走ってもいいの?

イラストです。 それでも私は走る

「良かった……」

結局、此度の競走の損傷は少女のその一言に尽きる結末だった。

左足舟状骨の粉砕骨折。無論前後の距骨や楔状骨も無事ではすまない。
創外固定器にて整復位を保持するのも困難だったため、手術時間も遅くまで伸びる。
しかし、キミはそこまで力んでどこまで駆けようとしたの、と聞きたくなったよという感想を零した担当医の手により無事オペは終了した。

三時間近くかかった手術。下手をしたらサイレンススズカの競技人生も危ういのではと悩む――――を筆頭として付き添った数々のトレセン関係者は、しかし医師の次の言葉にどっと肩の力が抜ける思いをしたのだった。

『ああ。全治二、三ヶ月くらいかな? ウマ娘だし、治るのも早いだろうね……』

そして誰かが発した大丈夫なんですか、という問いの答えも、直ぐ止まってくれたから他に余計な怪我もないし大丈夫、というもの。
暗がりで覆われた時刻白く強い蛍光灯の光の下、外されたマスクから顕になったにこやかな医者のその笑みは多くに安心を誘った。

勿論、無理をというよりも歩くのもサイレンススズカはしばらく厳禁で安静にとのこと。
絶対に走りたがりの少女はリハビリに焦るだろう。そもそも彼女が自分の走りを取り戻すのにも相当な時間がかかるのかもしれなかった。
だが強いて言うならば、不幸中の幸いというのが今回の事態の総括だろう。
――――は、本来の道筋を本人の口から聞いて知っていたばかりの少女は、安堵にそれこそ身を震わせながら言った。

「スズカさんは、走れる……」

その事実の再確認は、どうにも酷く意味深長にその場に広がっていく。
しかし重すぎる感情を抱える――――の口の端の円かから喜色のみを組み上げて、スペシャルウィークは垂れ下がっていた右手を取る。
想像していたよりずっと冷たくて細い。でもだからこそその中心の心は温かいのかなと思いながら彼女は微笑んで断言した。

「うん! そうだよっ! 本当に良かった……ありがとう、――ちゃん」
「ん? スペちゃんはどうして私に感謝してるの?」
「だって、スズカさんが無事だったのは――ちゃんが抱きとめてくれたおかげもあるよね! 誰より心配してた――ちゃんがスズカさんを止めてくれた……」

殆ど涙ぐみながら、スペシャルウィークはそう告げる。
故は分からずとも、彼女が彼女に対して妙に心砕いていたのは間近で見ていればそれだけ明らかだった。
度を越すほどの情の預けっぷりは最早懸想と大差ないのではと思ってスペシャルウィークは嫉妬すら覚えていたが、しかしどうやら――――というウマ娘は特殊な直感でも備えていたようである。

『私は……どうすればいい?』

実は彼女はサイレンススズカが此度のレースで怪我をするかもしれないと、この頃多くの人に訴えかけていた。
勿論、サイレンススズカが怪我すると予測する理由はないに等しい。医師も太鼓判を押す健康体であり、本人が何より走りたがっていて更に調子も抜群によさそうだ。
ならば、上り調子の先輩ウマ娘なんて怪我をすればいいと思ったそれをそうなると思い込むようになってしまったのだろうと、そんな陰口を叩くものだって居た。

『どうしたら……スズカさんのためになれるの?』

ただ、近くで伺えば、何より本人がそんな悪い予想を信じたくもないというのがひしひしと伝わってくる。
隈は少女の愛らしさを損ねかねない程に濃く、絶望はもっと深い。
そんな、信じたくないことを間違いないと思い込んで、そのために必死になるという事態は明らかに間違っていた。
それこそ、占いに一家言あるマチカネフクキタルすら、幸せになるための占いですよと、苦言を呈したくらいに。

『私だけが本気でも……それでも』

でも、止まらないのが、駆け抜けてしまうのが――――という少女であり、そして彼女は人事尽くした上で何時でも助けになれるよう目を光らせたことで誰より早くレースにてサイレンススズカを《《受け止めきれた》》のだった。

「そんなの、些細なこと」
「そうは、誰も思わないと思うよ?」

しかし、事態が解決した今はもういいと、まるで他人事のように言う――――につい、スペシャルウィークも胡乱な表情になる。
GⅠという舞台にて奇跡的な介助を行った彼女は既に時の人。
この逃げ娘達の深い絆を知らなかった世間は大いに賑わっていて、きっと明日の新聞辺りに美談として載っかるに決まっていた。

