「くぅ~ん!」
「わ、ひらめちゃん! 信号機の青は確かにゴーサインですが、あなたのスタートダッシュに私は付いてはいけ……へぶっ!」
開幕地面とちゅーからはじまり、そのまま引きずられてアスファルトに顔面ごと擦られている私。
そう、何を隠そうこのお隣さんの愛犬(ポメラニアン♂)の胴輪から伸びる綱に引っ張られてガンガン顔面集中に擦過ダメージを蓄積させているこの残念さんこそ、悪の組織テュポエウスの首領川島吉見です。
「ふっふ、こんなことをしているざこざこな私がそんな大層な正体を隠しているとは誰も……わぷっ」
「くぅ~ん?」
「やれ。落ちているものを味見するのは悪い癖ですよ、ひらめちゃん? この場合は散々引きずった挙げ句思い出したので取り敢えず私のほっぺをぺろりと味見したみたいですが。……私美味しいです?」
「くぅ~ん、くぅん!」
「ぶへ。寝たままの私にパンチですか……顔面肉球はちょっと気持ちいいですが……何です? そんなことよりおかしといった気分なのですか?」
「わん!」
「いいお返事です……やれ。この子私をおやつ入ったダンベル程度に思ってるような気がしますね……」
どうもミリーちゃんとの縄張り争いを続けた結果パワフルワンちゃんに育ったらしいひらめちゃん。
ちょっと出不精な飼い主さん達に代わりこの頃はお散歩を朝夕私が行うようになっていますが、しかし私の無能パワーでは敵わないこと極まりなく。
過ぎるくらいに賢い子なので、事故とか起きる前に止まってはくれるのですが、散歩の時間の半分程度は私が地面と仲良くするランデブータイムでもありました。
毎度吉見お姉さんはやんちゃだね、と擦り傷だらけの私にひらめの飼い主たる四天王のゆきが回復魔法をかけてくれますが、そろそろあの子も私なしでもひらめちゃんの散歩は可能であることに気づいてくれればいいのですが。
むしろ、ひらめちゃんに引っ張られていないとご近所でも私結構迷うんですよね。あれ、これ実は散歩されてるの私だったりするんじゃないでしょうか。
疑問に思った私は倒れ伏した姿勢から顔を上げて、傍若無人なワンコに視線を送ります。
すると、おやつの入った私のウサちゃんの手作り――故に歪みすぎていてわらびにはモデルがアルマジロではと未だに疑われています――ポーチに顔を突っ込んだひらめちゃんが一声上げました。
「くぅ~ん!」
「すっごいがっついてます……私のポーチから尻尾ぴょこぴょこ可愛いですが……あれ。これおやつ一気食いしちゃってます?」
「くぷぅ……」
「わあ。お腹いっぱいですか? すると……」
「くぅん……」
「いつもの通り散歩拒否犬と化すのですね……私、あなたより重いもの持ったことはありませんが、それはあなたで限界なのだからですが……うぅ……よいしょ」
「わん!」
「はい。乗りたいのですね。良いですよ。ただ道案内は頼みますからね」
「くぅ~ん」
甲斐甲斐しく世話を焼く私、オンワンコ。ひらめちゃんはやたら引っ張り回したがりますが、最終的には私の頭の上に乗りたがるのです。
その心は分からずとも、物理的にマウントを取られてしまっている私は正直いつ小水を頭にぶちまけられるか気が気ではありません。
何せ、どれだけ賢くても獣は獣。今日はうんちさんはしていないようですが、何時だってこの子のために袋などの用意は欠かさない私です。
前に一回普通にキレられて噛まれたこともありましたし……動物って難しいものですね。
取り敢えず、首筋マーキングとかされても困るので、しばらく歩いてから私はひらめちゃんに問ってみました。
「ひらめちゃん、そういえば途中でしていなかったですが、しーしーは大丈夫ですよね?」
「く……く、くぅん!」
「え、ちょっとなんで焦ってるんです? いや、それ今にも何かが破裂しそうな感じで……わわっ」
