アリス・マーガトロイドは緊張していた。それは、今日魔梨沙が来るからというそれだけの理由ではなく、自身に不備があるかどうか恐れているというだけでもない。両方が混ざって、アリスは混乱しているのだった。
着用している洋服のこのひらひらしたフリルが、頭を飾るカチューシャの違和感が、アリスの羞恥心を刺激する。水色を基調として白色が清潔感を演出するその衣服は、しかし特徴的なものだ。
腰回りを覆うエプロンドレスに、頭部を飾るヘッドドレス、ホワイトブリム。そんな装飾が目立つ、いわゆるメイド服というものをアリスは着ていた。
普段から人形じみていた顔は、緊張で余計に締まって、まるでメイド姿の美しいビスクドールのよう。悶々としているアリスはノックの音にも気づかないようで、そのままドアの前にて彫像のごとくに立ち続ける。
この時間に家に来るということは伝えていた筈だと、戸を叩いている相手魔梨沙は、不思議に思った。気になった彼女は、何かあったのかと無作法を覚悟で鍵のかかっていない扉を開けて、中をのぞき込む。
「鍵は掛かっていないけど、何か作業中かしら。失礼するわね、アリス……」
「……おかえりなさいませ、ご主人様」
そして、仏頂面で謎の歓迎の言葉を向けてくるメイドの姿を認めた魔梨沙は、顔を引っ込め黙って扉を閉めた。
「ま、待って魔梨沙!」
「わ、やっぱりあのメイドさんはアリスだった」
すると、慌ててアリスが押し寄せ再び扉は勢い良く開けられる。魔梨沙は至近に寄ったアリスのメイド姿を見て、素直に驚く。
羞恥に真っ赤な顔をしたアリスは、何時もの生き物離れした透明感を台無しにして表情をコロコロと変えながら言い訳を始めた。
「あ、あの、違うのよ。これはそう、タンスの空気を入れ替えていたら、以前魅魔に着せられたメイド服が出てきて。最近魔梨沙が紅魔館のメイドに熱を上げているみたいだから。それで私も……」
「なるほど、それで創作意欲を掻き立てられたから、今の身長に合わせたメイド服を作って、そしてあたしにお披露目するために着ているっていうわけねー」
「……そういうこと」
アリスは魔梨沙が継いだ言葉に肯いたが、実情は少し違っている。
以前、先の約束の通りにやって来た魔梨沙は、最近メイドさんと正式にお友達になったのよ、と口にして、その相手咲夜がいかにメイドとして優れていてまた可愛らしいかをアリスに説いた。
黙って聞いていたが、そこでまた、魔梨沙の心を掴む咲夜に対抗心というものが芽生えて、私もメイドの真似事をさせられたこともあるのだからと、アリスは形から入り直し、自分も負けはしないのだと見せつけたくなったのだ。
勿論、闘争心に燃えていたアリスは自身の迷走に気付かずに、それが親に他所の子が褒められた際の子供の癇癪と似たものと理解したのは、繕い終えたメイド服を試着して鏡を覗き込んだ時だった。そう、つい先刻のことである。
とりあえずと、家の中に入り、二人はテーブルの向かい合わせに座った。そこからは何時もをなぞるかのようにアリスは人形を用いて紅茶の用意をし、魔梨沙は包みに入れたクッキーにスコーンを広げ始める。
そして、少し桜の香りがする美味しいお茶を頂いてから、湿って滑りの良くなった口を開く。
「驚いたわー。でも、ご主人様、とかそういう遊びは好きな男の人相手にやるのよー」
「そんなことはないわ。魅魔にはやらされたし、元々女性に傅くことなんて珍しくもない仕事じゃない」
「あれ、そういうものだっけ。なんだか外の知識に毒されていたわ」
「だからって、魔梨沙相手にやることじゃなかったけれど。でも緊張していたら魅魔に教え込まれた言葉が勝手に口から出てきたのよ」
「……あたしの師匠が迷惑かけたわねー」
ここ数年は丸くなったのか治まってきたが、魔梨沙の師、魅魔は人をからかうことが好きで相手の嫌がることを平気で行うことがあった。ましてや、その時は人の神経を逆撫ですることが大好きな風見幽香が共に行動していた頃。
