「座ってて」
勝手なんて知ったこっちゃない他人のテリトリーの中、俺はそいつの言葉におうだかああだかよく分からない蚊の鳴くような声を返した。
いや、腰の引けたそんなざまで本当に返答になっていたかどうかは分からなかったが、この相手、長門有希には特に問題はないようだ。
すっかりへんてこな女相手に怖気づいている俺の消極的応諾をまるで知っていたかのように去っていく長門という少女にはほとほと驚かされる。
「にしたって、三日も前から毎日七時に公園で待ってたとはな……」
俺は、焦りから返すべき本体を家に残して持ってきてしまった栞を手に遊ばせながら、そう呟く。いや、表に裏にしてみたところで、この栞に書かれていた文面――午後七時。光陽園駅前公園にて待つ――が変わってはくれないのだが。
三日前に借りた本に挟まっていたこれを今日の午後六時に発見したお陰で男子学生が夜を異性との待ち合わせのために自転車で駆けるなんて中々素敵な青春機会を得た俺だったが、しかし相手はこの長門有希である。
待ちぼうけを気にすることもなく、こいつは俺を自分の家である高級マンションに連れてきて、なんだ。何がしたいのか不安で、少し戦々恐々とせざるを得ないのは先日の経験のせいかねえ。
「どうぞ」
「ああ」
長門が盆の上に急須と一緒に持ってきた碗。その中には茶褐色の液体、まあ匂い的にほうじ茶なんだろう、それが湯気を立てて満ちていた。
渡された俺は、特に気にせずに飲む。その間もこちらをじっと見つめる瞳の色は真っ黒だったが、しかしどこか不安の色も混じっているような気もした。
まあ、俺が察した不安はきっと正解なんだろう。変わってるハルヒの友達だからって、異性を家に上げてはい気にしません、なんてことはないだろ。こいつはあの、女とは違うことだし。
「っ」
思い出し、つい舌に感じる苦味すら覚えられないほどの、恐れを感じた。長門が自称宇宙人だということを思い返すに、谷口が友人だと紹介してきたあの女、周防九曜のことをつい想起してしまう。
こいつは異世界人みたいなもんだとしたり顔で語る谷口に、最初はハルヒに気に入られたいからって役者を立てるなよと呆れたものだが、その実どうしようもないくらいに周防九曜は本物だった。
いや、そもそもアレはなんだ。異世界人ってのは皆溶けられるのか、位置情報を無視して出現できるのか。こいつと鬼ごっこしてみりゃ分かる、と言われて鼻で笑ったらとんだホラーな経験を味わったもんだ。
まさか、宇宙人ってのはそういうのとは違うよな。思わず、俺は疑るような視線をハルヒの友である曰くいい子の長門有希に向けてしまうのだった。
奥の紅の色を映しているのか綺麗に桃色の薄い唇を動かして、長門は言う。
「話が、したい」
「ああ。学校では出来ない話って言ってたが、そりゃなんだ?」
「涼宮ハルヒのこと」
「そうか……」
長門がハルヒのことを言い出すのを予想していなかった、なんてことはない。なにせ、ハルヒを介しての関わりを抜きにすれば、こいつとはそれこそまともに会話をしたことなんてないのだ。
むしろ、ここで古泉あたりとの恋愛相談でもされた方が困るところである。だがまあ知らない仲でもないことだし、それにだってなんか適当な言葉を返したろうが、実際主題はハルヒに関してのことだ。
それには、俺も興味津々である。いや、別に俺もここでハルヒに対する悪口なんて出てきたら嫌だが、そうでないことは、長門の目を見れば分かる。
何でもかんでも黒く塗りつぶせば隠せるってもんじゃない。眼鏡越しに見える長門の大粒の黒い目はほんの少しだが、なんとも不安そうだ。こりゃ、言いたくないことを話し出すな、と俺も身構えるのだった。
「涼宮ハルヒとわたしは、普通の人間じゃない」
ああ、そりゃそうだろうな。そう返したくなる口を俺は無理して閉ざした。力込めすぎたせいで間抜けにひん曲がってやしないだろうな、俺の口。
実際のところ、ふらりと無表情で五組にやって来てはハルヒに存分に可愛がられてから帰っていく長門は、大分マスコット的だ。普通ではない大変な癒やし枠だろう。ハルヒについては、言わずもがな、だ。
だが、そんな萌え属性的な話ではないというのは、長門の真剣さから理解できる。俺は黙って、続きを促した。
「この銀河を統括する情報統合思念体によって造られた、対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース。それが、わたし」
「あー……すまん。情報……造られた、ってことは長門はつまりロボットってことか? 銀河とかいう言葉も出てるし、違っても宇宙人で合っていそうだが……」
「理解が早くて、助かる。そして、わたしは機能としては隷属装置よりも有機生命体に近い」
「つまり、俺や涼宮とおそろい、っていうことか?」
「そう。おそろい……」
おそろいのところで頬をわずかに緩めた、長門。そこに俺は確かにこいつはロボットなんかではないなと感じ取れた。だがしかし、宇宙人かと言われれば、まだ納得は出来ないが。
