その日も、空は高かった。綺麗な青が、白すら含まずひたすらに天を作り上げている。
それこそ人の手には掴めないとひと目で理解できてしまうくらいには、今日の天蓋は遠く澄んで抜けていたのだ。
「ふぅ……」
でも、そんな小利口な理解なんてものを嫌い、少女は天に向かって手のひらを向ける。
そして――――は、かざした五つの指にて比べようがない明るさの一点である太陽を、握り込むように影で隠すのだった。
やっぱり、掴めなかった。でも思いっきり身体を伸ばすことが出来ている。
彼女は、自在に過ぎるとすら感じる身体の好調を覚え、呟いた。
「うん。休んで、良かったんだ……」
都合二日の休みを終えて、トレーナーの元へと戻った――――。最初は休養の効果は半信半疑であったが、しかしこうしてアップを終えた今ならその意味を理解できた。
むしろちょっと面白くないくらいに、身体に違和感がない。私が確かに私に思える。動くには、これは最適だろう。
ぴょんと跳ねて、芝の上にとさり。筋肉が強張りではなくちゃんとバネの役割を成していることを久しぶりに思い出し、感動すら覚える――――だった。
「お、どうやら調子いいみたいだね――。動きのキレが出会ったときと全然違うよ」
「ん……そうだね。これならもっと走れそう。ありがとう、トレーナー」
尻尾をふりふり、わくわく。珍しくそんな心地に浸りながらストレッチを続けていると、ちょっと可愛らしいほどの若さが特徴的な――――のトレーナーがやってくる。
気を良くしているというだけでなく、心から感謝を伝えたいと思っていた彼女は、彼に頭を下げる。
トレーナーは、思わず目尻を緩ませた。
「どういたしまして……ただ、隠れて無茶はダメだよ? これからくたびれるまで動いてもらうつもりだけれど、キミはその上で頑張りを重ねちゃいそうだからなぁ」
「むぅ……それは、最初からやり過ぎてた私が悪いけど、これでも私今はそれなりに真面目さんで通ってるんだけど……」
「はは、真面目な子ほどタガが外れたら怖いんだ……まあ、それは今話すことじゃないか。うん。もうちょっと身体が暖まったら、一度確りとタイム測ってみようか。ずっと、いいタイムが出るはずだよ」
「そうね……」
顎に手を当てどうしようか考えようとして、――――はそれを止める。
考えるまでもなく、先に自力を知ることは有意義であるだろう。ただ遅かった今までとは違い、今回は期待を持てることでもあるし。
未来に向けて、可能性を信じるためにも自分の価値を知ろう。そう、輝きへ向かうためへの一歩を踏み出さんと思った――――の前に。
「――ちゃん、トレーナーさん!」
「エル」
猛禽の羽を持つ、測るまでもないほどの値打ちを輝かせるウマ娘、仲間であるエルコンドルパサーが駆けてきたのだった。
彼女は、マスクの奥に喜色を目一杯溢れさせながら、二人の前で止まる。先にトレーニングメニューを渡していたのに、何事かとトレーナーは問う。
「なんだ、エル。そんなに楽しそうにして、どうしたんだ?」
「いえ。――ちゃんも今日は調子が良さそうですし、エルも元気いっぱいデース! なので、今日は折角ですから……」
コンドルは笑顔でそれを提案する。
彼女たちの頭上にて羽を自由に広げた鷹が一羽、ケンと叫んだ。
ああ、この場の誰もが楽しそうで、その必要もまるで見当たらない。
蒼穹のもと全ては麗しく、また光に緩んでいて。風も冷たくも厳しくはなく。
でも。
――――――――――――。
それが終わりの始まりになったことは、間違いないのだった。
それは、エルコンドルパサーの思いつき。
『――ちゃんは、中長距離、そしてエルも中距離までなら得意デス。でもアタシ達は同じトレーナーの元、これから競走する機会なんてないかもしれません。なら、最初に記念に一度だけ勝負してみたいのデス! そう、ライバルとして!』
そんな提案は別に無視しても良かった。良いとは言え、まだ危うい状態の少女に、とびっきりを当てるのは危険だ。
けれども、その言を聞いた――――はどこか火が点いてしまったかのように瞳を爛々とさせている。そして、トレーナー本人も正直なところ、自分の担当するウマ娘達の勝負を一度は見てみたかった。
故に、認めた。勿論、二人には重々無理をするなと言い含めてある。