魔梨沙ですらストッパーにならず、幻想郷にやってきて究極の魔法とやらが書かれた魔導書を用い、三人一人ずつ相手して中々にいい勝負をして全員に負けた、アリスに対してのお仕置きは行われたのだった。
まず魅魔は、魔法のメッカ出身で神、神綺に特別扱いされ少し高く伸びていた鼻を折るために、魔界で見た侍女の姿をアリスに取らせる。そして、魅魔は自分に対してご主人様と呼べと強制した。
それはごっこ遊びに近いものとはいえ、魅魔の教育は中々スパルタであり、次第にアリスは魅魔をご主人様と呼ぶことに抵抗を失くしていく。
もっとも、魅魔は直ぐに飽きて、というよりも魔梨沙にたしなめられたがために気を削がれたのか弄くるのをやめた。だが、名残としてその時のメイド服と、同様の服を着た際の反応は現存していたのだ。
ちなみに魔梨沙は魔導書が読めないことを知り、一度に【見つめられた】分だけを得て渋々諦めたが、幽香はアリスが究極と口にするまでの魔法を学びとるために、なんと姿を透明にして魔界にまで付きまとっていたりする。
別に、普段から魔法を使うわけでもないアリスを追い掛けて何か得るものがあったのかは不明だ。ただ、魔界から戻って以降幽香は主を務める夢幻館から出て幻想郷にて一人暮らしを始めているので、何かアリスを見つめた影響はあったのかもしれない。
「それにしても、あたしはいいけどよくアリスも魅魔様に幽香なんて大物を相手にしようと思えたわね。魔界で私達にやられた時に懲りなかったのは貴女だけよー」
「そうね……確かにあの時は母さんからこの本を貰ったばかりで舞い上がっていたのもあるけど、でも今思えば私と魔界で戦った時に魔梨沙は手加減していたじゃない。だから、勘違いしちゃったのよ」
「うふふ。だって、あの時は背伸びした子供にしか見えなかったんだもの。かわいいものだって、合わせてあげたのよ」
「全く、魔梨沙には敵わないわね。今だって、魔導書の魔法を使ったところで勝てるか分からない。ものまね得意な貴女は戦えば戦うだけ実力を上げていくしね。魔梨沙、フランドールだったかしら、彼女の力は完全にモノにしたの?」
「うん。火事場の何とかで弾幕ごっこの最中に真似できたのは奇跡だったけれど。今なら安定して魔力の大半を破壊的な風味に引っ張ることが出来るようになったわー」
そう言って、魔梨沙は紅の星を指先から生み出す。その赤色から、非常に歪で不安定な力とそれによって生じるだろう多大な威力を読み取って、アリスは嘆息した。
「はぁ。何度考えても、普通はそんなこと出来る筈がないのだけれど。分からないわ……魔梨沙の魔力は純で綺麗だから、そういうのが原因なのかしらね。力を見つめる程度の能力だけじゃあ、説明がつくものじゃないから」
「ふーん。あたしは力が使えればどうでもいいのだけれど、弾幕の味ってどうなっているのか、遊びで妹と研究した経験が活きているっていうのは間違いないかもね。たとえばこれの味は、ちょっとアリスには辛過ぎるかもしれないわー」
「どうして貴女達姉妹は弾幕に味蕾を刺激することを求めていたのよ……でも、力の方向性を味付けで分類して決めるっていう発想は面白いのかもしれないわね」
破壊力抜群の弾幕に舌を這わせることなんて出来はしないが、研究したという魔梨沙が言うからには辛味がするのだろう。或いは頑丈な人外ならば、魔梨沙が生み出した弾幕の味も楽しめるのかもしれない。
美味しい美味しいと、魔梨沙が生み出した弾幕を食む幽香の姿を想像し、アリスは首を振ってそのあり得ない光景を頭から追い出した。
「あたしのことは、まあそこら辺でいいとして。アリスは最近どうなの? 前にえげつない弾幕をあたしに撃ってきたけど、最近はそういった研究をしていたの?」
