第八話 以上
七恵は目眩の極大を味わった。世界が裏返る、そんなどうしようもなく覚束ない感覚の中で、彼女は必死に何かを掴む。その何かは誰かの悲鳴だった。掌に響くそれを掴みきることが出来ずに、サイクルジャージ姿の少女はまた自分を失う。
触れようとまさぐる宙空に、幾つも指先に引っかかるものはあった。項垂れた死斑だらけの首元に、ドラマティック過ぎるアイロンビーズ。背を向けあったオシドリは、その身の一部が癒着していた。
一体、全てが赤い。溢れた血で皆々は染まっていて、具体性無く悪夢のように消えていく。だから、七恵はどれも助けにすることは出来なかったし、そんな己の心象を大事にすることも不可能だった。
「ああ、これは違う、どれも違う。私じゃない、私じゃない……私はこんなに醜い筈がないんだから!」
赤く黒く、グロテスクに開かれた掌から、助けとなるはずの目を背けたい代物が出ては泡と消えているという事実。それを認めきれずに足掻く七恵は、あまりに滑稽な様体のままに上下すら失い、最後には信じられる残った自分の身を抱きしめんとした。
「え?」
しかし、当然のように掴めない。そう、そんなものは夢幻に要らないのだから。実体など果たして悪夢の中にあるのだろうか。猿が導く血道の中ですら、起きるべき体はそこになかった。
そう、これは共有されることなき、一人のための自虐。悪いばかりに傾いた夢中。その間には独りしかいることが許されない。だから、全ての欠片が自分から生まれたものであることを、苦しみがすべて自分のために降り掛かっているということを、本当なら七恵は認めなければならないのに。
「嫌、嫌……誰か、誰か助けて……こんなの、嘘。私は、ここに居るのに。どうして私は独りなの?」
夢は現実によって忘れ去られる。それは、夢の基が現実であるから、だろうか。もし、それが当たっているのならば。両者に一定の共通があってもおかしくはない。
一向に助けのない現実が悪夢のようであるとしたら、その汚点ばかりを源にした睡夢の中の彼女は決して救いが現れることなどないだろう。ましてや一人、何時しか夢の中。誰が訪れる訳もなく、そこで七恵は自分に苛まれる。
「ここから出して。いや、何時もからも、何処からも逃して! 自転車は何処? ねえ、何時もみたいに、私を風と散らして運んでいってよっ!」
夢の中で現実逃避など、愚かしい。それが判っていても、何時かこの恐怖は消えて忘れていくというのに、独り法師の実感から離れたくて仕方ない。
不通。普通ではない異常以上。故の孤独。寂しさこそが、七恵の心的外傷。生乾きの手のひらよりも、もっと深く胸に刻まれた、誰にも見えない癒えない刺傷の方がずっと痛かった。
「何で私には何もないの? ここには、助けもないの? どうして赤くて、冷たいの?」
不明な全体を汚す、この赤は血だろうか。もしかすると、信号の色なのかもしれない。ひょっとしたら、幼き七恵が好んですり減らした、あのクレヨンの屍体の可能性もあった。
どちらにせよ、一体にヒントはない。助かる方法など無いのだ。クローズド・サークルの中で少女の心は瀕死になるが、解決する手立ては何処からもやってこない。
まあそれも、当然のことである。自分の心の中に、助け手も逃げ口もある筈ないのだから。
「いや、いや……嫌だよう」
何も掴み取れない手からは力が抜けて、無力に縛される。役に立たない掌の出口から気持ち悪いものが周囲にひしめいていくのを感じながらも、そこには自由も奥行きすらも感じ取れなかった。
何しろ、暗黒に空などないのだから。
「ああ、助けて、助けて、助けて……ああ、もう、助けてくれない人なんて、要らない! ……居ないのに、どうして私を虐めるの? 手を伸ばしてくれないのに、何で希望を持たせるの? もう、要らない要らない! 皆、死んじゃえばいいんだ!」
人を望んで、人に望んで。それでも、傍観者を決め込んだ七恵は大衆を怨むことだけはなかった。しかし、この時独り、彼女は負ける。本気で、全ての、自己を取り囲む全ての生存を、放棄した。
死を望んだ七恵の心は折れて、粉々になって。そして、やがて彼女が最期に発した必死の言葉すら踏みにじられる。
「その言葉を、請け負ウ」
夢の中での七恵の出血、赤き全てが一纏まりとなって、怪人の形を作る。しかしそれは紛い物。ただの人でしかない。だから、現の向こうにやって来た彼の言葉など何の意味も持つはずもないのだ。しかし、七恵は絶望を抱く。
「アハハ! 言っちゃった。私、本音を言っちゃった!」
「それで良いんだよ。嘘偽りなし。それこそ語り手に相応しいのだかラ」
そして、七恵は全てを理解する。あまりに恐ろしい現実からの遁走、そのために彼女は夢中へ逃げた。しかし、目の前で不一致の腐りかけの皮膚まで微笑みに歪ませる、異常なばかりの人からそれくらいで逃げ切れる筈もなかったのだ。
独りぼっちの夢の中で、二人になってしまった今。最早認めなくてはならない。この悪夢からの救いは彼以外にないと。無力を痛感し、無視され続ける自分。それを変えうるのは、今も自分を異常以上の不通な瞳で観察する、人間の枠を超えた、しかし人でしかないものだと。
