軌跡の轍の内

イラストです。 それでも私は走る

トレセン学園において、実績は当然ながら最重要視されるべきところである。
多少の素行不良などによって減点されることはままあれども、そもそもいい子揃いのウマ娘と選びぬかれた中央トレーナーが調子に乗りすぎることも中々ない。
つまり、ウマ娘たちのレースにおけるグレード・ワンの競走に二度も勝利を収めた新進気鋭のウマ娘が所属しているチームがチーム未満だった以前と比べて優遇されるのは当然のこと。

「ん……」

チームスピカ。燦々と輝く乙女座α星。新たな一等星として知られるようになったチームに宛行われた一室を前に、手櫛で髪を気にするウマ娘が一人。
そろそろまとめても首筋に感じるその長さを鬱陶しく思いながらも、よく手入れしてくれる洋製大和撫子が切ってはダメですとたしなめてくるからには断髪もためらわれて。
どうしてグラスはそんなに髪の長さまでもをお揃いにしたがるんだろうと、最近負けじとロングヘアへと変貌中のスペシャルウィークを差し置いて彼女――――は思うのだった。

ノックは三回。特に今日は中でがさごそ音はしないなと思いながら――――は返事も待たずにライバルウマ娘も所属しているスピカの根城へと気楽に入るのだった。

「失礼します」

一歩。それだけで何やら付近に全自動麻雀卓が逆さに置かれている異常を発見してしまうが、ここでそんなの気にしてたら仕方ないと――――は華麗にスルー。
むしろ勝手知ったる何とやら。あの子のお茶目の仕業かと入口付近に点在する白黒碁石をなるべく踏まないようにしながら彼女は入室を果たした。
すると何故かどでかい王将の駒に敷かれていた様子のスピカのトレーナーが顔を上げて――――を発見する。
今日のゴルシちゃんは会長のしてたチェスにインスパイアされてさっきまで遊んでたのかなと理解を浮かべる彼女を他所に、件のゴールドシップの謎のノリに弄ばれた後のトレーナーは酷く疲れた表情で声を掛ける。

「お。なんだ――。今日はお前の可愛がってるゴールドシップは留守だぞ?」
「それは残念……でも、今回の目的はトレーナーとお話をすることだから、いいかな」
「うん? なんだ、俺とお前さんで今更何話すってんだ?」
「ん」

首を傾げるスピカトレーナーに頷く―――ー。彼の口の中では疑問と飴ちゃんがコロリと転がった。

気安く話しやすい感じの良いトレーナー。勿論自らの専属トレーナーと比べれば次点になってしまうが、それでも実力の優れたヒトと――――は評価している。
そう。チームスピカのトレーナーとウマ娘――――はそれなりに仲が良い。敬語なんて、いつの間にか忘れていたくらいには《《ウマ》》が合う。
きっかけはいつの間にかスピカに居着いたゴールドシップの奇行を解説し、また完全に御すことの出来る貴重な存在として珍重されてからなので、実は長い関係だ。
そして良好なその関係が続いているのは、スピカのトレーナーがいくら試したところでそのセクハラじみたトモへの接近を変に能力のある彼女に全回避されてしまうのも大きな要因なのかもしれない。

その上でお互いを気にして気にされて、ちょっとしたことなら気にせず言い合えるような関係が構築されていた。
実際気に入ってくれるのはありがたいが、己のトレーナーのみに依存しがちなウマ娘にしては少し珍しいなとスピカのトレーナーも――――のことを思っている。
また、ゴールドシップばかりを猫可愛がりするその感性(この前はゴルシにフリフリの幼児服を着せようとしてすったもんだを起こしていた)だけは理解できないな、とも考えてはいた。

総じて面白いがよく分からないウマ娘は、何時もより栗毛のウマ耳をへにょんとしながらこう続けた。

「それはスズカさん……サイレンススズカのこと」
「改まって、なんだ。あー……もしかしてあいつが次の天皇賞出走に関してなにか不安でもあるのか? まあ、宝塚記念に続いてのGI、しかも勝ちゃ連覇つーことで勝って兜の緒を締めよってのは分かるが……」
「うん。あの人が……酷く怪我しちゃうかもしれないから」

ごくり、となにか返す前に己の喉が鳴ったことにスピカのトレーナーは遅れて気づく。
怪我。それはサイレンススズカを担当してからこの方彼がずっと気をつけてきていたことだ。
定期的にトモに触れて蹴り飛ばされるのは当たり前。過度のトレーニングにならないように、それこそ後輩の――――を借りて指導の形に抑えたりなどだってしている。
また、そうでなくともレースの前には心配しすぎと多く苦笑されながらも毎度医者によく診てもらっていた。

その全てを考慮すれば現状は、オールグリーン。気にしすぎだって悪い夢でも見たか、とでもこの親しい他人のウマ娘に返しておけばいい筈である。

だがしかし、サイレンススズカの最近の調整時の異様な鋭さや、愛しすぎて彼女の秘蔵っ子染みてきたこの――――へのこの頃の目のかけぶりなんておかしいといえばその通り。
鵜呑みには出来ないが、何となく予感はあったトレーナーは、ついこう問い返してしまった。

