チルノは十六夜霊夢の《《竹を割ったような性格》》を気に入っている。
真っ直ぐ、表裏なし。ただチルノはその少し断面が歪んでいるような気もしているが、とはいえ大体が丸なら零点をすら赤丸よと喜ぶような大雑把な彼女には問題ない。
だから照れくさくて面と向かっては言えないけれども、チルノは霊夢のことを友達だと思っている。故に、ちょっかいを出したり、時に心配してみたりもした。
それは雨の降りしきる日の夜のこと。
脳天気な彼女は湖畔にてしばらく落ちる雨粒を手前で凍らして、それがぱらぱら頭に音を立ててぶつかってくることを楽しんでいたが、思いついたかのようにこう呟いた。
「霊夢って、あたい以外の友達いるのかな?」
「えっと……チルノちゃん?」
まるで独り言のようだった疑問を隣で受け止めたのは、特異なチルノを除けばここらで一番の大妖精。
霧を渡る能力を持つ彼女は、気まぐれに雨中を行ったり来たりしてはいたが、結局のところ親友チルノの側で落ち着いてしまう。
紅魔館の妖精メイドに片足突っ込んでしまってから中々会えない今、しかし今も心は羨ましくて仕方ない彼女のところにあるようで。
ただ私は別に霊夢さんのこと嫌いになれないんだよねと、氷の羽根の隣に翅をぴたりと付けてみて一度その冷たい実在ぶりにぶるりとしてから、大妖精はこう返す。
「霊夢さんには、えっと。美鈴さんとかチルノちゃん以外の妖精メイドさん達もいるよね?」
「うーん……それはそうだけどさあ。なんか、こうそよそよしてるというか……」
「余所余所しい?」
「そう、それよっ! なんだか霊夢って他の奴らにはあたいに対してみたいに殴ったりしないのよねー」
言ってから、あたいだけ殴られるって変よっ、ズルっこだわと話題が横に逸れ出すチルノ。
ぷんぷんし始めた友達に、こういうところが可愛いのだよなと惚れた弱みを見せる大妖精は話を戻す。
パリ、パリリ。雨滴は今も氷華と咲いて、少女の周囲で割れていく。
「暴力的になるのは確かによくないね。でも、霊夢さんってそれだけチルノちゃんのこと大事にしてるんだと思うよ?」
「殴るのに?」
「うん。つい殴ちゃうくらいに、チルノちゃんのことが心配だから」
「ふぅん……」
微笑む大妖精の話を、チルノは半分も分からず口を尖らせた。大事なものを傷つけたがるなんて矛盾している。
だが、彼女の心ばかりは確りと受け止められてしまったから特に文句が出ることもない。
それこそ、溜息を吐きながら自分を窘めるときの霊夢の表情を思い出せば尚更に。
「普通は、諦めちゃうよ」
どこか達観した表情でそう言を放り出す大妖精。そこには、構われぬ自然の権化達の小さな苦悩が表れていた。
そもそも、妖精は基本的に幼稚なまま不変だ。そんなものを自らの手で叩いてまで良くしようとするのは感情の徒労に他ならない。
だが冷たい妖精に拳を向ける行為を、躊躇わずに霊夢は行い続ける。その理由は。
『どうしたの? あんたらも一緒に行くのよ』
霧中に境なく。しかし、そこを泳ぎ切ればその先は必ず晴れが待っている。
そんなことだけは忘れられない霧の湖の主は、あの日霧に迷い込んだ幼子の手をチルノと共に取ってあげた際の表情だって覚えていた。
友の隣から一時離れてワープのように霧を渡り、大妖精は湖面を踊るように飛びながら、こう呟く。
「きっと、まだ霊夢さんは私達の友達でいてくれてるんだと思う」
「そっかあ」
友達。そんな二文字ばかりでようやく理解したチルノはほっぺを綻ばしてにっこり。
幾ら忘れても思い出してしまうあの日の地続きに今があることを喜びながら、氷の妖精はようやく立ち上がる。
そして《《あの子》》のようにふわりと浮いた少女は、そのまま空に静止すした。まるで霧空を飾るオブジェクトのように嵌まったチルノは、やがて。
「はぁ」
「わあ」
軽く天頂へと手を伸ばして、マイナスを天まで届かせた。途端に巻き起こる風の動きに、少女の指先の向こうで晴れる霧。
チルノの頭上の夜空は月光燦々。ルナ・ダイアルは曖昧にも確かに夜を示していたようだった。
友達が戯れに起こした奇跡的な光景に、喜ぶ大妖精は手を口に当てて。
「チルノちゃ――――」
パリパリパリン。そのまま停まった。
「また、これかぁ」
そして独りごちる、チルノ一人を残して全ては一旦静かになのである。
きっと辺りは幻想的なマイナスケルビンのありとあらゆるものに対するマイナスで満ちている。
そう、時を止めるというのはありとあらゆるものの運動熱量を差っ引くことと似ていた。
そして、幻想的にも博麗咲夜の冷たい世界の中に、チルノだけが普段通り。むしろマイナスを熱量とすらして、止まらない心に少女は触れて。
「嫌なヤツが、どっかにいるのね……ああ、あたいはやっぱり霊夢が心配だわ」
偶に起こる時間停止を鬱陶しいと思いながらも、静止した時の中何より凍えを知る純粋な氷の象徴はただ友のことを思ってばかり。
