空梅雨の手本ってものを見せつけられたかのような晴れ渡る六月を終えて、丁度一週間。
月初めに思い出したかのようにぱらついた雨滴の痕の残った竹を飾った本日は七月七日、七夕だ。
今日も早朝のテレビ番組の予報をもとに前の席から天気を伝えてきたハルヒのその言の通り、全国のダムの貯水量がそろそろ心配になってしまうくらいに薄曇りを保ったままだった。
とはいえどうも夜には晴れ渡るらしいが、しかし年に一度の織り姫彦星の逢瀬なんてもんが繰り広げられているらしい天を野暮にもじろじろ見上げるような気は俺に更々ない。
まあ、一等星なんかよりよほどうるさく輝く我らが団長涼宮ハルヒは、七夕を一大イベントとして世界を大いに盛り上げるという団の謳い文句通りに楽しもうとしていたようなのだが。
「どうしちゃったんでしょう、涼宮さん……」
「ただ睡眠をとられているだけ、ということは養護教諭だけでなく長門さんからも太鼓判をいただいていますが……」
しかし昨日から上機嫌に笹飾りの準備をしていたあの喜色に溢れた面持ちは、先ほどから夢に沈んでしまっている。
広いせいか中学時代の印象より消毒液の匂いが薄い保健室には、唐突に遅めのシエスタをかましてからずっと目覚めないハルヒを囲むようにSOS団員が勢揃いだった。
まあそれにしても、思惑などそれぞれ異なるものを持った集まりの筈なのに、こんなハルヒの変事には一転視線が気遣わしげなものに勢揃いしちまうのはどうしてかねえ。
アホの谷口が真剣ぶっているのなんて全くもって似合わっていないが、勘違いばかりしている人騒がせな世界の中心が眠り姫になっているなんて、もっとらしくない。
「やれやれ……そろそろ俺等がハルヒをここに運んで一時間くらいか……起きないな」
「ええ……呼吸も深く、瞼の裏の眼球運動も殆ど見られません。涼宮さんは現在余程深く眠りについているようです」
「よぉく眠ってるんですね……こうなると、起こしちゃうのも可哀想ですよねぇ……」
寝坊助を何時までもそのままにさせておくのも面白くないが、しかし朝比奈さんの言葉にも俺は頷けた。
それはまあ、こうして目を瞑るハルヒが無駄に絵になっているせいに違いない。こいつがキュビズム極まった面構えだったら気にせず起こせたかもしれないが、そうでもないし、むしろどうも額縁の中の他人のように見えてならなかった。
「わたしの、神様……」
唐突にも、朝倉の妄言が静かなその場にやたらと響く。カーテンレールを背中に一番離れたところに突っ立っていると思えば寝顔を見てこれだ。
振り返らずとも朝倉が融けた顔をしているのが分かるくらいの付き合いになってきたのはいいのか悪いのか。俺もやれやれと呟くのすら面倒になってくる程、この場は変わり者ばかりだ。
またそれこそ朝倉なんて黙っていれば美人の代表格だろうが、ただハルヒの場合はそうでもないだろう。
そりゃ普段と違ってこうして黙ってジロジロ見ていても頬を紅くして整った顔を背けやしないから眼福ではあるが、だからって目を閉じていたら今ハルヒが『どっちの涼宮ハルヒ』でいるのかすら分かりもしない。
ふざけたことを叫んで危なっかしいことばかりしていた普段の方がよほど安心できるなんて、なんとも我らが団長は面倒な存在だ。
「ったくよお……本当に大丈夫なのか?」
俺がそんな風に思っていると、端からずっと黙っていた谷口があいつなりに拘っているらしいオールバックの髪を掻きむしってから、苛立たしげにこんなことを口走り出した。
「あのジジイ保険医が寝息一分だけ聞いて診たのなんてあてになんねーし、それにお前等が信頼してる宇宙人さんもよ……今はこれだぜ?」
「…………大丈夫」
谷口とハルヒは俺よりも付き合いが長い。だからこその不安があるのだろうが、しかし顎をしゃくって相手を示すその態度はとても褒められたものではないだろう。
とはいえ俺は谷口に仕方ないなと呆れる以前に、それこそ蚊の鳴くような声で平らに返事をした長門有希の態度の方が気になってしまう。
それは、人心得たばかりのこの宇宙人は誰より物理的に懐いているハルヒに近いというのに、今までになく心細そうだったからだろうか。
数年後の定年まで北高に務めるつもりらしい保健の先生の手本のような優しげなグレイヘアの養護教諭が、戻るまで自由にしていていいよと去った後。
続けてわたしが調べると小さく言って前に出てから、しばらくして問題ないとしてからも、ずっと長門はハルヒの左手を握っている。
まるで親に縋る子のように、っていうのは大袈裟かもしれないが、実際谷口にも長門のその動かぬ表情の裏にある並々ならぬ感情が分かるのだろう。
その真摯なままの表情を見て随分と気勢を削がれながら、しかしこうは問った。