もっとも、元々――――はそういう形で認められるのに喜べるような性質ではない。
そこそこストイックであれば自己評価が低い彼女は、人格を褒められても照れるだけ。

そして、だからこそこの栗毛の少女は愛すべき上等な魂の双子を見上げ、その安堵に微笑むばかりなのだろう。

「ううん。でも、違うよ。助けたんじゃなくて、助かったんだ」

首を振る彼女は、それで間違いないと呟く。
私が何をしてもしなくても、きっとサイレンススズカという少女は命まで絶つような結果に至らなかっただろうという自信が、今更に――――にも出来た。
それは、信頼であり安心から来るもの。

私は確かに本気で駆けずり回りはした。
だが、それこそ本当に命懸けで少女のためになろうとしていたモノは何か。そんなの、己が胸の空隙をひと無でしてみれば分かるもの。
彼女は、おそらくこの世界の殆ど誰にも伝わらないだろう真実を口にする。

「きっとサイレンススズカ号は、少女が自分と同じ運命を走りきってしまうのを嫌ったんだ。そのために、彼は自らの末路を伝えた。だから全ては変わったんだと思う」
「? ……どういうこと?」

号。そんな文句を彼女が親愛なる先輩に付けた意味も分からなければ末路というのも不明。
しかし、訳知り顔の説明不足は、最近本を沢山読んだ上でこの世には知らなくてもよい真実があるということも学んでいた。
だから、スペシャルウィークの不明もウマソウルが安定しているものと是として、語らない。

ただ、先から握ってもらっていた右手がとても温もって、それが嬉しかったから。
ちょっと他の余計なことを喋りたくなってしまった――――は首を傾げる大人を他所に、スペシャルウィークにのみ話しだす。

「ねえ、スペちゃん」
「――ちゃん、なに?」

スペシャルウィークは、大きな瞳を柔和にして返事をした。
その光を大いに容れた紫色に映る自分はどこか暗いな、と――――は思う。
そしてそれが私の前途をありませんようにと、願わずに覚悟しながら星のような輝きを前にこう続けるのだった。

「私はね。後は――――号という彼が遺してくれたこの走る楽しさ、その恩返しをしてあげたいんだ」
「えっと……さっきから――ちゃんは何を……」
「ふふ。簡単」

今度は、自分の名前に号と付けた彼女。
そういえば世話していた牛をおかあちゃんが何とか号とか呼んでる場合もあったような、と酪農系ウマ娘のスペシャルウィークは薄く察しをいかせる。
だが、まさかそれが愛する彼女が自らの前世に対する呼び名として付けたものとは理解できず、困惑は深まった。

でも、賢しさではまずまずな――――は、不明を酷く単純に要約する。
そこに詰められた決意など全く伺えないような、持ち前の可愛らしい笑みを披露しつつ、繋がった手のひらを強く握り返すのだった。

「私はスペちゃんに今度は負けないよって伝えたいだけ」
「うん!」

それに、今度こそ間違いなく頷けたのは、スペシャルウィークの成長。
この子との間柄では勝ち負けこそが大事ではないのだろうけれど、でもそれだって白黒つけたっていいじゃないか。
友達同士の楽しみに、向かい合って真剣になることがあるのは、むしろ幸せなこと。

ああ、何せ――――ちゃんがこんなに私を、いっそ怖いくらいに望んでいて。

「私も、負けないよっ!」

私も苦しくなってしまうくらいに彼女から目を離せないのだから。

 

光眩しい。
サイレンススズカが起き抜けに感じたのは、酷く柔らかな光輝。
何となく、喉の渇き具合から数時間は眠っていたのかと彼女は理解する。
そして、伸びをして身を起こした。艶やかにも豊かに広がる栗色に、その指先を僅かにかけながら。

「ん……」
「あ。スズカさん……えっと、こういう時はおはようございますで良いのかな?」
「あれ……――ちゃん?」

そして、起き抜けに見つけたのは、先のレースで己を助けるためとは言え公衆の面前で抱きしめてきた、愛しの後輩。
今更だがぼっと顔が紅くなるのをサイレンススズカは感じる。
或いは命の恩人。そして何より立ち止まるための寄す処。
そんな愛というよりはもっと安らかなものを感じさせてくれる相手が優しく自分を見つめていたのだから、たまらない。

何時から、そしてどのくらい見られていたのだろう。
眠っているそんな無防備な姿なんて好ましい相手に見られたいと思うものでなく、また何より――――ちゃんになんて。
いや、この子になら何もかもをさらけ出してもいいけれど、まだ勇気が足りないというか、なんてややこしいことまで考え出す乙女。
黙って可愛らしい百面相を繰り広げる先輩に、花の栞を挿し込んだ本を閉じて、思わず――――は戯けるのだった。

