第三十二話 ジゴクノカマノフタ

マイナス百合 マイナスから目指すトップアイドル

町田百合というのは最低値、いやそれこそマイナスから開始した小さき命である。
実親ならまだしも余所人が愛するには些か地獄的に過ぎていた子。
踏みしだかれるべき最低値、哀れまれるべき地獄の蓋はだがしかし。

『トップアイドルになるですぅ!』

地獄の頂点から、真っ直ぐに星を見上げ続けていたのだった。

それこそ、天にたどり着いてもまだまだその上。

「……かかってきなさい」
「――ですぅ!」

唯一絶対である孤星にまで、彼女は手を伸ばす。

 

好まれる。それに限度がないことを知らない少女は親愛以上を知らず。
フラワーブーケから溢れ、大地を覆うほどの花々を頂きながら百合は首を傾げるばかり。
彼女は手紙以外に方法がないからとファン達の思いの丈が詰められたそのあまりの量を理解できない。
ただ、白魚の指先で愛すべきマネージャーがそんなに見てみたいなら、とテーブルに山としたレター達の一番上を拾って、紙束の上をざわめく熱量にうぇと舌を巻くのだった。

「なんか、すげぇことになりましたねぇ……」
「そりゃ、君は凄いから」
「別に、百合は一番って訳でもねぇ、ですがぁ……」

愛あるものばかりを選別して百合の身長を超える程の規模になった文字で昏い紙の山。
すべてが賛美であるからには、きっとこれは世間の愛の証なのだろう。

確かに彼女は歌った。それは悲鳴のごとくであっても、どこまでも高らかであれば敵うものなどもはやどこにもない。
マイナス。叫び声バージョンのアップが待たれるそんな楽曲は今や社会現象を超えて語られている。
そして|飛ぶ鹿《ベテルギウス》を落とせるのならば、次は。そんな期待はしかし等の本人にはこれっぽっちも届いてやしない。

隣でさもこれくらい当たり前だとでも言わんばかりに平然としている半身に、しかし百合は同調できなかった。
なにせ彼女は、アイドルになって間もないという時間と相応の自認しかない。
己が天上を超える程のジャンプアップを繰り返しているということは想像の外であったのだ。

「それに、百合はぁ……うむぅ」

百合はツインテールの髪束先端のカールを気にしながら、薄桃色の唇真っ直ぐに口ごもる。
足下にこの世全ての悪を敷いた不燃性という、地獄を秘めた悪性が鏡に映るばかりの少女は分からない。
星なんて照り返すばかりの巨大な石塊でいいということや、光の層も燃焼の結果でしかなく太陽ですら永いばかりの形無しであることにも興味がないのだ。

「でもトップアイドル……その内の一人ですが一応なっちゃったのですよねぇ……なんかイメージと違うというかぁ」

だが、町田百合は星の正体すら知らないまま星の如く眩いトップアイドルに夢を見ていた。
世界一平等に、熱と光を振りまく地獄知らず。綺羅綺羅と輝く暗闇の中の道しるべ。
ずっとそんなものになりたくて。
だから、誰よりカシマレイコに近い存在になった今でも、トップアイドルの実感などなかったのだ。

だって、少女は未だに《《はら》》の内に地獄を抱いている。苦しみばかりが腑に落ちて、幸せな今などよく分からなかった。

オーキッドプロダクションの出世頭の看板アイドル。
それどころか日本全体から認められて保護され、本来ならばありがとうと頭を垂れるべき境遇を解せない。

「ふむぅ……」

ただ首を傾げて、つい先日の過去を思う。想起するのはあのドームでの《《ちょっとだけ》》大変だった日。
忘れられないのは、バンビダムの崩壊と共に憑き物落とした、いや余計なものを地獄に棄てた鹿子の崩れたメイクの下何より清々しそうに微笑む姿、そして彼女が吐き出した言葉たち。

『ごめんなさい。わたしはただの貴女のファンになってしまいましたわ。もう、《《私》》はわたしを誇れない……アイドルは、卒業です』

きっぱりとトップアイドルを諦めた彼女の隣で、百合は何と言えば良かったのだろうか。
確かあの時少女は大人への一歩を踏み出した彼女に、あんたの分まで頑張るですよぉ、とだけ伝えたのだ。
それだけで本当に足りていたのか、それとも何もかもが見当外れだったのだったのか、最後に応援していますわとだけ言って責ばかり片付けてから消えた鹿子の背中は、もう遠過ぎた。

「ずっとアイドルじゃ、居られないのですねぇ……」
「ああ。それこそカシマレイコですら、例外じゃないだろう」
「あの妖怪ですかぁ。正直関わり合いにもなりたくないですがねぇ……」
「それでも君は、シングル二曲目でカシマレイコを定位置――トップ――から堕としただけでなく、四天王を打倒した上で四天王入りを蹴ったんだよ……つまり、それはカシマレイコに並ぶ選択をしたということだ」
「はん、あんなのと一緒とか、ゲロゲロですよぉ」

