような悲鳴が轟く中、罪悪滔天。
切り裂きジャックのお姉さんは、慈悲もなくただ当たり前のように両足を失った華子の口元へ小ぶりのハサミを一直線。舌でもちょきんとしてしまおうかというその所作は止める隙も暇もなく、ジャックは正に残酷な切り取り線だった。
そして、ハサミは閉じる。
「あやや?」
しゃきしゃき、かちり。彼女はあまりに軽い感触に首を傾げた。
「お前っ……!」
僅か近くで、赤いサスペンダースカートがひらり。ハナコが鋭く怪人を睨む。
そう、ジャックの掻き切る行為の結果が伴わなかったのは、ハサミが閉じる前に持ち前の俊足を発揮しハナコが華子を奪取したため。
口裂け女の噂と同調している少女の足は一つ跳んで路を蹴り、二つ跳んで屋根を踏み、三つで飛んで空を舞う程のもの。そのためハナコも速さには相当の自信があったのだが。
「っ」
朽ちたアスファルトの黒にぽたり、ぽたりと血液二つ。口裂け女の花子さんは、自分のものだったハサミが人心に呪われて凶器となって手の端に切り傷を刻んだことに、遅まきながら気づく。使い込まれた鋏の柄のキリンの首は、いつの間にかもげていた。
「か、華子……」
だが、そんなことよりもっと、強く胸に抱いた何よりも大切な少女のことが、心配である。
目は閉じている、血は流れている、鼓動はあった。あまりに弱いその高鳴りばかりが救い。
「お願い、お願い!」
ハナコは随分昔に舌を出して別れた神にすら華子の無事を祈る。そして疾く、ずたずたに斬られた足首を、スカート破きその布切れを用いて止血をはかった。だが、止まらない、温もりが、命が大切なものがどんどんと地を赤く汚していく。
ああ、まるで広がったそれは赤いマントのように、染み込みこの世を穢していく。なるほど、これこそが私の業なのかと花子さんは思わずにはいられないのだけれども。
「それでも、貴女だけは救わないとっ」
しかし歯を食いしばって、大切な契約でもなく心からハナコは華子を救おうとし続ける。強く強く、懐いて縛ってもう二度と離さないようにと。
廃墟に積もるは魑魅魍魎。隙間を埋める妖怪崩れの跳梁跋扈に、情愛なんて全く持って似合わない。グロテスク達はあざ笑い少女たちの死ばかりを願う。
そして、周囲の薄汚さを睨んでいた彼女もここでぐろりと瞳を向けた。ジャックは、戯けるようにして言う。
「ん? おやおや、邪魔をしたのは、私めにハサミをプレゼントして下さったマドモワゼルではありませんか? ご覧のように、とても有効的に活用させていただいていますわ」
痩躯を抱く、矮躯。幼気な子供たちの庇い合いは、バケモノのレンズにはごっこ遊びにしか映らない。はいはい素敵ね、でもばっちいから別けてあげる。そういう想いしかもう切り裂きジャックには沸かないから彼女にも不思議だった。
首を傾げて頭を横に。すると垂れたお下げ髪を認めた彼女は偏にちょきん。
バラバラになって落ちた女の子らしさににこりとするジャックを目に入れ、花子さんは少女を庇いながらも問わずにはいられなかった。そのあまりの無惨な替わりぶりに愕然として。
「貴女は……何?」
「そうね。私は吉田美袋と名乗っていただけの、切り裂きジャック。美しき袋の中に隠れていたのは、血まみれの男の子だったのかもね。くひひひ!」
少女はとっくに堕ろしたお腹を撫でながら、そう騙る。
私も彼も、父も母も、ああ、変わりゆく何もかもがおぞましかった。愛だった筈の全てが汚らしくてばっちくって、切り裂きたくなるようなものばかりで。
だから。
「もうこの世は愛せないよ」
ずっと全てが綺麗と思い込もうとしていたけれど、赤津晴太が出会った時にはもう既に少女は限界だったのだ。そして、救いになるかもしれなかった青年が実は人でなしでしかなかったのなら。
ああ、産まれるはずだったあの子はもう居ない。なら、もういいや。諦観。それこそがお母さんになれなかった少女が男子として鋏を操る理由。
「ジャック、名無しの権兵衛……貴女は」
