ウマ娘達がその速さを競うということは、人が薄氷を渡ることと似ているのかもしれないと、彼は思った。
そもそも遅ければ氷の下に堕ちてしまうだろうし、そしてほんのちょっと力を入れすぎただけで氷は脆くも砕け散って足を取られてしまう。
最悪没した先に適切な助けも届かなければ、その果ては水底といったところなのだろうか。
そう、そのように彼女らは、実は一歩を努めすぎただけで壊れてしまう存在だった。
全力全開。或いはそんなことですら自壊してしまいかねないくらいに、少女達は華奢だったのだろう。
あまりに魅力的で眩けれども、閃光は一瞬。だがそれに賭けて駆け出すのがウマ娘で、或いは輝きは己をすら蝕み得る。
■の鼻先に人参をぶら下げる、などという異世界の言葉なんて知らずとも、彼女らは明らかに欲するところに真っ直ぐ過ぎた。
その傾向が強い――――等、まるで《《そうでなければ生きられないかの如く》》に競走に対して烈火ではなかったか。
本来そんなことはない。生存競争等ということばこそあれども、彼女らは人に守られるべき愛おしいウマ娘。折れても、止まっても、愛らしい彼女らを責める者などそう居るものではないだろうに。
でも、少女は壊れるまでに全力を尽くし、夢に一歩届かないところで倒れた。それが、正解ではないことなんて明白。
「なら……――――は、間違っていた」
もし、それが真実であるならば、そもそもの彼女らに《《たづな》》を付けることすらなく指導という効率化を科すばかりの人間達は果たしてどれほど罪深いのか。
トレーナー。望みを叶えるための加速装置。だが、行き過ぎた際に制動のブレーキをかけることだって、あるべきだったというのに。
「ただあの子の背中を押し続けた僕は、善し悪しに分けるなら、随分と悪かったんだろうな……」
心象と反するように抜けるような青く澄み渡った空の下、――――の担当トレーナーである彼は仰がず地べたを望みながらそう呟いた。
少し茶色くなってきたコンクリートの端には瑞々しい草花が活きており、まるで緑の額縁のようなそれらと人工物との対比は無闇に美しい。
「ふぅ」
だからそっと、男は目を閉じるのだ。
悪気はなくとも断崖へと誘った自分は救いようもない愚者であり、ならばそんなものに救いなど要らないと、まるで自罰のように。
暗黒の中噛み締める唇からはもう、一言も漏れない。ただ、痛みばかりが気付け代わりだ。
此度青年から一歩長じたばかりの大人は、当然のように間違った。
望みの後押しをすることと、無理を許すことは当然ながら、違う。
でも、そこに熱くてたまらない程の愛があったならば、ひょっとしたらその差異すら意識出来ないものかもしれない。
結果、少女に身の丈を超えさせ、破滅させかけた。そんな事実に溺れる彼は、息すら苦しくなる程己を責めていて、美しいものを目に入れたくないほど捻くれてしまったのだけれども。
「だーれだ」
「っ」
瞑った瞳に、唐突に冷たい目隠しがかけられる。
手の冷たい人ほど心が温かいという俗説が真実ならば、なるほどこの死人とも思える程に低体温の彼女はきっととても優しい。
驚きと冷えにびくりとしてから、その声色にもあった優しさを感じたトレーナーは、誰と問われたことに闇の中安心しながら素直に返した。
「……――、かな」
「ん。当たりだよ」
当たり。その報酬と言わんばかりに離れた――――の両手による冷たい目隠し。
それを名残惜しく思えた彼は、つられるように目を開く。
真っ直ぐにベンチから望めたのは、練習場の遠景。慣れたここで黄昏れていたのを察されて、こうも気づかれた。
未だ足の固定の取れない彼女は、申し訳ないなと思うトレーナーが振り向く前に、ふふと笑って問う。
「トレーナー。驚いた?」
「ああ。驚いたよ。思ったより君の手は冷たかったし、何よりこんなお茶目な真似をされたのははじめてで……」
「ん。なら、元気は出た?」
「それは……まだ、難しいかもね」
「そっか」
言葉を短く掛け合って、それで――――は片足けんけんを少ししてから彼の隣に座す。
ギプスにて足を固定されながらも、少女は近頃松葉杖を教室に留守番させることが多くなっていた。
それは、もとより片足は健全であればウマ娘程の脚力があれば片足一つで軽く学内程度なら歩み切れるからであり、またそれをトレーニングの一環と断ざれてしまえばトレーナーも口出ししにくい。
しかし、音もなく忍び寄れる程にけんけんを上達させるとは、本当に――――という少女は多芸な子だとは男も思うのだった。
しばらくの、無言。
下を見てギプスを目に入れたくないトレーナーは空を見上げ、――――はどうしてだか、面白そうにそんな彼を見つめている。
風に届く少女の甘い香り。揺れる二つお下げは院内理容師の手にてひと月前より大分小さくなった。
変わらないものなどなければ、役割だって何時もと真逆。気を塞がせる彼に、彼女は朗らかに話をかける。
「ねえ。トレーナーは今年桜餅食べた?」
「唐突だね……まあ今年は、正直食べ損ねたかな。これでも僕、結構甘いもの好きなんだけれどね……」
