第三十六話 あんたなんか忘れて

先代巫女な慧音さん 霊夢に博麗を継がせたら無視されるようになった

紅魔館の地下には数多の書籍を蔵した図書館が広がっている。
その中心、本の山を通り越して最早奇っ怪なオブジェと化したテーブルにて一冊の厚い本がまるで風の悪戯にさらされたかのようにさらさらと読み解かれていた。
そう。そこにはいっそ幼気なまでの指先を操って、大袈裟な装丁のされた稀覯本を巡る魔女が一人。
彼女はなんとはなしに複数のセンテンスをピックアップして、広げた羊皮紙に認めていく。
滑らかにペン先がインクを零しながら流麗な文字を記す音が小気味よく響いた。

「この辺りがこの本の鍵かしら……魔導書でなくてもここまで複雑な本も時にはあるものね」

端的になった此度の読書結果を見て満足そうに、少女は頷く。
彼女は文を記録とは捉えず意味として取り纏めて糧とする。
寝間着と見紛うばかりのゆったり衣類を喜色に揺らし、そんな実に実践的な学び方を採っているのはパチュリー・ノーレッジという名の魔女だった。

「今日は紅魔館の一大事。でもだからこそ落ち着いて本を読めそうね」

戯れに七曜の魔女が見渡せば、本棚の合間は伽藍堂。
変事に知識を確認にわざわざ図書館にやってくる程館の者どもは暇ではなく、唯一夜の挨拶に来たレミリアだって願いが叶うのだと興奮気味にぱたぱた去って行ってからは誰も不在。
その上、どうしてだかお気に入りだけれども扱いが面倒な使い魔の姿も先からない。
故に紅霧異変の中、パチュリーは我関せずと酷くゆっくりとしていた。

「こういう時間こそ、私には望ましいのよ……」

では次だと魔法で本を浮かせて自分の手前へと滑り込ませる。
机にぶつかった皮の表装がどこか湿ったような音を立てて知識の少女の期待をあおった。
パチュリーの頬は楽しみによってにんまりと緩む。

そう、眼の前の一冊は静かな時間に読もうと思っていたとっておき。
それこそお気に入りの作家の絶筆であれば期待から下手な時に間違っても先に見ないよう魔法で封じていた程の逸品だった。

「……でも、どうもこれですら貸し借りを行ったような形跡がある……さて。私は何と知識を共有していたのかしらね?」

しかし、成されていた筈の封はとっくに解かれていて、またその妙に他人行儀な優しい魔法の解き方から見て下手人は間違ってもパチュリー本人ではなさそうだ。
暇をあかせたパチュリーは、自分がどうして記憶を失わせているかは度外視して、ならば誰が貸し借りに適当かと考えてみる。

「レミィでもフランでも小悪魔でもないし、咲夜はどこか近しいけれど……ううん……なるほど、相手は未知ね」

紫色のリップに当たる、陶磁のごとき末端。
魔女は己の狭い交友関係を一度に漁ったが該当無しと理解する。悩む時間も短ければ、指先は唇から離れた。

つまり、何か分からない相手に何故か無くした記憶のまま貸した本が戻ってきているというという現状。
並大抵の肝の持ち主であればうすら寒くなるような状態であるが、しかし夜の王たる吸血鬼にすらあんた怖いものないのと常日頃問われてきたパチュリー。
不明なんて、ただ明るくする前の様態でしかないと捉える知恵者はよく分からない今ですら思考過程。つまり、こんなの何れは解けるものでしかなければむしろ彼女にとって楽しむべきだった。

「情報だって上位の目に留まるほど昇華されれば接収されることもあるだろうけれど……まあ、これはそんな粗雑な抜けではないわね。むしろ綺麗なくらいにすっぽりと抜けていれば、つまりは気を使う程度の同等の存在が神域の能力を用いて意味として欠かせたみたい」

パチュリー・ノーレッジは実のところさほど天才ではないが、碩学であり積み重ね高く造詣も深ければつまり視界は良好。
故に、ままこの世にある情報が高度を増し過ぎて世界の域を越えたがために、上位の目についてしまい接収という憂き目に遇うという、そんな妄想じみた可能性くらいは察せていた。