百合は椅子の上でぷらぷら足りない丈を遊ばせながら、世界随一のアイドルのアイコンを汚物と囀る。
実質ナンバー2である彼女が、本質的にカシマレイコをこれ一つも認めていないというのを知るものが少ないのは幸いだろうか。
町田百合に心酔どころか命を賭けてすらいるマネージャー中井裕太ですらどうかと思ってしまう程の、蔑視。
太陽を穢の塊と目す少女は、立ち上がりおもむろに紙束の山を抱きはじめながら確信を持ってこう呟くのだった。

「ユータ、アレの本質は悪。私と位置違いの同種なのですよぉ。そう、カシマレイコはお伽噺ではなく妖怪物語の最後の最後に描かれた、星を呪う空亡でぇ」

提示されたその愛たちを信じられなくとも、愛したいからと数多の手紙達にキス代わりに顔を突っ込んで。

「んむ……未だアイドルになりたがってる、なんでもなしですぅ」

浅薄な愛の束に呑み込まれながらアイドルの極みである筈のカシマレイコをアイドル未満と断じたのだった。

 

 

『未だアイドルになりたがってる、なんでもなしですぅ』
「いや……こんなのレイコにはあまりに耳が痛い言葉だ。やはり、誘わなくて良かったな」

それを、盗聴器越しに聞いていたのはカシマレイコのマネージャーである遠野幹彦。
彼は電子と書面の仕事の山を同時並行で片付けながら、少し旧びた機材から百合の小さな断言を拾っていた。

「皆、レイコを絶対視し過ぎているのは困るが……こうも見抜いてくるのもまた、難儀だ」

今幹彦が用いているのは、その昔、カシマレイコのために使われのを暴いた際に得た押収品。
太い指の間でタブーを軽々と扱いながら、昔は良かったなと彼は思うのだ。
そう、盗聴、盗撮。芸能界に確かに存在したそんな犯罪達だってもうどこか古く錆びていた。

カシマレイコが照らした芸能界の悪徳達は、彼女がそんなの格好悪いと見下げたことによりとうに価値を亡くしている。
そんなのダサい。故に日陰の雑草たちに成長の余地はなくなり、即ち誰も相手を出し抜くためのグレーな横道をすら考えなくなった。
鹿子の晒し上げが悪意に反してあの程度だったことなど、いい子ちゃんだらけになった世の中の中でも代表的な事柄だろう。

「鹿子のヤツ、どうせなら文字通りアレとナイフで刺し違えても良かったんだがなぁ……いや、想像以上に町田百合はレイコと相性が良すぎだ。さあて」

クリスタルガラスばかりで構築されたオフィスにも、暗闇は存在する。またカシマレイコという光芒に深い影が差さないはずもなく。
そして、暗がりの中心である幹彦はどうしようかと迷うのだった。

だが実のところ百合の存在を消す方法は後ろ暗いものでも良いのであるならば、よりどりみどり選び放題だ。
幹彦には適当なヤツに適当な男を使わせて暴行させることだって簡単だし、アイドルであり続けられない程の悪評をばらまくことだってこれまで抑止に回してきた情報網をうまく使えば楽だろう。
それに何より彼はカシマレイコの敵対者を楽に生かせるつもりもなければ、これまで彼女が飽きた玩具を壊して処理し続けてきた実績だってあった。
世界中から飽きずに舞い込むオファーに対する日々の断りの連絡の手間に比べればあんな人間以下を潰すのに対して力も気持ちも要らない。
それが、カシマレイコのマネージャーである彼の結論ではあるのだが。

「だがアレをレイコは気に入ってしまった……ならせめて、一度は会わせる必要があるな」

才能のような異形を持った少女。それを原石と採ったのが間違いかと今更幹彦は考える。
よくよく見れば、町田百合は《《炎の剣》》であるカシマレイコと真逆の《《キランソウ》》。
永遠の守りのための熱源と、咎人ばかりを待ち受けるジゴクノカマノフタ一輪は大いに異なるが、位置づけばかりは対。

そう、彼女らは共に人類に対する呪いであることばかりは同質である。
そして、今更地獄が目に見えるまでせり上がってきたその理由はつまり。
最近見つけたあの大げさまでに綺羅びやかな《《天の逆鉾》》を含めて考えると、怪異を隣にし続けた優秀な彼はこう結論付けられた。

「だがこりゃ、ヘタをしたら……世界は終わるんだろうな」

嘘みたいに平和なオバケの世界。絶対王者が律したすべての中には夢のようなふわふわばかり。
それこそが今のアイドル界の実情であるなら、そこに地獄を持ち込もうとしている町田百合は、果たして。

「ちっ」

男は、もう吸わない煙草を探ろうとする指をそっと抑えた。


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