「ふふ、知ってる」
「そう、かい? まあ、特に隠している訳じゃなかったし……そんなもんかな」
「ん。トレーナーは酸っぱいスポーツ飲料を飲む私たちの横でいつもジュース飲んでたから。あ、それで桜餅の話だけれど、ちなみに私は……」
「……どうだったんだい?」
「ふふ。季節ものだからって久しぶりに食べたら、味がちょっと分かったかな?」
「それは……良かったよ」
――――が味覚障害だった事実に対して、特に担当トレーナーの彼は誰に怒られることも責任を問われることもなかった。
だが、それこそが青年以上なだけの彼を苦しませ、痛ませていたのは間違いない。
故にこそ、その良かったという言葉は心の根っこから吐き出しされたかのように強く響いた。
「ふふ。そう言ってくれたのは、嬉しいな」
「そっか……あのさ……」
「ん。改まっても、ごめんはもう聞かないよ? まあ、エルのトレーニングをエル任せにしてこんなところで落ち込んでたのはダメだけど」
「そう、だね」
「ふふ……一人になっても、辛いだけだよ」
「……気を付ける」
トレーナーから見て――――は、明るくなった。いやむしろ吹っ切れた、という風に近いだろうか。
走ることに急くことはなくなり、まるで以前の執着はなくなってしまったかのよう。でも、健全に回復後の未来のために動いてはいて。
そんな心変わりの助けに自分はなれていたのだろうか。そんな自信のない彼は、彼女の全体をはじめてそっと横目で見て。
「っ!」
「ふふ」
まるでそれを待っていたかのようなタイミングで頬に添えられた――――の手のひらによって、背筋を凍らせる。
柔らかにほほ笑む少女の全てに険など見当たらず、円かな全てにはむしろ親愛しか見当たらなくても。
それでも、何かが間違っているような、そんな気持ちがどうして湧いてきてしまうのだろうか。
本来ならば、彼女ならば、そんな全ての想像はどうしたって優しくしかされない現実に負ける。
トレーナー失格。そう思い込みたい情けない彼を前に、けれどもどうしようもないじゃじゃウマ娘だった――――は改めて、こう言い張るのだった。
「ありがとう、トレーナー。私がここまで頑張れたのも何もかも、貴方のおかげだよ」
そう、ばってんの少女は無理くりにも何もかもに丸を付けて。
「それは……」
でも今の停滞を認められず、また最後の最後に彼女を最期にしないためにもと栄誉から命を守ってしまう一言をかけていたことをすら、気に負っている彼は再び下を向く。
だが以前のただの――――という少女のスタートラインに帰ってきたばかりの彼女は微笑んで。
「ん。大丈夫だよ、私は貴方を間違いにだけは、しないから」
こうとだけ、告げるのだった。
「……ああ」
ゆったりとした歩みの中孤独の中での想起。
それによってグラスワンダーは、散り散りに乱れる己の心に弄ばれる。
もう逃げては、いない。だがごめんなさいとも、彼女には言えなかった。
何しろ、あの優しい彼女は――さんが帰ってきましたと担任から紹介があった中、どすどすと地を松葉杖で跳ぶように進んで真っ直ぐグラスワンダーの前にやってきて。
『また私、グラスを追いかけるね!』
笑顔で、そう宣言してくれたのだから。
それが、グラスワンダーという少女に対してどれほどの救いになったか――――本人は果たして分かっているのだろうか。
再び夢と地続きになった今。それを唄うように彼女は言葉を紡いだ。
「また――と走れる……」
今日もけんけんで器用に校舎内を跳び回る彼女を徒歩で追いかけきれず、グラスワンダーは駆け抜ける輩達を遠くに見ながら、しかし心なんてどこにもあらず。
全ては、あの少女に沿うため。そうして何もかもを一致させて、愛をすら叶えられたらそれはどれだけ。
「いけませんね」
そう。だがグラスワンダーはそんなことを己に許す気はない。
美しく、律する。それを日本の美と崇めていたこれまでを、彼女は思い出していた。
だから、恋しいほどの、いや狂おしいほどの激情だろうとも胸に秘めたまま――――に追いついてもらうためにも、無理だけはせず。
そうと決めた少女はもう、焦らないのだ。歩みはどこまでも余裕を持ったもので、進みはだからこそ早くもない。
故にこそ、こんなことを宙に吐き出す余裕だってあった。
「失くしたと思ったものは、あの子が全部返してくれました。だから、私は駆け回ることすら必要なくて」
人の少ない学び舎の長い廊下に影一つ。その天辺にて動く耳はけれどもぺたんと降りて。
斜光より尚紅い顔を緩ませたグラスワンダーはこう呟くのだ。
「私はこんなに幸せで、いいのでしょうか」
――――のせい/おかげで微笑みと共に友誼すらも取り戻せた今。
苦しかった日々は彼女のためにバラ色に色づいて、落差にそれすら夢のように思う王冠を被る彼女はだからこそ。
「それでも、私は走れますか?」
治りつつある足、飢えない心が不安で仕方ないのだった。
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