「ふふ。かわいい寝顔に一筋のよだれが間抜けでした」
「嘘でしょ……」

少女の言葉一つで愕然とする、普段クールな天然美人。
サイレンススズカはしかし、まさかそこまでこの子の前で無様を晒していたとは思っていなかったし、思いたくもない。
口元を病院着の袖にて何度も拭い、でも特に水気も何も感じないのを不思議に思い首を傾げてみると。

「ふふ。ええ、よだれは嘘です」

それに合わせて――――は本当のことを伝える。
むしろそんな間抜けをしてくれた方が本を読む手が安心できたと思えるくらいに、彼女は寝ていてもずっと静かで。

「……もうっ! 意地悪……」

だからこそ、こうして生きているのを確かめるためにもからかいたくもなるのだ。
紅潮した頬。どうしてか更に顔を隠し出したサイレンススズカに、しかし柔らかく――――は本心を続けるのだった。
美しい栗色の毛並み。鏡写しに同じものを持った二人は、しかし対照的。だから、少女は微笑む。

「でもかわいらしい寝顔だったってのは本当ですよ……それにそれを言うならスズカさんだって、あの日私を置いていってしまいそうになってたじゃないですか。酷いですよ」
「あ……」

サイレンススズカは――――あの一瞬の迷いまで読み取られていたのか、と絶句。
しかしそれはそんなにまで自分のことを怪我したその時に必死になって見つめてくれていた証左でもあり、嬉しくも感じる。
どちらにせよ、気の迷いでもこんな愛らしい子を放って黄泉路を駆けようとしたあの日の私は馬鹿だと、彼女は思う。

つまり、反省。二度はもうきっとない。
それを察せたことを収穫として、意地悪な後輩は鉾をおさめてから言った。

「まあ、意地悪なのはお互い様ということで」
「そ、そうね。私だって前に――ちゃんが病室で寝てた時とかじっくり寝顔堪能してたこともあるし……おあいこよね」
「待って、それは聞いてないです」

しかし天然先頭ランナーはだからこそとぼけた言葉で少女を惑わす。
見ていたら、実はとっくに見られていた。
そんなことは在り来りで、でも知らなかったからこそ恥ずかしい。なるほどこれが先達が先に味わった気持ちで。

「っ」
「ふふ。――ちゃんの方がかわいいわ」

紫苑の押し花を挟んだ本の分厚さで、赤みを隠す。
そんな後輩の健気さが、サイレンススズカには酷く愛らしいものだった。

 

「痛……」
「スズカさん、大丈夫ですか?」
「大丈夫……なのかしら」

それからしばらく。
トレセン学園黙認でサボタージュした――――は空いた時間をサイレンススズカとの雑談に利用した。
怪我人に、多く笑顔が見れたのはいいことか。
とはいえ、実際問題足に大問題を抱えていれば、下手に動かせば正しく直したばかりの足は痛む。
固定された患部を撫でることも許されない中、ただ疑問のみが生き残ってしまった少女にはある。

「私……走れるのよね?」
「ええ」

――――はまた、お医者さんが話してくれた夢みたいなことを是とした。
この質問は、果たして何度目だろう。そして、それに毎度真剣に返してくれる少女の瞳に湛えられた感情の海に魅入られるのも、数え切れない。

走れる。疾走れる。私はそれがいい。

でも、本当にそれでいいのだろうか。何せ。

「あの子は走れなかったのに。私は、走ってもいいの?」

ああ。愛おしきサイレンススズカ号。彼は、私の隣で魂としてずっと、寄り添ってくれて。
でももう、一緒じゃない。
そんなの果たして許されるのかと問ってみれば。

「当たり前ですよ」

何を馬鹿なことをと即答で返される。
幸せを、目の前にぶら下げられた人参に飛びつかないウマ娘なんてありえない。
いいや、あり得ちゃいけないんだと内心で首を振って、まるで自分に言い聞かせるように訥々と少女は語った。

「スズカさんは彼の分まで、一緒に幸せにならなきゃ、嘘です」

私情混じりにそうなって欲しいと――――は心より思う。
貴女が、貴女は、貴女だけは。よく分からない文句が心のなかで揺らいで消える。
しかし、人の心なんて目で見えないものであれば、しかし誠意ばかりをサイレンススズカは受け取って。

「そうっ、そうよねっ!」

彼女は、彼の先を代わりに走り抜ける。

とても綺麗な宝石のような涙をぽろぽろと零しながら、サイレンススズカはそんな決意をしたのだった。

「そう……だから私も走るんです」

反して、空っぽばかりを抱えた少女は、そんな彼女の幸せな笑みをも心の支えとして無表情。

ただ呟いた決意のままに、――――は秋の空に走り出すのだった。


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