遠野咲希にとって、二月十四日というものは、近頃甘いより苦いイメージが強い。
咲希は、食べ物、ひいてはチョコレートが大好きである。花より団子という言葉があるが、花も団子もいらないからチョコを口いっぱいに含みたい、というのが咲希の本音。
特に幼き頃の彼女に、そんな大好物を他人にさしあげる風習なんて、理解の外だった。
鬼は外で落ちた豆をもったいないと汚れ払ってからぼりぼり食べる鳩のような子供が、中学生活三年目のこの頃めでたく身長190センチメートルを越したのは、その旺盛な食欲も一因だっただろう。
さて、そんな恋だの愛だの持てはやされる横でもぐもぐしてばかりだった咲希が、バレンタインデーというものを意識したのは果たしていつ頃からだったか。
それは殊の外遅く、それこそ二年ほど前、中学生になってからだった。
小学生時代は毎年毎年の男女間のチョコの授受を余所に、ただイケメン幼馴染み君からこんなに食えないから咲希食ってくれよの言葉と共にいただきますごちそうさまをしてニコニコしてばかり。
しかし、頼りにしていたイケメン君が中学受験で離れてしまってから(咲希は彼が自分に惚れていたと思い込んでいるが、それは勘違いである)は、もう彼女にチョコをわざわざ与えてくれるような存在は数少ない。
少し前から通い出したトレーニングセンターで女子同士友チョコだとかいって小粒を配り合う慣習があるとは知っているが、それだけではお腹いっぱいにはなれず、当然満足だってほど遠い。
だが、学校の友達は、男女間恋愛ごとに構い倒しの様子。そうなると、まだ可能性のありそうなセンターにて大好物をただでたっぷりいただくことを望むのが、万年食費のせいで金欠な乙女の自然だった。
「だれか……明日私にチョコ……ぷりーず」
丁度運動の後でぐうとなりそうなお腹の事情もあり、二月十三日のその日、咲希はチョコくれ魔人と化し、エムワイトレーニングセンターをうろうろとしていた。
大きな背中を丸め、手をだらりと降ろしてゆらりゆらりとセンター廊下をチョコチョコ言いながら行ったり来たり。普通に不審者的であるが、だがしかし咲希は立派なセンター利用者。そしてアイドルの卵にすら至れそうなきれいどころでもある。
そんな彼女が、真剣にチョコを欲しがってフロアの前をうろうろ。巨体が何やら出待ちのような動きをしている様子に、中でレッスンを受けている子達の中には、怯えてミスを頻発してしまうような子だってちらほら出てきた。
「あはは……咲希ちゃん。ダメだよ? バレンタインデーのチョコってのは強請って貰うもんじゃなくてさ……」
「うん……プレゼントっていうのは貰えなくても文句は言えないっていうのは、ばっちゃも言ってた……」
「まあ、その通りなんだけどね……それを知ってても君は食欲が勝っちゃうか」
「そう……チョコ……」
これには、通りがかったセンター長の与田公平も苦笑い。だが話しかけた長身女子は何を語ろうとも、幽鬼の如くに揺れながらチョコ、と零し続ける。
もはやモンスターのような、食い意地っ張り少女。流石に、これほどの食欲の暴走は咲希にだってあまりないことではあった。
だが、明日の楽しみに希望がなくて、たった今お腹が空いたのだから、仕方ない。そう、思うことにして思い込んでまたふらりふらりと少女はしようとする。
公平が、常備している菓子でも与えて大人しくしてもらおうかと考え、苦笑いと共に顎に手を当てて考え出した時。
「あんた、何ふらふらしてるですぅ?」
「君は……」
個人レッスン用のトレーニング室から、何だこいつと眼帯を常にしている特異な少女、町田百合がひょっこり顔を出した。
彼女からしたら、何やら行ったり来たりしているでかいのが偉い人にまで迷惑をかけだした様子だったので、後に別職を見つけ退職する男性トレーナーの了承を得て、中座してまでして注意しに来たのである。
しかし、事態が大きくなる前になんとかしようとしていた公平に、他者の介入は喜ばしいことではない。
案の定、あんた呼ばわりされた咲希は、取るも足らない程の下手を重ねる少女を、そのまま呼んだ。
