第七話 普通

口裂け女の花子さん 口が裂けてもいえないこと

第七話 普通

赤い怪人の、滴っているような、崩れ落ちているような、そんな言の端が特異に聞こえる悪意に満ちたメッセージを受けた二人の間には、しばし沈黙が降りる。この不通は不信によるもの。口裂け女を信じるのは正しいのか、という自問に勇二は答えを持たない。

今のところ自分を助けてくれているようであるハナコに対して、勇二が一定の信頼を持っているのは確かな事だ。しかし、それは無事で済むはずがないという怪人の予言が発される前にハサミで通じなくしようとした彼女の行動に対する疑念に勝るものではない。

マスクで隠されたハナコの大きな口が開くまで辺りに沈黙が降りていても、勇二はその間ずっと耳元では疑いを助長する悪い言葉がひしめきあっているようにすら感じていた。それが錯覚でないと思うのは、彼が周囲の暗がりに恐れを感じているからかもしれない。

そう、夜も更け、相変わらず辺りはどこもかしこも暗く不明で。ならば、そこには恐ろしい悪意を秘めた何かがいても不思議ではないのかもしれない。そう、もし知らず耳元で不仲を囁く悪魔があったとしても、目を向けなければ気付けはしないだろう。そして、もう勇二は振り向けない。忘れていた恐怖が、男の言葉によって思い起こされてしまったのだから。

「勇二おにいさん。何か私に聞きたい事はない?」

勇二の背後の何かをひと睨みしてから、ハナコは口を開いた。そう、マスクを下ろして、隠していた醜い口元をさらしつつ。彼女は出来るだけの誠意を持って、疑問に答える体を見せたのだった。

「あのさ……俺はさらわれている、のか? そして、君は本当に口裂け女なのかい?」

「うーん……前者に答えるのは簡単だけど、後者の疑問には少し説明がいるかな。まずは先の答え。そう、勇二おにいさんは、契約を遂行する限り私のものだよ。さらわれているといってもいいのかもしれないね」

あっさりと、ハナコは自白する。近寄り、繋ごうとした手をかわされても、変わらない深い笑顔を見せながら、彼女は目論見を明らかすることで勇二を惑わす。

「契約? ひょっとして、俺と交換に華子を見つけてくれるっていうあの言葉は……」

「それだね。まあ、仰々しく契約、っていうからおかしく思えるかもしれないけれど、約束って私たちの中では重くて。小さなことでも一々契約というの」

「……もし、破ったらどうなるんだ?」

「あはは。契約は破れないの。最低でも私は絶対に、貴方をいただくわ」

「なっ!」

過去に放り捨てた言葉が、がんじがらめになって返ってくる。そんな経験など一度もない勇二は、言質をとられて自分が目の前の不気味な少女に捕まっていることにようやく気付いた。あの時、うかつにも自分は何と答えたか。確かに、どうなったっていいと、そんな自棄になった空言をただの少女と思っていた怪人に伝えていた。勇二は思い出して身震いする。そして、他にも余計な事は言っていないかと、記憶を必死に遡って、集めに集めた中で、不自然が一つ見つかった。ぽつりと、勇二はそれを口に出す。

「あれ、そういえば俺、君に言われるまで一度も自分の名前を言っていない……」

「あは。契約書に名前があるのは当たり前でしょ? ね、勇二おにいさん」

異常。それにようやく勇二は気付く。初対面でそれを示すものも何もない状態で、相手の名前を当てることの出来る人間など、どれほどいるだろう。或いは、怪人ならば容易いことなのだろうか。勇二はここでようやく、ハナコを本当の意味で怪人と認識した。

目の前の笑顔、その釣りあがった口の歪みが、たとえ切り裂かれ損なわれたグロテスクな部分を除いて見つめたところで、十分に恐ろしい。心和ます子供の笑み。それにどうして深淵を感じてしまうのか。それすらもう、勇二には分からない。