「あの未完成の弾幕を考案したのは結構前ね。異変で魔梨沙が来た時には春度を調べていて、それで最近は……それこそ、メイド服にかかりきりだったわね」
「ああそうだ。言い忘れていたけれど、よく似合っているわよーアリス。膝まで隠した清楚なデザインが個人的に好きだわ。それに、とても手作りには思えない出来だし、やっぱり普段から人形作りをやっているだけはあるわね」
「……面と向かって褒められると、ちょっとむず痒いわ。でもありがとう、魔梨沙。縫製には自信があったけれど、自分に似合ったものかどうかといえば、首を傾げざるを得なくて」
アリスはその場を立ち上がり一度くるりと回って、はにかんだ笑顔を見せる。魔梨沙はこの笑みを見せたら里の男なんてイチコロね、と思いながら弾ける金髪ショートボブと白いフリルが舞う水色のメイド服の可愛らしさにも眼が奪われた。
少し色々と大きすぎる自分には似合わないだろうが、小柄なアリスには割合少女趣味な衣服はお似合いで。華飾気味なカチューシャとエプロンが邪魔をしているが、それを取った姿を浮かべれば、まるで不思議の国のアリスだ、とも魔梨沙は思った。
「まあ、今回メイド服を作ったことはいい経験になったわ。やっぱり私はもう少し細かいものを作ることが好きみたいね。それこそ、人形たちに持たせる槍とか内蔵する爆弾とか」
「物騒ねー。でも、アリスが人形作りに適正があるっていうのはよく分かるわ。だって、こんなにも貴女の作った人形は可愛らしいんだもの。まるで生きているみたいに」
そう言って、魔梨沙は名前を付けられていないが、よくアリスの隣で見かける人形を撫でる。しかし、アリスは機械的に喜ぶその人形を少し羨ましく思いながらも、違う意見を言った。
「私なんてまだまだね。魔梨沙はその人形を生きているみたいって言うけれど、実際は自律して初めて生きているのと変わらなくなるのよ。そこまで行くのが私の当座の目標」
「そういえばアリスは、私は母さんみたいにゼロから生み出すことをしたいの、って昔言っていたわね。でもここまで精巧に作ることが出来るようになった努力を認められないのは駄目だわ。ほら、アリスは凄くて偉いわー」
「も、もうっ! 撫でないでよ、魔梨沙」
茶化すように、笑顔で無遠慮に髪をかき混ぜる魔梨沙の手。それを、アリスは口ほどに嫌がりもせず、大人しく受け入れる。
このように、親しい相手に情が確かに通っていることを確かめるかのごとく、人並み以上にスキンシップをする癖が魔梨沙にはあった。それは、魔梨沙の過去に原因があるとアリスだって知っている。
アリスは何時だって魔梨沙が生みの親に否定された事を痛ましく思うし、件の父親をそれ以上に傷めつけてやりたいと思うが、しかし今はそれよりも優しく撫ぜるその手の温かみを感じることが重要だった。
当然のように、アリスは生みの親である神綺に愛されていて、同じように撫ぜられたことだってある。しかし、魔界の神である神綺には、愛すべきものが殊更多かった。必然的に、触れ合う時間は少なくなってしまう。
そのため、アリスが感じ取れた愛情は彼女にとって十分なものとは思えず、情に焦がれるアリスは大好きなお人形遊びをしてすらも、満足することは出来なかった。
そこで、ただ何をせずとも貰える愛を諦めて、自分で手に入れようと考えられるような大人になればよかったのだろう。しかし、アリスは魔梨沙と出会ってしまった。触れ合い求められることで自己の必要性を確認するような、自己評価の低い彼女と。
これも一種の割れ鍋に綴じ蓋と言えるのだろうか。ある種、二人は共依存しているような状態である。
そのことを判じているのは、アリスだけ。でも、彼女は甘えてしまうのだ。ここ幻想郷では外様のアリスは、覚悟していても自然と孤独を感じてしまうから。
