遠野咲希は高身長に長い手足が特徴的で、そこに少し肉が付いてきてしまったことを気にする年頃の女の子だった。
そんな、体重計を蛇蝎のごとくに嫌う少女は、しかしトレーニングを欠かすことはない。
「一、二、三、一、二……」
美しく、コンパスのように世界を区切る、長い彼女。ボーカルトレーニングよりも、ずっと彼女はダンスに関して力を入れていた。
やればやるほどむしろ筋肉が付いて太くなる足には諦観すら覚えているが、それでも少女は汗の海の中に溺れない。
「はぁ、一、二、三、四……一、一……」
そもそもがのっぽの木偶の坊が戯れに始めたもの。親が言った太り気味だよを気にして運動のために近くのトレーニングセンターに入っただけ。
だがしかし、それだって夢になってしまってからは、どうしようもなく頑張り続けられるのだ。
彼方には、光がある。そんなことは誰だって知っていた。けれども、それを魅せつけたのが、何時も自分の前に居たあの人であるからには、追いかけ続けるのは当たり前。
そう、吉野友美というアイドルでありこのセンターで知り合った先輩の背中を何時までも見続けたくて、咲希は皆が音を上げ続けたその先を往ける。
「一、二、三っ!」
テンポ、リズムの流れ。そんなものは全て頭の中に入っている。後は、それを展開するだけ。それこそ、あの人のように美しく。
だが、それがどうしてこうまで難しい。一年も前には並んでいた上手も、今ははるか遠く。自分が下手とは思いたくもないが、これはやはり仰ぎたくなるほど違いがあって。
「友美は、やっぱり凄い……」
今日も今日とて咲希はそう、結論付けざるを得なかった。何が違う、それは美しさ綺麗さあざとさ。それらすべて含めて偶像っぽさだ。
アイドルとして階段を登っている先達が魅せつけたテレビでの歌唱は踊りは、どう観たところで敵えない。
咲希はだから、真似をする。そして、何時かに並ぶことを夢に見ていた。そればかりで、自分にだけは連戦連勝中。
でも、その程度でしかないからこそ、彼女は嘲るようにいつも通りに叫ぶのだった。
「へっ、また友美ですかぁ? 咲希は縋り付く相手に困らなそうで何よりですねぇ!」
少ないダンスフロアを貸し切って何していると思えば尊敬に浸っている様子の少女を相手に、町田百合はジャージ姿で辛辣を向ける。
当たり前のように彼女の言葉は尖っていて、相手に刺さるように向かう。
だが、それも慣れたものには引っかかるようなものがない。ただ、単純に自分のことを真剣に見ているのだという理解に、しかし咲希はあえてこう返すのだった。
「……そう。断崖絶壁崖っぷちを続けている百合と比べたら、目指すものに恵まれた私は勝ち組」
減らず口には、似たようなものを。喧々囂々こそが、百合というものにとって望ましいコミュニケーションの形であると察している彼女だからこその応答。
本当は、嫌いだが大好きだ。そんな、心根を隠しながら咲希が百合を昏色の瞳で見つめると、意外にも更に強めの言葉が返って来た。
百合は、稚児の柔らかさの唇を歪めて、言う。
「へっ、よく言うですよぉ。百合には、あんたがただ目をくらませているようにしか見えないですよぅ」
「……どういうこと?」
思わず、咲希は眉をひそめる。大好きなものを嫌と見る。少女にとって、目をくらませているというのはそれくらいに心外だったからだ。
好きなものを目指すことの何が間違っている。大切なものを崇めて、努めることの何が悪い。
「んなの、決まってるですぅ」
その答えは、百合のこの世の全てを殺してもあまりある熱量が答えだった。
彼女は確信を持って語る。それこそ、自分の道理こそが真理であるかのように、嘯いて。
その光はまやかしだ。何しろ、この世のあまねく全ては己とそれ以外に分かれていて、つまり。
「だって、人は結局、他人ですよぉ?」
だから貴女は、彼女には成れない。暗に、百合はそう言うのだった。
「っ……」
それは、勿論百合の優しさ。無理して成り代わろうとしなくても良いのだという、諭しのような何かだったのかもしれない。
でも、そんな諦め染みた文言はあまりに彼女に似合わず周囲に撒き散ったからこそ、咲希は嫌う。
ああ、そんなことをお前が言うな。何しろ本当は私は貴女のようになりたくってでも出来なかったから嫌っているというのに。
それでも、私は。
「……それでも、私は愛してる」
「……なら、勝手にするですぅ」
思いは隠せば伝わらず、ならすれ違うのは自然。面と向かって紡がれた愛言葉だって、他に向いていたものと思えば、紅顔にはまるで足ない。
そろそろ時間が過ぎてるから出てくですぅ、と小さく言って百合は音響機器を覗きに行く。
そして彼女の全体の小ささを見つめて、そのうちに潜む圧倒的な熱量に焦がれた想いを拗らせた咲希は。
「愛してるんだよ、私は……」
百合、貴女が大好きで、でも貴女と一つになれないから嫌い。だからこそ、目指せる何かに憧れているというのに、貴女は、私を皆を他人と言うなんて。
でも、私は負けない。なぜなら、愛を形にするには、ウザいくらいに大きなこの体で示すのが一番だから。
「一、二……」
「あ、次の奴らが待ってるのにまた始めやがったです、このデカブツぅ! 止めるですよぉ!」
険を器用にちょこんと見える眉だけでもって示す百合を前に、咲希はこう思う。