「あ、下手くそチビスケ」
「むっ、下手呼ばわりは百歩譲って許しても、百合はチビじゃなくて百合ですぅ。あんたこそ随分とデカくで邪魔ですぅ。そんな、物欲しそうにウロウロしてたって何も出ないですよぉ?」
「……そんなこと一々言われなくても分かってる。でも、チョコが欲しい」
「はぁ……理性を超えて腹空かせてるとか、どんだけですぅ。つうか、チョコですかぁ……」
咲希はぶつぶつ言っている百合をやる気なく背筋を曲げて、じろりじろり。するとこれまでつむじばかりを見つめていたが、意外と整った顔を彼女が隠していることに気づく。
そして、そもそもが咲希好みのミニサイズ。これで、ツンツンしているところがなければ、抱きしめて可愛がりたいところだが、と少し思ってから、彼女はそれを再び食欲で忘れる。
だが、百合はそんな食べ物を欲しがる少女の悩みを餓鬼道すら可愛いものである地獄の炎に落とし込んで考えた。
百合から考えてみれば、そもそもチョコなんて代物は自分で買って食べるものでしかないが、しかしこのでかいのは人からもらうのを当たり前としているようである。
それは甘えであり、直すべきところなのかもしれないが、しかしそんな可愛い痘痕なんて一々指摘しなくてもいいものだ。だから、やさしい返答とは何かと考え、そうして百合は不機嫌になる。
「はぁ」
どうして自分は何時だって毎分毎秒地獄の炎で苦しんでいるのに、他人の心を慮るのか。それは、きっと代替行為でしかない醜いものだと百合は思う。
だから、嫌そうにしながらも、でもそれでだって性根から優しくすることを止められない彼女は答えになるだろう文句を呟くのである。
「チョコばっか食ってると、太るですよぉ?」
「あ……」
そして、言っちゃったかと横で黙っていた公平は口をぽかん。それは正論。カカオマスにいくらかの痩身効果があろうとも、愛情だけでなく砂糖たっぷりのそれは身体を太らすのは当たり前。
百合は常に燃焼しているからか太ることは殆どないが、普通一般が食べ過ぎればデブになるというくらいは知っている。
だから、止めとけばと口は勝手に優しく動いてしまった。しかし、それは食欲でたまらなくなっている咲希にはとても辛いところに刺さるもの。
彼女は、あまりのクリティカルヒットに、どっかんした。
「今日だって痩せるために動いたんだもん! いいじゃん、明日少しくらい太っても! 私食べたい! お腹すいた! チョコ、チョコー!」
己のキャラも忘れて、咲希はいやいやをしながらジタバタゴロゴロ。二年も前の当時であろうと180センチ台の長身が、レギンス越しおっぴろげも気にせず地面で子供の駄々を見せるのだから、たまらない。
あえて目を逸らしてあげている公平の隣で、なんとうざったい奴なのだと、百合は心より思う。
だが、中学一年生なんて、当然のように子供の範疇にある。だから、緊張が解ければ幼児に還ってしまうことくらいだってあるだろう。だが、そんなこと、幼少期に努めることしかしなかった百合は、分からない。
「はぁ。仕方ないですねぇ……」
とはいえ、百合はどうしても押しに弱いところがあり、本当の悪を飲み込んでいる少女は多少の弱さについてだって悪とは思えない。
だから、どうしたって彼女は己の身を削る。あの世とこの世の合わない温度にざりと削れる心を知らず、ただ子供の健やかな成長を願って。
今日の帰りにデパートに寄って、小遣いでこのでかい子供を満足させるために、努めてあげることを決めるのだった。
あえて嫌そうにしながら、百合は告げる。
「チョコケーキでも、明日作って持ってくるですぅ」
「ホント!」
「わ……まあ、仕方ねぇです」
「やったー!」
「全くすげぇ高いテンションですぅ……普段との落差がすげぇですねぇ」
「わーい!」
その後、ぶんぶんと振られた手に、苦笑する百合。咲希の後ろでごめんねしている公平も含め、仕方がないということで、彼女はその日の出来事を纏めるのだった。
翌の十四日。案の定、友チョコ少しばかりを貰ってその場でボリボリ食べただけの咲希は、満足できなかった。