1200メートルの芝の平坦なトレーニングコースを、二周。二人の得意が一番に重なる、12ハロンという距離。
その長くもあっという間な距離にて優劣を競うというのは、実はとても残酷であるのかもしれなかった。
勿論、これは格付けのためのものではない。けれども、何故か――――にとって、この勝負はずっしり重い意味を持っていた。
「エルと競走するの、そういえばはじめてね」
「そうデスねー。何時もグラスが――ちゃんと組みたがりますから……最初はグラスが――ちゃんをいじめてるのかと思いました……」
「まあ確かに、私はグラスに何度負かされたか覚えていないけれど、それくらいで腐るほど私は弱くないわよ?」
「ふふふ……そうですよね、――ちゃんは、強いデス」
「いや、強いかといわれるとそれは……」
「いえ。今や一昨日の併走の時なんて、比べ物にならないくらいに研ぎ澄まされているって、アタシには分かりますよ!」
ただの試走。ゲートもなければレーンも曖昧で。故に、スタートラインに隣り合った二人は、なにが邪魔することもなく近くで仲良く話をすることが出来た。
だがつまり、それは翻ってみれば。
「だから、この《《レース》》、結果が楽しみです!」
競走相手の意気を間近に感じられるということでもある。
あえて、このお遊びに近い勝負をエルコンドルパサーがレースと言った、その意味。そして、視線に燃えるような情熱。
それらがすべて炎のごとくに意味を持ち。
「私も……それは、同感」
――――という爆弾を、焦がした。
――――というウマ娘は小学生の頃に、近くの高校の陸上部に混ざって短距離走を行っていたことがある。
勿論、人と競争することなど出来ず、ただ混ざって測った記録を並べるばかりであった。だが、それを繰り返して、少しずつ彼女は走りを長じさせていったのに違いはない。
そして、それだって戯れにやって来た《《とびっきり》》の年下の記録に敵わなかったりしたのだから、残酷なもの。
だが、それでも腐らなかったが故に、彼女はウマ娘には轟音に近い、スターターの音に慣れていた。そして、スタートタイミングを測ることも、得手である。
「っ」
故に、最高のスタートを――――は切ることが出来た。
エルコンドルパサーの半歩前へ。そして、そのまま彼女は彼女のトップスピードへと移行し、駆けていく。
体幹ブレずに、まるで地べたを滑っていくような走り。なるほど、修練の濃度と彼女らしさが出ていると、前を行く二つお下げの疾走をエルコンドルパサーは評価した。
「逃げ、デスか……」
そして、まるで羽が生えているかのように、持ち前のバネで一歩を軽く駆けていくエルコンドルパサーは、その三バ身ほど後ろにて相手の作戦を察する。
――――は、スタミナも根性も並のウマ娘では敵わない程に、ある。また、頭も固いが悪くはないだろう。
だが、パワーと、何よりスピードがからっきしなのは本人も認めるところ。そればかりは、向上しないのだと初めて練習を一緒した時に嘆いていたことを覚えている。
ならば、この自分にとって少し速い程度のペースは、つまり――――の全速力に当たるのだろう。
そして、それを端からして、未だ緩める気配はない。恐らく、彼女はこのまま全力で最後まで駆け抜けようとしている。
愚かしくも、トレーナーの忠告を無視してエルコンドルパサーというウマ娘と本気で向き合うために。
ああ、それはなんて。
「良いでしょう……付いていきます!」
面白いのだと、エルコンドルパサーは思った。
鷹は、逃げる餌を狩るものである。そして、エルコンドルパサーの末脚は、世界すら斬り得る鋭さを持っていた。
そんな相手から逃げるなんて掴みどころのない雲ですら、難しいこと。けれども、それに憧れた――――は、真似して、足掻く。
「くっ……」
コースを一周。それだけでもう真後ろに迫ってきてしまっていることがひしひしと分かるようになってきていた。
それでも、僅かにリードはある。本来ならばここらで息を一度でも大きく吸うためにペースを緩めるのが、正解かもしれなかった。
「ダメ……っ」
だが、そんなのエルコンドルパサーの前にいることが既に間違いでしかない――――という程度の低いウマ娘には、無理なこと。
一度でも、緩めたら、絶対に呑まれる。既に――――には、後ろに付いた少女の一歩一歩がまるで怪物の鳴き声のように、あまりに大きく聞こえていた。