「俺もそう願いてーがなあ……不安に自信が負けてねーか?」
「……大丈夫」
「そうかよ……」
多少は頬も解れてきたようだがそれでも決して長門は表情豊かな方ではない。だがきっと、そう決めつけなければ保たないのだろう。
壊れたテープレコーダーのように同じ文句を繰り返す長門に、流石の谷口も決まり悪そうだった。
見かねた俺は、つい口を出してしまう。
「谷口……」
「……あー……カリカリしちまってすまん、キョン。それに、長門。本当にこいつが大丈夫だってんなら俺は文句ねーよ」
「……いい」
谷口にしては殊勝にも軽く頭を下げた様子に俺が軽く目を丸くすると、一瞥した長門も頷く。そしてそれで一連の流れはチャラになったようだ。
まあ、実際ハルヒが死んだように眠っている、なんていうことはない。すうすう寝息はしているし、今だって長門の手を握り返すような動きだってしている。
こうなっては、どう見たところで寝ているだけなのは誰の太鼓判を貰わずとも分かるものだ。それでも、誰も解散の音頭を取らないのはリーダーシップ不足というよりも、あれか。
『……ごめんなさい。私にも分からないの』
そう。これも全てハルヒが以前、何時までも今のままでいられないみたい、みたいなことを示唆しやがったせいだ。
全く大根役者な我が団長はしばしば本心まで透けて見えちまう。というか、流石にあんな寂しそうな顔されたら、色々気になっても仕方ないだろう。
なあハルヒ。お前は何時まで【涼宮ハルヒ】を演り続けるつもりなんだ?
『……ふうん。キスってそんなに気持ちのいいものじゃないのね。やっぱり、恋愛って、精神病」
あの日唇に触れただけで去っていった驚くほど熱を思い出しながら、俺はそのまま秒針の進む音ばかりを聞き続けた。
「えっと、あれ?」
何とも嫌な沈黙を破ったのは、朝比奈さんだった。
さも今忘れ物を思い出したといった感じで肩をびくりと上げた彼女はそのまま首を傾げる。
羨ましいことにずっと朝比奈さんの左隣を定位置にしていた古泉は急づくりの笑顔にて幼気ですらある先輩に、その原因を尋ねた。
「おや……どうかなされましたか?」
「あれぇ……すみません。急用というか、どうして今まで思い出せなかったんだろう……」
「どうも朝比奈さんにしては要領が得ませんが……ふむ」
「あのね」
何やら考え込む古泉なんてどうでもいいものを気にしてしまい、俺はその一歩を見逃す。
だから、慌てた朝比奈さんのその、こっちまで豊かな気持ちになりそうな大きなものが当たるくらいに近寄ってきていたことに気づかなかった。
「うおっ……朝比奈さん?」
これまでにない朝比奈さんの真剣な表情を見て俺は狼狽するが、それに構わずに朝比奈さんは続けてねだってくる。
「キョンくん、谷口くん。ちょっと一緒に来てくれませんか……」
これはまいったね。谷口も帯同するというのは良くないが、しかし朝比奈さんにこうも甘えられてしまえば悪い気は全くしない。
妹にこうされても肩をすくめるのが精々だってのに、俺も現金な男だと思う。思うが、馬鹿な男の一人である俺の口はあまりに自然に応諾をしていた。
「分かりました」
「良かったですー……突然にこんなこと、すみません……」
「いえ」
そしてトランジスタグラマーな大先輩は俺から直ぐに離れる。それとなく名残惜しさを覚える俺に、朝比奈さんは続けて谷口に水を向けるが。
「谷口くんは……」
「あー……俺は止めておきます」
しかし、馬鹿な男の筆頭であるはずの谷口は、決して誘いに応じることはなかった。
あいつの視線は、もう一度ハルヒのもとに向いて、そしてそのままそれ以外へと向くことはなく。
「こそこそすんのは、性にあわねーからな」
そんな、嘘みたいな本当のことを口にして未来への誘いを突っぱねるのだった。
その後、誘われるがままに俺はタイムトラベルなんて稀有な経験をすることになる。
まあ、朝比奈さんが後ろに周って肩に触れたと思えばそのまま意識が暗転、気づけば三年前の七夕だってもんだからSF的な風情も何も無いものだったが。
その上に起きた先が朝比奈さんの膝上というのもまた良くなかった。慌てて俺はふらつきを無視して起き上がる。
「わ。キョンくん。もう起きて大丈夫なんですか?」
「っ……はい。これくらいなら、問題はないですよ」
「初めてなのに凄いですぅ。流石、男の子ですねぇ……」
「そう、男ですから、ね」
俺は柔かったその太ももから視線を断ちながら、そうとだけ返せた。
いや、朝比奈さんの膝枕を受けるなんてとんでもなく幸甚なことではある。そうではあるが、流石に谷口に男として負けられないという変な意地が俺にもあるのだ。