まあ、普段ひとことふたことしか語らない長門の口からSF地味た言葉が次々溢れてきたのには、別段俺は驚かない。ハイペリオンだのなんだの枕にしたほうがちょうど良さそうな分厚いそれっぽい本をカバー無しで読んでいるのをよく見ていたしな。
しかし、俺もよくこんな戯言に近い言葉に乗り気になるようになれたもんだ。それほど、周防九曜は怖かったかねえ。いや、まあ確かにアレがあるならもっとロマンある存在の方が有っていいとは思っちまうが。
「信じて欲しい」
「ああ、まあ似たようなもんに会ったしな……信じてもかまわないぞ」
「そう」
認められ、どことなく長門も嬉しそうにしている。だが、俺の場合ハルヒのような受容とは違う、破れかぶれな心地からの諦めでしかないのだが。
安心毛布、っていう言葉が世の中にはあるらしい。その言葉の意味のように、玩具や毛布を手放さない子供みたく何かに執着することで安心を覚えるっていうのは意外とよくあることだったりする。拠り所、っていえば分かりやすいか。
で、そんな俺の安心毛布であるところの現実への信頼ってもんは、どっかへぴらぴら飛んでいっちまって見当もつかない。だからまあ、仕方なしによく知らんことだって認めていく他にないのだ。またよく分からんものにビビらされるのも嫌だからな。
さて、俺が理解を示したからか或いは話すのが存外好きな性質なのか、長門の語る口は滑らかで中々止まらなかった。
聞くに、長門の大本、いいや親みたいなものである情報統合思念体とやらは、行き詰まっていた自律進化の可能性とやらを、ハルヒという一介の女子高生が起こした無自覚な情報爆発に見出したというのだ。
そして、情報統合思念体は己と規格が違う人間とコンタクトを取るために造ったのが長門である、と。
そこまで聞いて、俺は一つ突っ込まざるを得なかった。
「あー……どうして、そのコンタクト要因として造られたお前がそんな、口下手なんだ?」
「それは、現在わたしが涼宮ハルヒの隣にいることが、想定されていた本来の役割とかけ離れたものだから」
「ははあ、なるほど。想定外の喜びだったんだな?」
「そう、かもしれない」
正直、情報なんちゃら体だの、インターフェイスがどんだけ人と異なるかなんて俺には理解できない。だが、まあ長門がハルヒに懐いていることが、本心のようで安心した。
長門は無表情って誰が言い出したんだろうな。この顔見れば、長門がハルヒのことが好きなんて分かりすぎるくらいだ。
そして、安心したら軽くなるのが口ってものである。俺はついかねてから思っていたことを口走った。
「しかし、谷口経由の周防九曜もそうだが、長門もどうして俺に正体を明かすんだ?」
「多分、あなた【も】涼宮ハルヒの鍵だから」
「鍵、ねぇ……で、俺も、か……本命は谷口ってことか?」
「そう。あなたはスペアキーと考える部分もある。……けれど、わたしたちはあなた達が同列だと思っている。だから、危険から自衛してもらうためにあなたにも情報を開示した」
「なら、いいけどなぁ……って、危険があるのかよ」
俺は正真正銘、ただの人間だ。幼少の頃に漫画に影響されて目からビームを出そうと目をかっ開き続けて涙を代わりに大量に零した思い出があるくらいに、普通だった。
そんな、優れたところなんてほぼない俺が、どうして変なのに情報を寄せられるのかと思ったが、それは結局ハルヒに関わりがあるから、か。あいつに負けているのはしゃくだが、またその先達である谷口の方が優先されている、と。
しかし、危険がどうのこうの言われてしまえば、そんな順位なんてどうでもよくなる。いや、周防九曜と関わって分かったんだが、ああいうのと敵対したら、俺の命がいくらあっても足りない事態になると思うのだが。
どこぞの配管工でもないし、ひとつしかない命は大事にしたいところだ。
出来れば逃げ出したいな。そう、嫌そうな顔をした俺に。しかし、長門は今までになく真剣に問う。
「もし、命が危なくなったとして、あなたは涼宮ハルヒから離れる?」
ああなるほど、それは無理だなと、俺は諸手を挙げて降参するのだった。
「へぇ。涼宮はそんなに強い力を秘めてるのか?」
「そう。きっと、涼宮ハルヒならば世界の改変すら行える」
「そりゃ、信じられないな……そのことに無自覚っていうのも含めて、な」
最初は、茶なんて出して長話もないだろうに、と勝手に普段の長門の口数の少なさから思っていたが、しかし実際話は中々尽きないものである。喉が渇くたびに俺は度々、ほうじ茶のおかわりをして、今やお腹は一杯だ。
もし、これが周防九曜と出会う前の俺だったら、半分も話を聞かずに席を立っただろうが、しかし八時を過ぎた今も俺は長門の家にて長居している。
人は変わるもんだと自嘲しながら、俺はずずと茶を嚥下していく長門の喉を見送る。彼女は、小さく言った。
「でも、その力でわたしは、変わった」
「長門が、変わった?」
「そう。彼女と出会うまで、私はただのありふれた端末に過ぎなかった」