これが、本物。世界を夢見る者のプレッシャー。あまりの存在感に、卑小な自分なんて吸い込まれてしまいそう。
だから、次に次に、必死になって前へと脚を早めなければならないのに。
「今、デスっ……!」
だから、エルコンドルパサーが真後ろで発したその一言は、――――にとって、死刑宣告のようにすら思えた。
ああ、そうだ。分かる。確かにここが抜きどころだろう。丁度、自分は恐怖に一歩を短くしすぎた。
これでは、次にもたつく。その間に、するりとこの娘は私を抜いていくのだろう。
「ぐ」
そして、当然のように、エルコンドルパサーの横顔が隣に並ぶ。青い瞳はしかし、こちらへと交わされない。
その瞳は自分なんて目に入っていないかのように、前へ。勝利へと真っ直ぐ向いていた。
「あぁ……あ」
それが、辛い。私は、――――の価値を証明したいのに。でも、どんなに頑張って走ったところで、誰もかもが輝く勝利しか見てくれない。
星の前では何もかもが矮小。負けても良い、筈なんて本当はないのだ。
でも、脚が重い。前へと進めない。素晴らしいものは、その素晴らしさを発揮して、私を置いて輝いていく。
それが辛くて、悔しい。悔しい、悔しくて悲しくて。
だが、それがどうしたというのだ。
――――は、終わりを前に、泣くことすら出来なかった。
「う、ああぁ――――ぁ――――っ!」
「なっ」
ぞわりと彼女の心から溢れ出すは、コールタール。
それは、黒。無意味重ねた、線の跡。二度書きどころではない、グレーゾーンを超えた真っ黒な反則。やってはいけない、道の誤り。
その力を持って、走る。その一歩一歩が少女を殺す。でも、それでも――――は嬉しくて、笑ってしまう。
「あは――――――」
だって、私は今、飛んでいるじゃない。
彼女はもう、走っていなかった。死に向かって、ただ真っ逆さまに飛んでいる。そう――――は陳腐にも、命をこれでもかと燃やしていたのだ。
「加速、した?」
そして世界は割れずに、ただ歪んだ音が鳴り響く。
――――――――――――――――――――――――
「……なんだろう」
「あら」
「ふぅん」
「……面白いやんか」
「あれー?」
――――――――――
「……学園の誰かが領域に至った? いや、コレは……」
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――っ!
「叫び?」
「無理、デス……」
こんなもの、追いつけるはずもなく、追いつくべきではない。
だから、その持ち前の差し脚でも縋ることが無理だと判断したエルコンドルパサーは、速度を緩める。
自分は本気で、しかし彼女はその上を行く本気だった。
「こんなの……」
死力、火事場の馬鹿力、そんな言葉がエルコンドルパサーの脳裏に浮かぶ。
これを祝福すべきかどうか。分からない、けれどもアタシは負けたのだ。だから、せめてと勝者を称えるために――――へと近寄った彼女は。
「――あは」
「――ちゃん!?」
笑みの緩みで糸が切れたかのように、ぱたりとその場に崩れ落ちた――――に、驚くのだった。
「――ちゃん、――ちゃんっ!」
まるで彼女のその表情は、すべてを遣りきった末期のようで。エルコンドルパサーは、燃え切ってしまう程の熱を持った少女に、今度こそ縋り付くのだった。
「どう、なってるんだ……」
トレーナーは、一人呟く。
ストップウォッチのタイムは2:25で停まっている。これは普通にあり得る、タイムだ。だがしかし、最後上がり3ハロンのラップタイムは。
「はぁ……」
首を振り、彼はストップウォッチから目を逸らした。
測るべきではなかった。なるほど、あの日の言のとおりに、彼女は何か間違っていたのだろう。
だから、コレだって何かの間違いなのだと、彼はストップウォッチをゼロにした。故に、誰に知られることもなく少女の奇跡はただの見間違いとなる。
それで良かったかどうかは、分からない。
「――っ! 起きて下さいー!」
「すぅ……」
「ああ……これからが、大変だな」
だが、どうやら死んだようにすやすやと寝入っている――――の身体を必死に揺するエルコンドルパサーを止めに入るために歩みながら、彼はまだ彼女に先があることを信じるのだった。
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