「ねえ」
「ぐっ!」
「あんたは救えないよ。あんただけは、救わせないよ。くひひっ」
そして、そんな壊れた彼女の前に愛を置いたらどうなるのかなんて、自明。ましてやこのちっぽけなものが、嘘でも恋していた男の子の本当の懸想の相手だとするなら、手に余計に力が入ってしまうのも仕方のないことか。
庇うために、抱くハナコ。その身を刃が侵略し、挟んで割いた。ぐずぐずとなった身が、赤を纏って弾ける。
「そういう、こと」
身が削れ、命が飛び散っていく最中、今更になって生きていることの悪にようやく報いが追いついたのだと知る。悪因悪果、因果応報。どちらもハナコにとっては選びたくないが、しかしその四文字に納得はいく。
少女は死にたくない、という当たり前の思いを押し付けてこれまでどれだけの命を食んできたか。怪異だから、悪だからという文句はなんて通じない。だって、この人でなしだって考える葦の一つ。或いは隣人を想えたというのに。
そうしなかったから、今更にこうなった。それは、仕方ないと諦める心はトイレから離れて自立して久しい花子さんにもあった。
「でも関係ないよね」
「……っ」
もう守るための肉もあまりなければ、命だって不足している。ならば、名残惜しけれどもやっと大好きになった少女をハナコは遠く離す。
刃から離れた華子は、起きぬまま重力に負けて一度だけ弾んでその場に安堵された。
「……生きていれば、死ぬ。ただそれだけ」
頭を何度強かに斬られればこう目の中までも粘りに侵略されるのか。赤はそろそろ限界を超えている。庇い続けるために持ち上げていた手は片方どこかへ飛んでいき、もう片方は上がらない。そんな中、誰かさんのような諦観を、少女はただ口にした。
「嫌だなぁ」
「そっか」
続いて隙間なく、口から吐いて出てきた感想に、頷き一つ。目ざといそれは、刃先を槍のように真っ直ぐ向けて、ハナコの顔面を貫かんとした。
ぐらり、と痛苦に彼女が揺らいだのは幸か不幸か。ジャックの凶器はハナコの切れ目が入っていた頬の肉の大部分を弾き飛ばした。
「ああ……」
「さようなら」
そうしたら、もう彼女は形から入ったばかりの口裂け女ですらない、ただの死に体の少女。か弱い、終わる寸前。別れの文句は、唯一無事だった耳朶の奥に強く響いた。
「ぐぅっ……」
そのくぐもったような声は、唯一の望みであった胴に迫った鋏を全身で取り押さえるというものを叶えることが出来なかったためか。残酷な天賦によって、誰に教わることもなく極めて裂くのが得意なジャックは、こちらを抱こうとする花子の力に逆らい腹から溢れる臓腑の流れに沿わすようにして自らを逃した。
身を挺して待った千載一遇のチャンスすら失ったハナコ。霞みきった目の前に見えるは、その歪んだ命のピリオド。空白に至る闇がすべてを覆う。
ハナコは他人に何度も味わわせたものである、どうしようもない死という諦観を前にして、想うことがある。
張り裂けそうになるほど、叫びたいことがあった。
ああこんな間違いが、もし伝えていいならば。
あの子に、最期に愛していたよと。
「でもそれは口が裂けても――」
いえないことば。
そう。こうやって、とても悪い悪い怪人は、とても悪い悪い怪人によってやっつけられましたとさ。めでたしめでたし。
「ぽぽぽ……本当に、これでいいの?」
ああ、こんなバッドエンドなんて、笑い飛ばす他にない。その筈なのに、彼女は半笑いの【私】を見た。
終幕のカーテンレールはぼろぼろで、シャッターも粘りに閉じることもなければ、見下ろす神未満はつまらない、と赤い終わりを躙る。
「ねえ。貴女は本当に、いいの?」
笑いに酔い続けていた筈の高子からの突然の問いかけに何も言い返せず【私】は黙る。そんな語り手を他所にして。
「いいわけ、ないでしょっ!」
少女は最期に赫々と、生きた。
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