例えば、絵画の肉のその魅力が度を越して嗅げて味わいすら出来るものにさえなったら、きっとそれが絵画とは思わず口に含んでしまう愚か者だっているだろう。
そして、そのオリジナルの肉の絵は上位に掬い上げられてしまったからこそ絵の中には最初からなかったことになる。
或いは、この世に唯一の発想が、ただ単に記されていた文字情報を脳が《《丸ごと》》掬い上げてしまったからこそ類を見ないものになったのだという、そんな空想。

それらのような空想は聖人達のような有名な類似例を出さずとも実はありふれている現象なのではないかと、少女はどこか察している。
優れすぎ迫真を越えてしまえば攫われるが故に下位で上位に届く類を見ることはあり得ず、そのためにこの世に天へと届くはしごは無いのかもしれないとすら、考えた。
だからこの世は次元通りに平らで突き破ってしまうような突出が見当たらないのだろうという異見をも、パチュリーはしがみつかずにただ持っている。
そして実は、ある日上位に奪われてその力すべてを失うことを避けるために、彼女は天才をあえて用いず魔女の習いらしくオリジナルからの派生に努めている事実もあったりした。

とはいえ、そんな証があり得ないからこその見識でもなく推理とすら呼べない空想とは、此度の状態は合致しない。
ただ、何者かに関わった記憶だけが、ない。まるでくり抜かれたかのように、すっぱりと分かりやすい喪失は逆に優しさから来ているのではとパチュリーは感じていた。

「まあ取り敢えず、そんなだからこうして気にせず読めて良いわね」

そして、そのおかげで魔女が本を捲る指先の動きも滑らか。
そう。だって、ここまで綺麗になくしてもらえば未練だってどこにもあり得ず。多少なりとも相手に預けていただろう心もどこかに行った。
それを追いかけたくなる子だって居るだろうし、きっとあの小悪魔は持ち前の執念深さから喪失を認められないだろうけれども、パチュリーは。

「ふふ」

相手は能力を届かしてくる程度の同等の存在。
つまりどうせ同じ地平にあるものなのだからまた遇うことだってあるでしょうと暢気にも、ポットのから昏いほど濃くなった紅茶の色すら楽しみながら過去書かれた下位たる文字情報に今笑うのだった。

 

さて。変事の中暢気をするのは、まあ無関係ならば本来あっていいだろう。
だがしかし、紅魔館の居候であるパチュリーは異変首謀者に助言すらした関係者。
それが、我勘せずをするのは少しマイペースに過ぎていたのかもしれない。

「あら」

とはいえ、バタンとこの地下図書館の扉が空いたのには彼女も驚いた。
なにせ、怪しい上階を漁らずに地下へと向かうなんて、普通は考えがたい行いである。
だって、地下から霧は出ていなければ、むしろ上階から溢れているのは明らかなのだから。
ただ異変を治めるためならば、こっちは後回しだろうと常識的にパチュリーは考えていたのだ。

実際、勘を頼りに霊夢はテラスから侵入しようとして十六夜咲夜からの迎撃を受け、夢中に真っ直ぐ進んだ魔理沙はフランドール・スカーレットと邂逅中。
こんなルート外れに迷い込むのは、だから異変に目を晦ませていない存在であり、また多少の縁のある人間しかあり得なかった。

「えっと、こんばんは?」

つまり、図書館に姿を見せたのは上白沢慧音。彼女は人気のない本の園に内心興奮しながらも、そのど真ん中にポツンと読書を楽しんでいたらしき魔女に驚いた。
故に、間抜けな挨拶が響き、臨戦態勢気味だったパチュリーも思わず脱力してしまう。彼女は、思っていたよりずっと愛らしい相手を値踏みしながら呟く。

「そういえば、今は夜だったわね……ただ、敵地で挨拶もないでしょうに、律儀なこと」
「あはは……多分、こういう騒動に関わるのは初めてだと思うから、慣れなくて……でも、挨拶は大事よ?」
「そうね。挨拶代わりに攻撃を行う類の人間よりは、貴女には好意を持てそう。私はパチュリー・ノーレッジ。見ての通りの魔女よ貴女は?」
「私は……そうね。ただの半人半獣の上白沢慧音」
「ふうん……どっちつかず、ね」