「くぅ~」
小型犬の体温は温いです。そして、ひらめちゃんに溜まっていたそれも、当然あったかくて最悪で。
「ぎゃー!」
そして、私は典型的な小悪党の断末魔を上げながら、衣類ごと黄色に染まってしまうのでした。
「ワ。それでヨシミンがワタシのハウスに来たのデス?」
「そうです……お願いします、アリス。お着替えと……シャワーをお借りしたいのです」
「くぅ~ん……」
「ワンちゃん、悲しんでマス! 任せてくだサイ! ただ、おっぱいのない服はココにないので買ってきマス!」
「アリスがいい子で助かりました……そして正直すぎて私は少し悲しいですが」
「先にシャワー浴びててくだサイー!」
水も滴るなんとやらという言葉がありますが、尿が滴る女の子なんて普通にえんがちょです。
しかし、そんな背中を真っ黄色にした私を特に気にもせず、隣の区に居を構える四天王アリス・ブーンは金と黒のメッシュの髪を靡かせながら私の服を買いに飛んでいってしまいました。
「最悪ブカブカの下にノーブラでも構わなかったのですが……後アリス、比喩でなく物理的に飛んでいく必要はないのですよ?」
「くぅん?」
最早彼方のアリスにそんな私の言葉は届かず、ただ足元で首を傾げるひらめちゃんが一匹。
溜息を飲み込みながら、私は勝手知ったる世界最上段の女の子のお家に入っていくのでした。
「……相変わらずお部屋が私色に染まっちゃってますね……」
「くぅん……」
一歩入るなり、どうしたって目に入るのは私に私に私に私のお写真の数々。
私はそれがアリスという存在が見初めたものに対して狂信的なまでに執着するタイプであることの証と知っていますから、ひらめちゃんのようにドン引きはしません。
まあ、確かにこれどこのヤンデレハウスだという感じではありますよ。キッチンのお玉やドアノブにすら別の私をプリントされているとか、拘りすぎてぶっちゃけやばやばです。
「まあ、そんな危ないところを含めてのアリス・ブーンという個性ですからね……あ、お風呂に着きましたね。ほらひらめちゃん。あっち向いてホイ、です」
「ワン!」
「良い子ですね……」
そんな中、お風呂の中に入った私はひらめちゃんにそっぽを向かせました。
それは、脱衣する私のあーるじゅうはちなセクシーをまだ子犬の域であるこの子に見せないためですね。
しつけのなっている上、そもそも他種族の女体に興味のない様子のひらめちゃんは、そもそも興味なさげですが。
アレですよ。こういうノーマルな反応はむしろありがたいです。恵とか、異なるものに萌えてこそ人間ではないかと、耳かきとタヌキまでをくろすさせようと頑張っていたことすらありましたからね。
「ふぅ……ちょっと待っててください」
そして、大人しくなったワンコを置いて、私は裸の上に水を流します。
耳に騒がしいシャワーの音色を聞きながら、ボディソープを泡立てて身体に滑らし、以降はシャンプーにリンスにと大忙しになりました。
「それにしても……ブサイクな身体です」
私は備え付けの鏡――四方に私の水着写真が貼ってあります――に映るのは貧弱極まりない身体。更に、その全体を走るピンクの傷跡達を見てそう零します。
「これだけ傷ついても、誰一人救えはしなかったのですから、本当に私はダメですね……」
これまで私はずっと無能で弱くてただ先走るだけでした。そんなものが誰かを助けたい、薄氷の上の命達を永らえさせたいと思うのであれば身を挺すのは当たり前。
頑張って、それでも助けられずに壊れてしまったものと扱われて、それでも。
「でも、助けられなくても縋り付いては貰えました」
そう、私を睨む夥しいまでの周囲の私達を見ながら私は言い張ります。
皆を悪から救えなくても物語は変えられなくても、しかし私は知ったかぶりの頂点にはなれました。