そして、アリスが招くことで始まった二人きりのお茶会は、始まって二時間以上経ってから空に黒い雲が増えてきたことを理由にして、何の波瀾も起きることもなく終った。
終始団欒の中で美味しいものを頂けてごきげんな魔梨沙に、幻想郷どころか魔界を含めても数少ない友達の中の特別が来た喜びを満悦したアリスがぶつかりあうことなんて考え難いから、それも当然のことだろうか。
紫はともかく最近知り合いに同系色の魔法使いが増えたために少し困っているが、本来パーソナルカラーである紫色の風呂敷包みを帽子の中にしまい、魔梨沙は早々に帰り支度を済ませた。
「それじゃあ、アリス。あたしは行くわー。何か用事があったり、お茶会を開きたくなったりしたら、またお人形さんに手紙を持たせて寄越してね。直ぐに返事を返すから」
「分かったわ、魔梨沙。でも魔梨沙も何か用が出来たら私を呼んでね。来てもらうばかりじゃあ申し訳ないもの」
「あれ? アリスはあまり外に出たくはないんじゃなかったっけ」
「何年前の話よそれは……確かに昔は、幽香や魅魔みたいな奴と出くわしたくなかったし研究に集中したかったから外敵の少ない魔法の森から出なかったけれど、最近は人形劇をしに人里に行くこともあるわ」
「そうだったわねー。そういえば、人形劇を見た妹から感想を聞いていたわ。アリスの劇はまるで魔法みたいだぜ、って」
「褒め言葉なのよね、それ」
「私の妹は才能豊かだから、劇で人形を操るのに魔法を殆ど使っていないっていうことくらい分かっているんじゃないかしら。さて、っと。いよいよお空の雲行きも怪しくなってきたし、行くわ。さようならー」
「ええ、さようなら」
アリスは外に出て、魔梨沙が箒の上に横座りしながら飛んでいく様を眺める。雲天の下、時折こちらに向い手を振り去っていくその姿を名残惜しく見つめ、アリスは紫の点が見えなくなってからも、しばらくはその方向を望み続けた。
そうしていると、ぽつりぽつりと、空から雨が降り始める。これは大変と、我に返ったアリスは人形たちを使って、急いで洗濯物を取り込む。
魔法の森の中でも比較的に日当たりの良い場所にあるアリスの家の目立たない一角に衣服は干してある。何着もある何時もの服を人形たちが届けてくれたのを見て、アリスは自分の格好を思い出した。
「メイド服を着たまま、私は何たそがれていたのかしら……」
外で何時までも特殊な服を披露し続けていたことを恥ずかしく思ったアリスは、着替えるためにも乾いた洗濯物を手に家の中へ入る。そうして、外にでる前に命令を受けた人形たちが綺麗に洗った二つのカップを片付けている姿を見つけた。
アリスはホワイトブリムを置き、いつものカチューシャを取り出しながら、そういえばこの服を着替えれば今日魔梨沙がここに居た痕跡はまるで残らなくなるなと思うが、しかしその手は止まらない。
服を替える前に置いたローファーを片付け、編みこみブーツを装着して、何時ものアリスに戻った。凛とした表情を取り戻したその姿に、先程まで笑顔で過ごしていたメイドの面影はない。
しかし、これでいいと、アリスは思う。弱い心を見せるのは魔梨沙の前だけ。一人で居る時まで魔梨沙の面影を追い掛けてしまえば、何も出来なくなってしまう。
けれども、隠れたその弱い心は、今も騒胸中で騒いでいる。
――――ずっとそばに居て。どこにも行かないで、魔梨沙お姉ちゃん。
そんな弱音を黙らすためにも、アリスは無表情で沈黙を貫き、何時もどおりに洗濯物を畳んでから、読みかけの魔導書に目を通し始めた。やがて、重い本心は沈んでアリスの中に溶けていく。
大人しくなった内心を表すかのように止まりがちだった頁を捲る手は安定して進み出し、そして次第に紙が擦れる音は雨音に紛れていった。
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