永遠を願うことを時よ止まれと語ることさえあっても、止まる時は永遠でなければしかし須臾の栞の中にてマイナス極まりないこの妖精は。
「あたいにとっての霊夢って何なのかしら」
唇キュッと。やがて動き出す時を待ちながら、ずっと心のプラスの痛みに悩んでいたのだった。
心とは死ぬものではなく、殺すものだ。
そう教わってなるべく倣って来た博麗咲夜にとって、此度の驚きは面に出てしまうものではない。
「貴女は……時に関わる妖精?」
「違うわ。氷の妖精よ」
「マイナスの幻想……だからこそ、停まった時をすら理解できないのかしら?」
時を止めた中で動く存在なんてまさかまさかと思うなかれ。そう何度真面目な咲夜は自分に言い聞かせたことか。
己が無敵でなければむしろカウンターとなるような相手だってこの世に数多存在するだろうという空想が、目の前で幻想として小さく凝っている。
幼気な少女の形は氷の羽根を広げ、とても不遜に笑んだ。
「ふん。何がどうだとかそんなのどーでもいいわ。そんなの弱っちい奴らが考えてりゃいいのよ」
「貴女はなら、何?」
自然に考察は要らず。故にこそ、無邪気。無知蒙昧こそ何より純粋透明なマイナスであるからには、チルノにとって賢さなんて余計である。
どうしようとも、どうにもならず。それでも在ることだけは止められないのであるならば、悩むことこそ損だ。
そんな知恵者と同じ境地に最初からいて遊んでいる者、妖精の中でもチルノはとびきり。
そう、凍れる流れの権化、不変の一滴たる《《散る野》》は。諸行無常全てを他所に変わらずに生きてきたからこそ。
「最強よ」
きっと誰よりその称号を口にする資格があるのだろう。
あまりに気負いなく吐かれたその言葉と共に周囲に広がったのは停まった時をすら、絶対零度超をすら凍えさせる程のマイナス。
停まって凍った世界は、あまりの威力にギシギシと軋む。
「っ!」
思わず、腰のものへと伸ばした手のひら。それが既に時遅しというのが停まった時間の中にてあり得たとは、流石の咲夜とて思ってはいなかった。
だが、現実はあまりに無情。チルノの展開したコキュートスにて咲夜は腰どころか足先まで既に氷に覆われていて、頼みの武器に四肢は届かない。
そして、そのまま何一つ声すら上げる間もなく、咲夜は時を止めたまま氷に止まる。
「ふん」
そのことに、下手人たるチルノは特に何を思うこともない。
何せこれはあの霊夢が大事にしている家を襲いに来た悪い奴らのいち。
塵一つなく掃除をするのがメイドの嗜みとか、足跡つけて遊んだチルノにたんこぶを一つ作ってから霊夢は教えてくれた。ならそれに倣って、あたいも。
無慈悲にもマイナスの彼女の手は咲夜の最後の熱量すら奪って砕いてしまうためにと手のひらを広げて。
「それじゃあね……ぷぎゃっ」
それを閉ざす前に何と、《《停まった時の中に間に合わせた》》剣閃によって爆散。
無惨にも残念にもチルノは一回休みと相成ってしまったのだった。
「ふぅ」
世界の芯に迫るほど時を切った斬撃。そんな無法なものを放った存在は吐息一つを動き始めた風に乗せる。
「流石に、焦ったぞ?」
「うう……」
「っぅ」
剣神の域とすら賢者に認められるほどの達人明羅は、しかしマイナスの消失によって解凍されたばかりの気絶した少女たちをその両の脇にそれぞれ抱えていた。
彼女は足元の雪華に向けて、つぶやく。
「まさか、お前ほどの存在が紅魔館に入れ込んでいるとはな」
「あいたた……誰よあんた」
「明羅、だ」
ぴちゅーんの後にはお決まりの復活。まこと、チルノほどの存在が不滅であるのはとんでもないことだ。
だがそれに懐かしさの色を乗せて名乗るは、やはり知己故に。
「久しいな」
「ふん」
涼し気などこかで見たような顔を前に《《もう》》勝てないことを察した最強の妖精は、口を尖らして拗ねるのだった。
「……知らないわよ、あんたなんか」
「そうか」
「あたいが今知っているのは、大ちゃん達と……霊夢だけ」
「なるほど。それは良かった」
「何がよ」
思わずチルノはカチンと来てしまう。
何せ、一つ容れればそれだけで溢れてしまうこのちっちゃな器に二人も。
それだけで心揺れて仕方ないというのに、片方は定命でそこそこやるけれど危なっかしくて、不安で。
だから迷う彼女を前に断ずることを得手としている明羅は。
「何チルノ。ある種の最強の一角たるお前にも守りたいものが出来たんだろう? それは素晴らしい奇跡に他ならない」
そう語り、浅く浅く艶やかに、微笑むのだった。
「そうね……」
不滅不変、マイナスの権化。ある種の極まった形は、しかしあったかいあの子供を抱いた時のことを思い出して。
破顔一笑。
「ふふ。あたいったら弱っちいわね」
ころりころりと、感極まった水色の瞳の周りからぽろぽろと、しばらく氷の雫を転がしていったのだった。


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