先に拙くても一途ならば格好が付くというのを知ったばかりでふらふら心遊ばせていても仕方ない。
そして落ち着いてから、この時間移動がハルヒの身に起きた事態の解決に繋がるのだろうという期待を持って俺は朝比奈さんに振り返ったが。
「これもハルヒ絡みなんですよね……って」
「すぅ……」
「朝比奈さんまで、寝てる?」
なんと、眠り姫がまた増えた。
これは一体どうしたことかと身構える俺に応えるかのように、朝比奈さんの後ろの草の茂みが騒がしくなる。
「こんばんは、キョンくん。わたし、ちゃんと寝てますか?」
やにわにそこから飛び出してきたのは、なんと朝比奈さんと殆ど変わらぬしかしより魅力たっぷりな大人の女性だった。
「貴女は……」
見覚えのあるというか、目に確りとその胸元にあるほくろの星型を焼き付けたことのある彼女は、それこそ朝比奈さんの未来の姿だ。
これまで高校生の朝比奈さんと同時に現れたことがないため確証はなく、そもそも二度目の邂逅であるが、やはりマジものの未来人だったようだ。
驚きの連続に口ってものが開ける以外の機能を忘れちまったところで、薄く目を細めたさしずめ朝比奈さん(大)は、朝比奈さん(小)のに近づきその頬をつついた。
「そう、未来のわたしです……ふふ。やだわたしったら、子供みたい」
俺をそっちのけで可愛い、けどそう感じるってことはわたしって自己愛強めなのかなあ、とか続けて述べる朝比奈さん(大)。
朝比奈さんが楽しそうなのは何よりだが、しかし三年の前に放り出されて頼りになるのはこの大人ばかり。
だから水をさしてしまうことを覚悟で俺は彼女にこう水を向ける。
「あー……で、俺はどうすれば……」
「……おほん。詳しくは説明出来ません。理由に関しては禁則事項ですから。わたしはキョンくんにお願いをするばかりです……涼宮さんのために、ね」
「ハルヒのために、ですか? それは……ハルヒが突然寝てしまったことと関係が……」
「ううん。それとは関係ないの。実際、今わたしがわたしを眠らせたように、涼宮さんの眠りにも意味があるの。決して悪いものではないわ」
「なら……」
どういうことなのか。それを問おうとした俺はしかし朝比奈さん(大)は飄々としているようでいて実際禁則事項っていうやつで雁字搦めになっているということを思い出す。
未来の人には未来を変えないために言えないことが、ある。それくらい薄い本ばかりを選んでいたといえタイムトラベル系サイエンス・フィクションに長門ほどではないとはいえ耽溺していた頃もある俺には想像できた。
大きかろうが小さかろうが朝比奈さんは、団の仲間だ。なら、よき未来のためにも俺は信頼できそうなこの人を信じ続ければいいのだろうか。
しかし、ちょっと抜けている彼女が騙されている可能性などが完全にないとも思えない。
故に、黙ることすら出来ない俺は、間抜けにもこうとだけ言うのだった。
「あれは嘘じゃ、ないですよね」
それは、俺と朝比奈さん(大)が初対面の際の会話で出てきた言葉。
閉鎖空間に囚われる少し前のあの日、彼女は【白雪姫】の情報を俺に伝えた後に、真面目な顔でこう発していたのだ。
『わたし達は、涼宮さんのあり方を否定するために未来からやって来たわけではありません』
それが、嘘でないとあの日の俺には分かった。
だが、出来たら今度こそ確信したいと思う俺は欲張りにも殆ど何も言えないかもしれない彼女にそう問い詰めてしまうのだが。
「うふふ……そうね。最低でもわたしは涼宮さん《《達》》の味方です」
ぽろりと、そんな優しい一言を朝比奈さん(大)は返してくれる。上手にウインクを披露してくれた彼女に、すやすや寝入ったどこか頼りない心配の影は重ならない。
なるほどこれが大人の魅力なのかと、ぼうと感心する俺に彼女はこう続けた。
「でも、あなた《《達》》はどちらかを、選ばなければならないの。それも覚えておいてね」
「それは……」
分からない。いやそれは分かりたくない言葉だ。
選ぶも何もなく【涼宮ハルヒ】はあれでいいだろうに、神様ってものは残酷だ。そしてハルヒ本人が暫定カミサマってんだからこの世は不思議極まりない。
思わず仰いでしまった天ははっきりと晴れ渡っていて、きっとこの中なら織姫彦星も不自由なく相手を求められるのだろうなと、俺はそれだけを羨ましく思う。
「涼宮さんも、同じなのだけれど……まあ、あの子は言っても聞かないですから」
やがて朝比奈さんは訳知り顔でくすりと微笑んで。
「とっても可愛い、駄々っ子だからね」
禁則事項の隙間から、そんな愛に溢れた感想だけを俺に伝えてくれたのだった。


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