「禊ぐなら、私の命をどうか使ってくださいね?」
私はただの悪の王冠。すべてを知って赦してる最悪なのです。
だから、何時かは私が斃されてめでたしめでたしにならないといけません。
「ね。善人」
言い、笑おうとして口を歪めましたけれども、上手に動いてはくれずに口の端は落ち込んだまま。
ただ、願いに手元は液の滑りを帯びながらも組み合わされたのでした。
「吉見お姉さーん。ひらめー!」
「ユッキー、おっきな声めっ、デス」
「あ……」
「すやぁ……」
「くぅ……」
「お姉さんとひらめ、寝てるね。可愛い」
「デス……」
テリトリーを他人色に染めた家。悍ましいほどの同化欲求に飲まれん程の数多の特定個人の写し達。
それに囲まれながらも、テュポエウスの四天王達、そして彼女らの首領は平常運転。
当たり前のように異常な心の持ち主の自宅にて安心して寝入ってしまった川島吉見に、埼東ゆきとアリス・ブーンは見入る。まるで恋のように、愛のように燃えた双眸を持ってして。
ぺろり、とあまりに赤い舌が桃の唇を舐めた。童女は、言う。
「食べちゃっていいかな?」
「ダメデス」
「そっか。飾っておくのがアリスちゃんの趣味だもんね」
「ハイ」
ゆきは、隣のアリスを少し見上げながら、思う。この子は正しくモノだなと。
たとえ内に情を秘めていようとも決してそれにて動かず、どんな本心から離れた入力だろうと命令にこそ本気になる。
本当は、ただ一緒に居たいだけなのに、初期定義から彼女はこう呟いてしまう。
「ワタシは、ヨシミンを天国に持ち上げマス」
「そう……」
プロジェクトマーブル。繋げない優れた人達を薬液に浸して無理に繋げたその業の深さはどれほどだろう。
それにより人でなくなってしまった彼女のことは、悲しめばいいのか、どうか。幼いゆきにはまだ分からない。
ただ、この子のためにもなりたいなと悪意に満ちた本心を呟くのだった。
「なら、わたしは吉見お姉さんにあなたのためもに邪魔な鬼たちを殺してあげる」
「それは……無理デス」
「かもね」
横に降った首に、縦に首を降ろすことでゆきは返した。
世界最高段。そして魔法少女。彼女らは世界でも有数の異能者であるだろう。この世を耕すにはあまりある程の力を持っている。
「鬼は最強だから」
しかし、ゆきの言の通りに楠の鬼達は世界を真っ平らにすることすら可能なあまりに強大な存在。
テュポエウス最強であり俺に出来ないのはタイムマシンの真似事だけだと豪語する万能極まりない善人ですら、挑む前から勝つのを諦めるくらいである。
測定不能。そんなもの、戦ったところで首を上げることなど叶わずに、そもそも相手にならないからこそ彼彼女らとて危険であろうと生かされているだけなのに。
「あはは」
「ユッキー?」
だが、嬉しくって魔法少女は笑う。
少女は三歩歩いて犬を擦ってから、そうして愛すべき首領の湿った黒髪に手を伸ばす。
ただ、届かす前にその指を閉ざしたゆきは、にこりとアリスに向かって振り返る。
濁った虹色。それが金を望んで一度、瞬いた。
「悪はね。無理でも諦めないんだ……それだけは【全知】のお姉さんから教わってる」
「デスか……」
そうして少女の周りに円環二つ。僅かにずれたそれは川島吉見の頬の生傷達をあっさりと癒やして。
「だからアリスちゃんも、何時か絶対に吉見お姉さんを天国に連れて行ってあげてね?」
「ハイ!」
テュポエウスのうら若き少女たちは、ただ真っ暗に寝入るばかりの彼女の近くでそんな夢ばかりを見るのだった。
「うぅん……」
そう、たとえこの世がめでたしめでたしとなるに決まっていても、足掻かぬ理由はないのだから。
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