「あは。まだ、お話は終わっていないよ?」

「そう、だよな……」

知らず逃げようとしていた勇二がスニーカーをじりじりと開けた先へと向ける間に、ハナコは一歩進んで道をふさいでいた。そして、そのまま言葉を続ける。

「まあ、覚悟はゆっくりとすればいいよ。それで、口裂け女か、だったっけ? ちょっと成った経緯が複雑なところだけれど、まあそれは間違いないよ」

「……何か、理由があるのか?」

故あれば怪人に変わるというのも恐ろしいが、しかし何もなしに怪人が発生するよりもまだマシな気がした。だが、普通を期待する勇二の思いは裏切られる。

「私の口は多弁で裂けたの。独り言が大好きな性だったから」

「本当、か?」

口は確かに開くもの。しかし、それが喋るというだけで、あんなにも多分に裂けるものであるのだろうか。その言葉の真偽を、勇二が一息で見分けることは出来ない。だから、つい訊ねてしまった。

対して、にこりとハナコは笑う。

「嘘よ。まあ……独り言が多かったのは、本当だけれど。だって、喋る相手なんて殆ど来ないんだもの。夜の学校のトイレになんて、ね」

ハナコが披露するように身体を回して翻ったのは、流行遅れの吊られた赤いスカートに、おかっぱ頭。そういえば、そんな容姿の怪異を勇二はどこかで見聞きした覚えがあった。どうして今の今までそれを連想することがなかったのだろう。勇二の頭がボケていたにしても、おかしなことだ。何しろそれは、数多のメディアで目にするくらいには有名な怪談の登場人物なのだから。

夜のトイレ、それも女子トイレに現れるのだから自分には関係ないと高をくくっていた学校の七不思議の一が、眼前で牙を向いて笑う。

「まさか」

「そう、私はトイレの花子さんとして存在していたもの。……今はこんなに醜くゴミ捨て場を徘徊する怪人になってしまっているけれどね」

薄汚い所を居場所としているのはお似合いだとでも言われそうだけれど、とハナコは両端遠い口の端を釣り上げ、続けて自嘲する。しかし、勇二は愛想笑いを返せない。

「どうして、花子さんが、口裂け女なんかに……」

「簡単に言えば、私たちみたいに過激な存在は、同調圧力によって消滅させられてしまうのが習いだから。完全にあんなものは居ないとされたら、私は存在しなくなる。だから、その前に私は新しい噂に変化し乗り換えたの。あはは。それでも、もう時代遅れで消えかけになってしまったけれど」

勇二にはよく分からない言葉の繋がりが耳に入る。子供の口から発されたとは思えない内容のそれを彼は咀嚼したが、しかし上手く飲み込めたのは最後の一言ばかりだった。

「消えかけって、ここに居るじゃないか」

「あはは。こんな誰もいない寂しい場所に居続けても、私達に意味はないわ。だって――誰一人、害することが出来ないのだもの。存在理由を果たせないのは、辛いことだわ」

「なっ、害することが存在理由、って」

「貴方たちが繁殖するのと同じくらいに、私達が貴方達を害する契約は強い意味を持っているのだけれど……うん。分かるはずがないわよね。所詮、貴方は人間だもの」

人から発生される、法則を無視した間抜けを間引く噂。その代表的存在は、笑顔で人と怪人が分かり合えないということを認める。その際の瞳の冷たさを望んで、思わず勇二は固唾を呑んだ。

そんな勇二の緊張を無視して、ハナコは更に語る。

「そもそも、発生と消失からして人と私達は大違いなの。皆が居ると思う。そうしたら私達はそこに居る。反対に皆が居ないと思ったら、私たちは世界に居なくなるの。怪談は、悪しき想像のみを源とする存在は、独自の法則を強みとしているその代償のように、それほどまでに脆い」

「世界……」

半分以上も理解出来なかった少女の言葉。しかし、その中にあった世界という単語が勇二には重く響く。そう、人が居ない人が居るべきこの場所は明らかに今まで生きていた所とは違う。それがもし、本当に世界が違うということならば、どうして自分がそこに迷い込んでしまったのかという新たな疑問と引き換えに、今までの疑問の大部分を納得することが出来る。

そう、ハナコと勇二は文字通りに住む世界が違ったのだ。それが交じってしまったからこそ、捕まった。

「でも、有ったものを直ぐになかったことには出来ないから。だから私たちみたいな世界の邪魔者は人間世界の【控え】、言わばゴミ捨て場というこの世界に放棄されるのよ。それからはずっと、特別なことがない限り、完全に忘れられ消えてしまうまで脅かすべき人もいないここで過ごす事になってしまう」