だって、私は知っている。きっと、貴女は間違っていて、故にこそ皆に正しくあろうとして欲しくて檄するのだろう。きっと、それは一人になりたくなくても自分と同じになってほしくないから。
でもそんなだからこそ、私は間違って貴女と一緒にありたい。
「止めない」
「なんて奴ですぅ……こうなったらししょーを呼ぶですぅ!」
「ダメ……」
「くっ。抱きついてきたですぅ! こいつ、べしょべしょ汗臭くて、力つえぇですよぉ……ぐえぇ……」
「汗臭いとか、乙女には禁句。やっぱり百合はダメ」
「やばいですぅ……真っ二つにされ……ぐぇ」
強烈な鯖折りに泡を吹く百合を愛おしく抱きしめながら、少女は倒錯した愛を咲かせるのだった。
「はぁ……キツいな」
吉野友実という少女は、アイドルになるために生まれてきたような存在である。
見目は当然のように麗しく、運動神経も抜群で体躯はどこまでも柔らかく、目的のためには媚びることすら容易い精神まで持ち合わせていた。
笑顔なんて、意識するまでもなく人生の楽しさからしてしまっているもの。
生まれからこの先まであまりに明るい彼女は、故に年頃になった今既に一人のアイドルとして活動する傍ら、レッスンを行い己を輝かせることに余念がなかった。
だが、それだけ。彼女はトップアイドルに至るにはまるで足りていない少女でもあった。
「ひと月、ぶりかぁ……」
殺人的なスケジュールは、真に人を殺せなくても、心を殺していく。
そして、努めたところでどんどんと足りなさが判明していき、それを直すことすら覚束ない現実は、少女を偶像として欠かせた。疲ればかり浮かべる少女はただの少女としても、頼りない。
昨今の友美は、アイドルのためのセンターから出た綺羅星として、多くの媒体にて活躍している。
以前から加速し続けているアイドル人気。その中でも、最近期待の一人として取り上げられるくらいに、彼女は優れたものではあった。
間違いなく、魑魅魍魎が跋扈する芸能界でも死なないで済む程度には活きた存在ではあったのに。
「ダメだったなぁ……」
それでも、一瞥だけで無理は理解した。綺麗で美しいだけではない、何か。華を語るなら、彼女を抜きにしては無理と言われる程の、極まり。
そんなものを、直に見てしまったことが、終わりの始まりだったのだろう。
ずっと、アイドルをしている年齢を忘れたバケモノ相手に、語ることすら出来ず友美は敗軸した。そして彼女をそんな在り来りのアイドルとして、視聴者達は忘れていく。
「私は、何なんだろう」
可憐だって、上手さだって全ては消費の一部。そんなものなんて最初から知っている筈だったのに、自分は特別だと思いこんでいたのか。
お笑いである。いや、むしろお笑い芸人であった方が良かったか。笑顔なんて素敵なもの、ろくに作れないアイドル程度。
「私が、嫌になるね」
我がふるさとのようなエムワイトレーニングセンターの前ですら、そんな呟きを止められないくらいに、彼女は重症。
花冠程度で、花は語れなかったのか。今更未熟を理解し、そして久方ぶりの練習の時間を前に友美は今蹲る。
「ああ、私なんか、ダメなんだ」
夢を見た。二人の特別と共に、ステージを彩る未来。
でも、あれらの星を導くことすら今やできる気がしない。そして、またあの子達があのバケモノに穢されてしまう可能性も恐ろしくって、竦む。
幸せは、きっとファインダーの向こうにはないのだ。そう、全てを諦めたくなっていた友美はしかし。
「ダメ、なわけがねぇですぅ!」
「……百合?」
当然のように、一人の絶望に叱咤される。
それは真っ先に先達を発見し、友美を愛しているだろうのっぽのためになってやろうとツンツン駆けて、そして弱音を聞いてしまった。
勿論、少女の本音なんて百合に理解できる訳もない。唐突だったし、そもそも慰めるのは難しいものだ。
でも、短距離走程度で息を切らすことは失くなった、努力を信仰する地獄の人は語るのである。
「ダメなんて、もう百合が通り過ぎたところですぅ。あんたはその先に居る……なら、まだまだ負けるなですよぉ!」
「でも、私は……あの人には勝てなくて……」
「だから、どうしたって言うんですぅ?」
自分は月になれなかったと韜晦する星の言葉なんて、地の底の民はろくに聞かない。
当然、一番のほうが良いに決まっているけれど、でもそれでもそれ以下に価値がない筈もなく、そもそも全ては天上にて輝いていて、だから。
「それでも、幸せにはなれるですよぉ!」
手を開いて、笑顔。それだけが地獄の少女の出来るばかり。
でも、仏頂面ばかりがお似合いだった彼女の頬は引きつっていて、とても笑みは下手くそで、だからこそ。
友美はああ、笑顔とはそれほどに価値があるものなのだと、思えたのだった。
「ふふ」
彼女は、笑った。
「良かったよ、真っ先に百合、君に会えて」
「全く、そんなヘタれた姿だったら、咲希が泣くですよぉ? もちょっとだけ、気張るですぅ」
「はは、頑張るのは簡単だと思ったけれど、調子に乗ってなければ殊の外珍しいね。けど……」
「けど?」
「愛さえあれば、もう少しは頑張れるかもしれないね」
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