だって、以前のものはもっと色々と降り掛かっていて、いろんな形があって、愛というものがたっぷりかかっていた上に何より量があったから。
バレンタインデーというもので愛をもらえる可能性より、物だけは食べられる確実をばかり採っている咲希は実に意地汚い。
「……ふふ」
といっても、彼女だって足るを知ってはいる。百合にリクエストした5号サイズのケーキをまるごといただければ、お腹はいっぱいになるに違いなかった。
聞くに、百合の料理の腕は確かなようで、ときに持ってくる手製のクッキーなどは評判が良いらしく、実に楽しみである。咲希の長い脚も、トレーニングセンター前のベンチでぱたぱたと実に忙しげだ。
「早く、来ないかな」
それは学校から早く来たため、センターが開く少し前。そんな時から待っているとは百合も思うまい。だが、待つのだって食事にとってのスパイスになり得るもので。
「ふーん……ん?」
そんなことを考え、まあ普段と同じく開いて少し経ってからだと咲希が待ち構えていると、足音がぱたりぱたり。
それがどうにも悲しげな音色で彼女に似合わないものだったから、咲希は気づくのに遅れたが、小さな全身を見つめる限り、足音奏でているのは百合。
彼女が両手に抱えて持っているようである大包を認め、約束を守ってくれたのだと上機嫌になった咲希はそのまま百合へと駆け寄る。
ああ、まるで彼女は餌を見つけて喜ぶ柴犬。でも、そんなだから、気づかない。瞳の哀を物理的に隠して下を向いて歩いていた彼女の悲劇を。
遠慮なく、咲希は百合に声をかけた。
「百合……昨日ぶり」
「ひゃっ! あ……あんたですかぁ」
「……そしてありがとう。ケーキ、作ってきてくれたんだね」
「あ……こ、これはぁ……」
ニコニコ笑顔の前で、眉毛が八の字になる。認められたことに包を持った百合の手に力が入るのが、咲希にもわかった。
でも、その故まで詳らかには出来ないもの。期待とともに、彼女は手を差し出した。
「それ、ケーキでしょ? 私、ずっと待ってたんだ」
「あ、あのぉ。これは、その、違うんですぅ!」
「……違う?」
「ゴミ、そう……これは棄てる予定のゴミで、あんたのためにケーキを作るの、百合忘れててぇ……」
しかし、百合は必死になって赤い風呂敷包を背中に隠してまで否定する。これは、貴女の求めているものじゃないのだと、誤魔化して。
小さな手に、力が入って指先は真っ白。それを不思議に思えども理解できない咲希は、分かっていることだけで断言する。
「それ、嘘だよね」
「へぇっ?」
「匂いで分かる。包みの中身はチョコケーキ」
そう、チョコというものに心より親しんできた咲希の直感は過たない。
精度高く、それこそ確実とみて百合が隠しているものがチョコケーキと判じている。
だが、それを持ってきておいて、わざわざ違うと食べさせようとしないとはどうしてか。流石に、なんとなく咲希も不安を覚えだす。
「こいつの食い意地、甘く見てたですぅ……いや、百合実は失敗したんですよぉ。砂糖と塩間違えちゃって……」
「……いい。とりあえず見せて」
「あぁ」
なお、あわあわと言い訳を重ねるチビゴスロリの隙をついて、咲希は包を取り上げる。
上に持ち上がったそれに、小さな声があがるのをなんとなく可哀想に思いながらも、咲希は包を開けて、中身を認めて。
心を、凍らせた。
「……どうしたの、これ」
その声が、あまりに平坦だったのは少女の不幸をようやく察せたから。
それくらいに、この上出来だったろうチョコレートケーキに起きている惨事は、悲しいもの。
ああ、どういう悪意があれば、ホワイトパウダーではなく、砂利まじりの土をケーキの上にかけられるのか。そして、上から強かに踏みつけることが出来るのだろう。
心優しい彼女は全くわからず、だから事情をまた仕方がないと百合は語る。
「……百合には敵がいっぱい居て、そいつらが私がバレンタインデーに誰かのために何かを作ったと知ったんですぅ」
「それで、こんなことを?」
「ええ……本当は、あんたに知られる前に、おししょーと相談して誤魔化そうと思ったんですが、失敗したですぅ……」