それこそ、寂しいという気持ちが分からないくらいに、発達の余地がなかった。そう、長門は続ける。
そして、寂しかったことを理解し、胸が一杯になってしまったのだろう彼女は悲しげに話すのだった。
「今の涼宮ハルヒは、わたしが理解不能の存在であることを望んでいない。現に、わたしの自我に何らかの力の操作によって発達が促された形跡が見受けられている。その上で、わたしはしばしば目的の忘却すらも起きていた」
目的。つまりは、ハルヒの観察か。それを忘れるくらいに楽しかった。なるほど普通に考えればそれは幸せなことだろうが、長門というインターフェイスには違ったのだろう。
自責にボブカットの頭を下げて、彼女は碗の底を見つめる。
「有機生命体に寄っているわたしにレゾン・デートルの喪失は、恐るべきこと。そしてこのままわたしが彼女からのダウングレードの要求に応え続けることは得策ではないと、統合思念体は感じた。しかし、事態の進行は危急。故に、早急な対処が望まれた」
端末が人になる。それがダウングレードなのかは俺には分からん。だが、まあ急な成長に長門の父さんがびっくりしたのには違いないのだろう。そのために、何かしたのか。ひょっとして。
「五組まで来て、宇宙人とか言いだしたのは、そのためか?」
「そう。疾く涼宮ハルヒに宇宙人の長門有希を望ませる必要があった。ある程度の暴露は、必要悪」
「それで、刺激された涼宮が力を暴発させなくて良かったな」
「三年前と比べて、涼宮ハルヒは安堵している。それに、彼女は友情というものに特別な感情を抱いている。友人の言葉であったら半信半疑で受け容れるものと、考えられた」
半信半疑、か。でも受け容れてくれるって予想されるあたりはハルヒらしいな。しかし、三年前のハルヒって俺がはじめて会った時くらいだが、そんなに爆弾みたいな感じだっただろうか。普通に、今と変わらない猫少女だったが。
首をひねる俺に、長門は話を続けた。
「そのおかげである程度の安定化は成功した。しかし、それでも時間を空けるのは不確定要素を増させるばかりと判断。そのため、わたしの手で想定を繰り上げた」
「繰り上げる?」
「涼宮ハルヒが求めている常識外の存在の、詳細を伏せたままの提出。それによって、彼女が求める一団は完成した」
一団って、おいおい。てことはやっぱり朝比奈さんに古泉もマジものなのか。まあ、全員この本物の宇宙人らしい長門が集めたわけだし、薄々同じなのだろうなとは思っていたが。
しかし、古泉は超能力者と言われればそうかもなと思えてしまうくらい怪しげだが、朝比奈さんはどうみたところで一般的なのだが。いや、未来人ってだけなら普通な方が当たり前か?
よく分からん。だが、もっとよく分からないのはそんな珍妙な存在を集めたがるハルヒの考えだ。楽しいからって、それだけで危険すらありえるのをあの意外と常識的な少女が集めるか?
本格的にあののほほん顔の少女の気持ちが不明になってきた頃、長門は結論づけるように言った。
「…………涼宮ハルヒの、自分を理解してくれるだろう同じ異常な存在に囲まれる、という本当の望みはこれで叶えられた筈」
「本当の、望み?」
どういうことだ。無意識でしか力を使っていないようなハルヒが、その実自分を異常だと思っているって。それはおかしい。
「そう。涼宮ハルヒはアンビバレンツを抱えている。私に異常を求め、そうあって欲しくはないという思いもあった。そして、つまりそう考えるということは――――涼宮ハルヒには、最低でも自分が宇宙人のように異常であるという自己認識がある」
ああ、なるほど。痛みを理解出来るということは、その痛みを知っていると考えると腑に落ちるところがある。
一人ぼっちの兎は寂しかった。それは、眼の前の透明少女に自分を反射してみた感想だったのだろう。
どこかおかしくも、普通にしたがっているのは、その証明なのか。異常を嫌がり、だからこそ他の異常を受け容れる。だが、それはつまり自覚がなければあり得ない。俺は、少し悩んで、しかし口にした。
「……自分が神のような力を持っているという認識が、か?」
「そこまでは分からない。しかし恐らくは、これが最良だった」
最良。なるほど、確かにSOS団は中々に居心地の良い場所ではある。大分マトモじゃない面子なのかもしれないが、それでも普通にいい奴らである。
それが、ハルヒの望んだことであるならば、まあ俺を入れてくれたことに感謝の一つでもしたくもなる。
そして、もう一つ。隠れて頑張っていたらしいこの宇宙人に対しても、一つからかいたくなった。なにせ、あの日の長門の表情は、俺からしたら明らかに。
「長門。お前が、涼宮に注目して貰いたかった、ってものもあるんじゃないのか?」
そう、親に褒めてもらいたがる子供のようだったから。そんな俺の言に。
「……それもきっと、ある」
まるで誰かさんの何時ものように、長門有希という一人の少女は俺の前で笑みを綻ばせるのだった。
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