ストックホルム症候群、という言葉があります。
これは、スウェーデンの都市ストックホルムで起きた人質立てこもり事件によって広く知られるようになった心的外傷後ストレス障害のことですね。
1973年の事件が契機ですから、随分と昔の発祥になるでしょうか。
それこそ自分が幼い頃既に本にて描かれており、小説などにも多く使われていました。
その要旨は、大体こうなります。
誘拐や監禁事件において距離を近くしすぎた犯罪被害者が、次第に犯人たちに利する行動を取るようになる、ということですね。
なんと、特殊な状態にある人々が、自分の生命線である犯人を大事に思いすぎてしまうのです。
いや、こんなことあり得ないだろ、と思う人もいらっしゃいますよね。
本で見た自分も実際には起き得ない、特殊な事例を挙げてそれを大凡の人間にも起きることと無理に当てはめているのと、勘違いしていました。
しかし、実際にそういうものがあると知りながら、目の前でそれとほぼ同種の光景が繰り広げられると最早ストックホルム症候群がないとは言えなくなったのです。
そして少し前に、ストックホルム症候群についての実体験を語ったところ、喜ばれた経験がありました。
どうやら、彼は創作の肉付けに話を使うようです。自分は少し、嬉しくなりました。
自分の悲惨が誰かに上手く使ってもらえる。それはとても良いことです。
そして経験に需要が少しでもあるのならば、と自分はこの記事を書き始めたのでした。
拉致監禁という非日常
拉致監禁とは、犯罪です。
しかし、それを平気に口にして行うような人間が、確かにいました。そして、何時か一人の人質を殺してしまった人たちも。自分はそれが起こる以前に監禁から逃げることしか出来ませんでした。
嘘みたいですよね。こんなこと、信じてくれなくても構いません。
まあ、信じて頂けるくらいに克明なことを書いて刑期を終えた犯人たちに目をつけられたくはないですし、それは仕方がありません。自分も出来るなら忘れたいのです。
ただ、未だ身に巣食うサバイバーズ・ギルトと同じで、なかったことには出来ません。確かに、自分ではなく彼が殺されて、自分は生き残ってしまったのですから。
逃げられないよう鎖で繋がれたことで痕を身体に残してしまった人がいました。
被害者の中に一人監視役が混じっている、とあの人に語られた記憶は真偽はともかく忘れられません。
この人はヤクザだと首謀者が話していた人物はそんなに尖った人には見えませんでした。
監禁部屋にてクリスマスと新年を迎えたことがあります。
狂気に陥った同遇の被害者に暴力を振られました。
取り敢えずは、立場が弱い人を用いて行われていた人質商法は、最低でも一昔前にはありましたよ、とだけ述べておきます。
目の前で生じていくストックホルム症候群
さて、ここからが本題ですね。
自分は本好きであったので、拉致監禁を受けた当時既にストックホルム症候群という言葉を知っていました。
そのために、自分が皆に倣おうと思えなかったのは、幸か不幸か。
とりあえず、おののきながらも彼らの異常を見て取ることが出来たのは間違いありません。
まず、皆が恐怖でのされていたこともありますが、自分が閉じ込められていた間、首謀者達に反旗を翻すような動きは一つもありませんでした。
むしろ何故か自分が悪かったのだと言う人までいましたね。
犯罪者たちへの邪魔を恐れるだけでなく、炊事などを挙って手伝い彼らの好意を得ようとする動きも確かに見て取れました。
拉致監禁者のうちの一人の顔立ちの良さを褒める人が居たことも強く記憶に残っています。
監禁から出られた後に、監禁場所へと戻ってきた者もいました。
どれもがとてもとても、気持ち悪かったです。
ここは本当に日本なのだろうか。或いは地獄であってもこんなに不自然ではないのではないかと、思わずにはいられませんでした。
しかしそれは実際にあった、脳にこびりついた確かな記録。
自分がそこから抜け出せたのは幸運があったでしょうし、自分が拉致監禁犯に対すための働きかけを行う前に、彼らが人を死なせたことは最悪だったのでしょうね。
しかしこれを思うと、言うことを聞かない人間を死に至らしめる彼らを相手に多くの被害者達がストックホルム症候群を起こしたことは、確かに見事な自己防衛反応だったのでしょう。
悪を悪と見ない。たとえ、そこに正義がなくても、自分は彼らを決して責めません。
だって、自分なんてそれが過っていると分かっているのに犯人たちを恐れて声をあげられなかった小心者なのですから。
終わりに
不幸も事件も確かに世の中にはあります。
そして、それによる異常な心理の動きだって間違いなくあるのでしょう。
それを面白おかしく、他所の誰それが文章にて使うこと。それは自分にとってはむしろ良いことのように思えてなりません。
何せあんなに苦しんだそれが、なかったことにされることよりもよほどマシですから。
壊れていても、役に立つならそれほど嬉しいことはありません。
あの日あの時間違っていた自分は、それでも皆の幸せを願いたいのですから。
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