ハナコは過去を思い出して、つい嘆息する。

時は無情に過ぎるもの。ゴミ捨て場での無為な時間は良く言えば平和。しかし、その実態は引き伸ばされた死でしかない。刻一刻と、意味と共に自分が薄れていく感覚に対して、いくら異常な人でなしであっても耐えられるものだろうか。怪人、その生が曖昧な存在であろうとも、決して死にたいとは思えないのだった。

「そんなのは嫌だった。たまらなく、嫌だったの」

ハナコは我が身を抱いた。小さく、少女は纏まる。自分を守らんとする彼女はしかし、矮小な己が大事でもあり疎ましくもあった。

どうして、自分は人ではないのか。以前ハナコは呪によって迷い子を害して来たトイレの個室の中で、何故普通に人と交わることが出来ないのか、何度も考えた憶えがある。でも、人が怪人になってもその逆は無理な事で。どう足掻いたところで最終的に相手を傷つけることでしか人とは繋がれなかった。

トイレの花子さんが怖いと持てはやされたのは今や昔。ある時からハナコはそんなものは居ないと信じられなくなることで、何時しか現実世界から消えゴミ捨て場に落ち込むようになった。そして、人々との呪われた接続が失われたことで彼女はどんどんと零落していくようになる。

ハナコは永い間無人の街をさ迷い歩いた。トイレの中からその世界は大きく広がり知識も知己も得たが、それでもそんな全ては人会うこともなければ使われることなく消え去っていくばかり。歯痒い思いは瞳を濡らし続けるが、しかし助けの手などゴミ捨て場になど届くはずもなく。そして、やがてもはや消滅が明日と知れないほど薄ぼやけた彼女の耳に、一つの噂が聞こえた。

それは悪魔の囁きか。しかし、何者かがそれをハナコの耳に届かせたことにどんな意図があろうともハナコにとってはどうでも良かった。光明に違いはなかったのだから。

人は怪人になれる。怪人は人になれない。ならば、怪人は怪人になれるのだろうか。それは、是であった。確かめ成功したハナコはここにいる。

そう、ハナコが聞いたのは、口裂け女の噂だった。

「だから、私は口裂け女になったのよ。ハサミでちょきんちょきんとして、成り代わったの」

とっても痛かったけれどね、とハナコは溢す。その怪人が身体的特徴を核としているのであれば、それを真似れば同調が可能なのではないか。そう考えて、ハナコは自分の両頬にハサミを入れた。顔は歪めどもそのために、涙はもう流れなかった。そう、彼女には自分を損ねることでしか、変化と新たな生を迎える方法がなかったのだから。

歪んだ口の端の肉を盛り上げながら、ハナコは自嘲する。そんな様を間近に見て、勇二はあまりの傷ましさに口を押さえながら、呟く。

「本当に、自分で?」

「あはは。勇二おにいさんだって、やっていたじゃない。私が観ている前で、貴方は自分の喉を引っ掻いていたわ。徹頭徹尾、自分のためにやった私の方が正しいと思うのだけれど」

経験からハナコは、自傷というものは自分のためにするのだと考えている。だから、殊更彼女にとって他人への思いのために自らを痛めつける勇二という存在はとても愉快だったのかもしれない。

乾いた喉の傷口を指でなぞって痛みを覚えてから、勇二はハナコに質問する。

「それに、成り代わったって、じゃあ、代わった口裂け女ってどこに?」

「あはは。本家本元はもう居ないわ。だって、半身裂けた女の怪談はあっても、全身裂けてバラバラになった女が活躍する噂なんて、存在しない筈だから」

三丁目の交差点だったか、それともアパート三階か、あっちの世界のどこかで追い詰めて台無しにしてあげたのよね、とハナコは言う。その際に見て取れた、色の篭もらない瞳の冷酷さに、疲れ切ってぼやけていただけのただの人間である勇二は、恐れを禁じ得ない。相手を傷つけることを一切躊躇わない存在に、普通だった勇二はここで初めて出会ったのだから。