「……そりゃ、マジか?」
「うん……それも、再起不能になる可能性すら、ありそう」
「……その、根拠は」
「あの人の、ウマソウル」
「はぁ……」

とても不安そうに、しかし所以を断言した――――に心からこれはまずいなと彼は思う。
ウマソウル、なんてものは専門家だってよく分からない未開の分野だ。
スピカのトレーナーからすると、そんなもんに縛られずどいつも自由にやって欲しいと思っているが、しかし無下にするにはあまりに多くのウマ娘がそれを感じてしまっている。
そして――――の言いぶりからして、再起不能すら優しいものなのかもしれない。最悪、死があり得るなこれはと、キャンディの端を噛んだ彼は重ねて問う。

「すまん。俺は門外漢だが、ウマソウルっつうのはそんなに今を縛るもんなのか?」
「頑張れば或いは。でも……無視は出来ないかも」
「そういう、もんか……」

魂。即ち前世の残滓。それがもしその正体だったならば、なるほど今世の指針くらいにはなり得るだろう。
だが、それに囚われるには誰も彼も真剣に今を生きすぎている。振り返って、前に無理だからって止まれるかっていうのはトレーナーですら思うこと。

「そっかよ……」

そう。瞳を下げてここでスピカのトレーナーは改めて理解する。
最近ダウン時にトウカイテイオーとも競りながら熱が入ったストレッチをしているなと思ったが、それはつまり彼女が覚悟を決めてその上で出来ることをしていたからだったか。
サイレンススズカは、この秋の天皇賞出走が決まった際、微塵も慌てもせずにあたり前のことのように前を向いていたが、それが今は悔しい。

「もう少し、甘えてくれたっていいだろって、なあ」

自分はトレーナーだ。そして、サイレンススズカは前任がさじを投げたじゃじゃウマ娘で、だからこそどうにかしてあげたいと頑張ったのだが。
彼が教えた自由な走りは、だからこそサイレンススズカの可能性を広げ、こうして怪我というリスクに今更ぶつかるのだ。

理屈は、分かる。あの最速を目指す走りは何時か壁にぶつかって当然なのだ。だが、あいつの笑顔を覚悟を。今更俺なんかが奪えるものかと彼は歯を食いしばって。

「ねえ、トレーナー……」
「なんだ――っ」
「う、っ……スズカさんを、助けてっ!」

少女のその悲鳴のような叫びに、一人でただ思いを抱えようとしていた浅はかさにトレーナーはガンと衝撃を覚えた。

――――は、泣いている。走れなくなって、自棄になって、それでも走る彼女が今止まって、誰かのために涙を流していた。
それが、その意味がどれだけのものを持っているのか、トレーナーはウマ娘ではないから分からない。
でも、ただ彼女らをずっと見守ってきた人間であるからこそ、ぐすぐすと泣き続ける――――に伝えられる言葉はあった。

「任せろ」
「っ!」

言って、なんて軽薄な言葉だと彼は自嘲したくもなる。
今の俺に、自由に走ることを愛してばかりだったトレーナーに走るのを止めさせる権利なんてあるのか。そして、そもそも誰が他人の無理を止められる。
どうしたって無理なことだし、そもそも行動に移る理由が希薄すぎる。ウマソウルだの何だのよく分からないのは他人の領分だってぶん投げてきた、そのツケがこれかねえ、とも彼は思う。

もう覚悟を決めてしまっているサイレンススズカの出走は取り消せない。それこそ事前に怪我の気配が欠片でもあれば止めるつもりだがそれもなければどうしようもなく。

だがしかし。眼の前で悩みに悩みきってどうしようもなくて頼れる大人として選んでくれた上にここまでの重りを投げてくれた少女がこうして泣いてるのだ。
それを受け取った上で、何にも出来ないとかあるか。そんなの大人の風上にも置けやしないと男は鼻で笑い。

「俺が、お前の声を届かせてやる」
「う、あ……ぅうう……」

ぽん、と強いて言うならば友達な彼女を安心させるために、大人は彼女の頭に手を置いた。
こういう時は触れても逃げねえのな、と思いながら彼は本気の前に命のためにと本気になることを決める。

少女の涙はきらり、きらりと2つ3つと足元に落ちてぐすりと言ったがそんな無様を見ずに、優しくトレーナーは。

「そうだ。お前は明日のために止まったんだったよな……止まってくれたんだ。なら、アイツだって踏ん張れるさ」

そう、愛バを信じるのだった。

 

「……ああ」

そんな全てを薄い扉の背中に聞いて、だから彼女はこの上なく幸せだった。

 

 

第118回天皇賞、秋。
得意の左回りの距離2000メートル。それを征する者は最早今年も彼女しかいないと、多くが信じた。
117回の覇者、サイレンススズカ。彼女はその細身に期待をいっぱいに受けながら、内心やはり不安ではち切れんばかりだった。
どこか広く感じるゲートの中で、他のウマ娘達の距離すら遠い。