理解できない。こんな可愛らしい子を虐める性根も、食べ物を粗末にする心根も。
でも、それは確かにあって、この子を傷つけたというのに、この子は私が詳らかにするまでそれを隠してしまっていた。
きっと全ては百合の優しさが原因である。傷つけられるのも、助けられるのも、迷惑がかかると否定して、一人頑張ってばかり。
そんなもの、どう考えたって間違っているし、ここは自分は何より憤らなければいけないのだろうけれど。
「あむ」
「へぇっ?」
そんなことよりお腹が空いた。
ああ、こんなに優しい愛が籠もった物を前に、手を出さないなんてあまりに失礼。
だから、咲希はあえて砂利ごとふまれて台無しに潰れたところごと、いただくのだった。もしゃもしゃと、上等だっただろうかたなしを、少女は噛んでからごくり。
これに、当然驚愕した百合は、騒ぎせめてもと咲希の背中を叩いて吐くのを促すのだった。
「な、何を……咲希、ぺっぺするですぅ!」
「ん……じゃりじゃりするけど、味はいい」
「ああ、だめですよぉ。身体に悪い……くっ、止めるには百合の力が足りないですぅ! だ、誰かぁー!」
だが、ちょっと動くのが楽になった程度の無力では、大型少女を止めるには力が足りない。
慌てふためき、咲希の身体ばかりを慮って、建物へと駆ける少女はばんばんと扉を叩く。
それを、平気の平左で眺めながら、また気にせず次の一口の為に手を伸ばした咲希は。
「……そういえば、百合、はじめて私の名前を呼んでくれたのかな……あむ」
ごくり。甘味、そして最後に彼女は土の苦味を感じる。
そして、それだって、彼女の痛みを味わうには足りないと、悔しく思うのだった。
ああ、百合は優しすぎて、自分では絶対にああは成れない。でも、成りたかったな、と咲希は心より思うのだった。
「……そんなこと、あったなぁ」
二年も前のそんなこんな。今思えば、愛を抱く契機である自分の起こした事態を思い返し、咲希は緩んだ頬にふれる。
思い返すだけで熱くなるほど、あの日触れた彼女の優しさは魅力的だった。それこそ、独り占めにしたくなってしまうくらいには。
「でも、百合は先に行っちゃう……」
だが、大好きな百合はなんと先日アイドルにスカウトされて今は所属や何やらの調整段階。
成りたいものに先んじて近づいたのは彼女であり、そしてそれを祝福してばかりではいられない。
自分も頑張って一歩を踏み出すのは当然で、そして。
「振り向かせないとね」
そう。彼女は他ばかり見て、のっぽの自分なんてろくに見てくれない。
それが信頼によるのは分かっているけれど、自分と喧々囂々とするのを好んでいるとは承知しているのだけれども、だがしかし。
「やっぱり、好きだ」
この恋情が間違っているのは、同じ性である時点で分かりきっている。でも、それでも伝えたくって仕方ない心はあった。
ああ、少しでも私の愛で、あの子の心が温まってくれたら、それより幸せなことはないから。
だから否定されても今日は。
「素直に、渡そう」
そう、食べるだけのチョコはもう卒業。本日は、あの子に愛の形を渡すばかり。
そのために、残っている彼女に合わせて努力を重ねてかいた汗を拭い、更衣室にて咲希はバックから手作りのチョコを取り出す。
歪な形は可愛らしさに包まれ、透明にラッピングされている。
これが、充分なものでないのは分かっていた。そもそも想いを粒に託すなんて、とても無理。
彼女への愛は何時だってはち切れんばかりなのだから。
「行こう」
でも、それでも少しだろうと伝えておかないと、あの唐変木はないのと同じだと思ってしまう。
愛なき世界なんてありえないのに、一人ぼっちでそれで良しとしてしまうそんな悲しき優しさを、咲希は認めない。
だから、迷わず歩んで進んだ先に、間違いがあったとしたら。
「百合……ん」
「あ」
それは、彼女が入室にてノックをしなかったこと。
憧れが、想い人が一つに重なるその後ろにて。
「嘘」
咲希はぽとりと、想いの形を取り落とすのだった。
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