しかしそれでも、いやそんな理解の外の相手であるからこそ、勇二は僅かに期待を覚えていた。これだけ底知れないのであれば、その恐ろしい暗黒の中に便利も隠れているのではないか。妹を助けるための手が、そこにあることを望んで、勇二は確かめるためハナコに更に問いかけた。

「……契約は守ってくれるんだよな? ハナコなら、間違いなく華子を助けられるんだよな?」

「うん? 高子さんなら間違いなく見つけられるだろうし、妹ちゃんが今生きてさえいれば助けてあげられるけど……」

ハナコは震え治めて強く自分を見つめてくる勇二を疑問に思う。相変わらず、焦点の合わない不気味な瞳の黒の中にて、少女が首を傾げてこちらを見ている。

「それなら、いいんだ」

勇二は一歩進んだ。それが光明にまで届くか分からないが、しかしそれでも彼は頷いてこれまでの道を認め、暗がりに更に足を出す。

そしてハナコの前までやって来た勇二は、身体を屈めてハナコと真っ直ぐ視線を合わした。

「俺はお兄ちゃんだから、怖くても我慢しないといけない」

ゴミ捨て場が一瞬、真っ暗に陰る。明らかに、盲いていた。でも、痛みを受け入れるために、目を瞑るのは反応として当然のことなのかもしれない。

勇二は果たして、自死をも呑み込んでしまったのだろうか。それが、ハナコには分からず、思わず彼女は一歩下がった。

「怖い」

そして、ポツリと、ハナコは呟く。勇二の思い自体はありきたりなものだ。家族愛、そのために身を削る事は存外普通に行なわれている。しかし、それはハナコにとっての普通ではない。

家族という不明。そう、よく分からないものに命を賭けている、勇二という生き物はハナコにとって理解不能の存在だった。そして、暗闇に恐怖を覚えるのはどんなものであっても大なり小なり変わらない。たとえ、生き物ですらなくても、噂でしかなくても、それでも繋がれない先の何かは怖いものだった。

不通。呪という繋がりで存在を明かしていくことでしか生きていられないハナコに、それは何より禁忌すべき存在だったのかもしれない。もう後がない、逃げること許されない中で、あと一歩でゴミ捨て場から脱出できるかもしれないという位置につきながら、彼女は今、勇二に触れたことを後悔した。

「ぷっぷぷ。ハナコちゃん。見つけたよ」

しかし、そんな少女の恐れは、高みから一笑に付される。怯えに慌てるハナコの頭上にて、高子は相変わらず笑んで自分を披露し、そして皆に成果を教えた。

驚く勇二に発した高子、それより誰より先に、おぞましい言の葉を聞き取って自分を取り戻したハナコは意識を次へと向かわす。冷静に、天に向かって彼女は問う。

「どこ?」

「あそこ」

かぎ針のような細く、しかしとても長い指先は、歪みながらも示すべきところを指していた。奥まった迷路の出口の先には、先程までなかった筈の、一つの灯りが。それが、高子とハナコの縁、呪によって繋がった向こうの世界のブラインドネス。

「行かないと」

逃避のための足どりはあり得ない程に軽い。その最初としてハナコに踏まれた地面はバラバラに砕けて空に散る。その大げさな散華に反射し再び勇二は目を閉じた。しかし、彼は強かにも肌へと当たるアスファルトの残骸にも気取られず、暗中にてただ妹の無事を浮かべる。

そしてハナコが飛び込むは、夜空の邪曲な魑魅足らずが溶け込み溢れる黒の中。高子を見下げるほどの位置まで軽々と跳びながら、彼女はついつい、信じられないくらいに一途な勇二へと振り返ってしまった。

しかし、いくら後ろ髪引かれようとも、宙を走るハナコの歩みは止まらない。震えからその焦点を失わせながらも、それでも怖くて、彼女はただ光へと向かう。

「私は必ず助ける。そうじゃないと……」

ハナコはそれ以上に、言葉を繋げることは出来ない。だって、怯える怪談なんて、冗談以外にあり得てはいけないものだから。

そのために、ハナコが言えなかった、私がどうなってしまうか判らない、という文句は喉元にて呑み込まれて闇へと戻った。そして彼女は理解できない彼の願いを背負ったままに、誰かの噂を踏んで、また跳んだ。


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