「ふぅ」

緊張は、している。それも当然だろう。
偶々とはいえ彼女は既にサイレンススズカ号の最期をその魂から実感として見てしまい、同じ日に駆けることをこうして決めてしまったのだから。

「大丈夫」

だが、冬を感じる秋の風を足元で感じながら彼女も無様に震えはしない。
それは何より、信じているからだ。彼は言った、行って来いと。彼女は伝えてくれた、ゴールの近くで待ってます。
誰もが多く心配して、サイレンススズカの体を見定めてくれて、無理ではないはずだと認めている。
だから、大丈夫なのだ。彼女は深くそう、信じる。

「無理じゃ、ない」

彼は、命の限りに輝いて、亡くなった。しかし、私は。

「負けてられないのっ!」

怖じかねない自分に対する気合の喝破。それがスタートの合図と完全に重なったのは、この上なく全盛のウマ娘である彼女だからこそか。
開始のその一歩は彼女が思っていたよりずっと軽やかに、激しい勢いで彼女を先頭に運んでいった。

「っ」

道が、開く。というよりもあっという間にもうサイレンススズカの目の前にウマ娘の尻尾は一つも見えなくなった。
異次元の逃亡者と言ったのは果たして誰か。それは分からずとも、既に称号としてそれは彼女に定着して久しい。
逃げて、差す。サイレンススズカのそんな誰も寄せ付けない走りに、しかし周囲は最後の最後はと諦めず足をため続ける。

「はっ」

独走とはこのことか。多くの者の脳裏に「唯一抜きん出て並ぶ者なし」ということわざが浮かんで消える。
あまりにスムーズな一歩。それにより拓かれた先頭の光景は青く青く、吸い込まれるよう。
彼女の左足が掃いた芝の鮮やかさに、後塵を拝するウマ娘たちも息を呑まざるを得なかった。

「はっ、はっ」

サイレンススズカは思う。――――ちゃんは今の私の走りを見てくれているかしら、と。
これが、いい。きっとこれなら貴女にもぴったり。
なら、もっと。その先を見せないと。だって、私はあの子の。

「はっは」

走りの理解者が居るのは、どれだけ嬉しいことか。またウマソウルなんかから来る理解不能の孤独に不安に寄り添ってくれたことなんてもう、何よりありがたくって。

あの時、泣いていた彼女の中には私しか居なくって、私の中にもあの子しか居なかった。
そしてそれは今もずっと。

「はは」

よく、駆け引きもろくになしに前に疾走って何が楽しいのと聞いてくる理解の足りないウマ娘がいる。
サイレンススズカに、彼女らの疑問はあまりに不明だ。
そもそも、全力で駆けることって楽しいに決まっているし、それは下手したら勝つことより嬉しいことで、だから私は今に満足していて明日に向けて走る。

「ふふ」

走るために最適化されたようなサイレンススズカの今の身体は、背に蹄鉄の響きすら遠くにもう第三コーナーを駆けていた。
圧倒とはこのことか。少女の口元には笑みすら浮かんでいて、視線はいつの間にかゴールの近くに待って居るのだろう少女を探して。

「――ちゃんっ!」

彼女は■に焦がれるように、走った。
もはや誰も、そんなものには追いつけやしない。

ああ、だが勿論そんな全ては悪くないのだ。
彼女が速いのは問題ではなく、準備も万全であれば最早それを緩めることすら負荷につながる。

故に、彼女が彼女のために全てを忘れて駆け抜けてしまったことですら、サイレンススズカ号の奇跡の続き、軌跡の轍の内であって。

「っ!」

世界は美しい以前の世界の結果をなぞるように進む。
ともすれば、女神ならば悲劇すら抱きしめてしまうのであるなら、これも或いは。

激痛。それは静止の明滅を視界に走らせる。
足首から先の感覚はもうなく、故にもうろくに進めないのはサイレンススズカにはよく分かった。

「ダメっ!」

でも。今ここは第四コーナー。無理を、いや或いはこの効かない足を奇跡的に動かし続けられればきっと。
届かない、手が自然に伸びる。ああ、私は皆に信じてもらってここに居るのに、やっぱり届かないなんて。

「嫌っ」

だから実は誰より負けず嫌いな彼女は終わりの一歩を踏み出そうとして。

『……貴女は貴女達をきっと亡くすことだけはない……』

――――それでも私は走る、の?

「あ」

ノイズと自問、一つ。
それで止まった彼女の隣を過ぎていった11のウマ娘の視界に、もうサイレンススズカの姿はなく。

ああ、ターフがどこか、煙い。

「スズカさんっ!」
「――ちゃん……」

そして痛みに揺れる中。
ただ、誰よりも懸命に彼女の運命を信じたくなくても信じていた彼女は視界いっぱいに涙たっぷりにサイレンススズカという少女を見つめていて。

「っ」

何遠慮なく、彼女を抱きしめる。

「……ありがとう」

撫でる髪の長さがお揃いになってきたことに、サイレンススズカは場違いに笑む。
こうして、崩れ落ちる硝子の脚は彼女にもたれ掛かることでより、安堵されることになったのだった。


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