混ざり、どころか半分ぴったり。
それならば何にもなれないだろうなと、パチュリーは察する。
実際、慧音だってパチュリーが人ならば弾圧すべき魔女であることに気付いているはずなのに、騒ぐ胸中に知らん顔。
それは彼女の妖怪の部分が作用しているのだろうと考えながらも、しかしそんな共感に届かぬ理解なんてどうでもいいとパチュリーは目を細めて問った。

「それで。貴女が今回この図書館へとわざわざやって来たのはどうして?」
「なんとなく、かしら」
「なるほどつまりは縁……というか、貴女にも小悪魔の匂いがするわね。あの子と一時契約したのは貴女?」
「ええ……小悪魔は私のこと何か話してなかった?」
「そうね。いたく貴女を気に入ったみたいで、契約を戻すのにひと悶着あったわ……ロイヤルフレアまで耐えられた時はどうしようかと思った」
「あはは……その節はご迷惑をかけちゃったみたいね」

在りし日の面倒を思い出しながら、嫌気たっぷりに零す魔女に人の良い慧音は恐縮する。
実のところ、その日パチュリーが持病の喘息の様子が悪ければ下剋上を成されかねなかったくらいに、あの小さいとはいえ悪魔なんて精神由来の存在は発奮していた。
最終的に賢者の石を起動させてやっつけることは出来たが、永遠のお暇がー、と断末魔の悲鳴を上げた小悪魔は、しかし翌日には虚実寄りの体だからとはいえピンピンしていたからこそ憎らしい。
というか、興奮からかあれほどこの慧音に対してだったのだろう淫猥な言葉を撒き散らした後に、よく素知らぬ顔で司書を再び務められたものである。
契約時若かったからとはいえ、我ながらあまりに外れ値と契約してしまったものだと、パチュリーも頭が痛かった。

「ふぅ」

そして。今はそれだけでなく他にも少し痛いくらいに苦しくなってきたから、パチュリーは慧音にその白魚の指先を向ける。
魔女は、元●●だった者に言う。

「そう。貴女は今も確かに私に迷惑をかけている」
「パチュリー?」

突然どうしたのかと、不思議にもこの期に及んで戦いの見せずただ驚くばかりの慧音。
それが、やはり苦しい。むず痒くってたまらずに。

ああ、また会えて嬉しいと勝手に喜色に踊る胸を抑えて少女は呟く。

「はじめまして、ね。でも分かるわ。貴女こそ、きっと私の友だった」
「それは……ひょっとして、あの家にある洋書は……」
「やっぱり。失くした私が本を貸してたのはあんたか。でも、それは今の私ではなければ……けれども心は一つ」
「な」

そして、魔女の周りに数多の本が舞う。
それが魔法であるというのは知識のある慧音には分かるが、しかしどう熟達すればここまで自然に宙を彩ることが出来るか理解できない。

だがパチュリー・ノーレッジは実のところさほど天才ではないが、碩学であり積み重ね高く造詣も深ければつまり視界は良好。
貸した形跡のある書物の傾向、そして手元にない本の内容、そしてその全てが価値あるものばかりだったのを思えば、前の自分が眼の前の女に対してどれだけ心を向けていたか彼女には分かってしまう。

勿論、それはレミリアのように親愛を拗らせていたわけではなく、友愛の範疇。
だが、友とは果たして親に負けるものだろうか。そもそも情を比べ合うことなんてナンセンスであれば、小悪魔だって大切にしている古物好きの物持ちの良い彼女にとって喪失は何よりムカつくことに違いなく。

やがて光と力を乗せた数多の書類の中、ぶちんとパチュリーの中で何かが切れるのだった。

「薄情者めっ。ああ、もう誰があんたなんか忘れてやるか――!」
「っ!」

そして、魔法使いらしく矜持を元にあの日のオリジナルの心をなぞり、日陰の少女は怒髪天。
困惑する親愛なる友だった者へともう忘れられないためにと、爪を立てるのだった。

 


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