ああ、ならこうして会話を愉しんでもいいのではないか。そう思った七恵は、怯えも失くして、ただ相手が出来たことを嬉しがる。
もう、自分はいい人には、成れない。なら、どうすればいいか、その答えが真っ赤になって眼前で揺れていた。
「うふ、うふふふ。語り手? 一体どういうことなのかな。うふふ。ことによっては私、手伝ってもいいよ?」
「それは、助かるな。キミも大分赤に染まった。コレなら、他人の赤などには気が取られないことだろウ」
「うふふ。赤の他人なんて、どうでも良いものね」
「ああ、程よく、僕に近くなったようだネ」
宙空に泡と消えているはずなのに、びちゃびちゃと滴って聞こえるその言葉。そこに喜色が混じっていることに、七恵は同調するかのように口の端歪めて喜んだ。
刻々と、酷々と。赤は広がり染み渡る。好きな色。それは当然だろう。自分のことが本当に嫌いな者など、そういない。内に隠していた悪意の赤は、赤いマントと自身との境を徐々に失わせていく。
「そういえば、私を選んで接触してきた貴方は結局何なの? ただの人、ではないよねえ……」
「赤マントの怪人。その原点だよ。怪談を殺して成り代わった悪人でもあるネ」
「本名は?」
「それも殺してしまったヨ」
「うふふふふ。変なの」
七恵は笑う。理解不明な事実の羅列。そこに乗っかり、愉快げに。相手の言葉の凹凸のみを脳裏でなぞるだけで、楽しめる。それは即ち愛に拠っていた。
むせ返り、酔わすほどの、赤。それは、ワインの色であったのだろうか。
「でも、好き」
「嬉しいネ」
大きな赤マントは、少女の告白を当たり前のように受け取る。潤んだ瞳を、悪意の篭った暗黒の洞穴で見つめ返して、光を呑み込む。どうしようもないことに、七恵は想いがこれっぽっちも届いていないという事実をすら愉しんで、うふふと笑った。
何時の間にか、七恵の周りでは漂う赤が滞り、サイクルジャージを取り込んで波立ち、少女の全身をフリルの様に装飾している。それは彼女が望んだ形。つまり、高橋七恵は赤を取り込み、支配し始めていたのだった。
「私は赤ドレスになれるかしら?」
「無理だね。キミは僕の対になりようもなイ」
「それは残念。でも嬉しいわ」
悪夢を受け入れてしまった少女の変貌は止まらない。くるり狂りと夢中で一周。それだけで、見目は変わらずとも、違っていた。
そう、ここで七恵は終わる。
「つまり私はそれ以上、貴方も取り込んだお話になれるということでしょう?」
うふふふふ。赤い少女は夢ごと笑う。
そして、七つ怪談の少女が始まった。
「お早ウ」
この世で考え得る中でも最悪に近いものを間近に納めた不快な目覚め。しかし、それを快く受け入れて、七恵は笑う。
「うふふ。お早う」
いや、それは以前の七恵の殻を被っているばかりの赤い少女であったのか。ただ一度の夢を迎えただけで醜く崩れた彼女の心は、気持ちの悪いカタチを挙って受け入れる。その中でも赤いマントは、その穢らわしい中身は、とてもイケていると感じられていた。
「それで、僕の願いは理解できたかナ?」
「勿論。私は私を見つめて変えてくれた、貴方の願いを叶えてあげるわ」
頭の中も、赤く繋がった七恵の思考は早い。彼の言葉の程度を計って、解するくらいは朝飯前。果たしてその先まで望んで、過去望んでいた少女は、赤マントが口を開く前に、また笑って続けた。
「うふふふふ――――私が貴方を好きでいる間は、ね」
「……それは、有り難いナ」
「良かった。これで私達は一緒。なら、こうしてもいいわよね?」
七恵は赤マントに抱きついた。途端に、呪いが巻き付く。だがそれは、断崖を軽々と乗り越えた少女に通用する筈もなく、むしろ可愛いものねと愛され、彼女に受け容れられた。
弾力はない。しかし柔らかく受け入れられることもなく、かさりとした心地を感じてから表面の滑りを覗いて、たまらず七恵は口角を持ち上げる。ああ、面白いな、と。
そして、血生臭さを胸いっぱいに吸い込んだ七恵はそれだけで元気になって、誰もいない異世界をハイテンションで呑み込んだ。そして、溢れる笑みをそのままに、彼女は言う。
「さあて。私達の話の種に、足立君には死んで貰いましょうね」
これから望むのは、必死だった普通の隣人の死。それを理解しながらも、決してその事実に気持ちを寄せずに、七恵はただ共に出来ることのみを楽しみに、笑む。その醜悪な笑顔に耐えきれず、彼女をポニーにしていたシュシュは、裂け落ちて、その艶髪を滴らせる。
ちょっとだけお揃いね、と笑う七恵に、悪意の視線を返して、赤マントは至近の少女の両肩を掴んで自らから離した。
「ああ、そのために、行こうカ」
「案内は、頼んだわ」
「仕方なイ」
一度は離した怪我一つない綺麗な七恵のその右手を掴んで繋ぐ。そうしてから、溶けるように、彼女と彼は、くっついた二つの影の中へと落ち込んでいく。彼らが消える時に、びちゃり、という音が立ったのは、果たして気の所為だったのだろうか。
赤いマントの中で凝った百以上の凝りは、考える。
何もかもが思い通り。いや、むしろ事態はそれ以上。少女は最早、自分を超えかねない。そんな人間でない人になってしまった。
「やれ、これがアッチに近い僕が誘った、そのための一時だけなら良いのだけれどネ……」
勿論、そうではないだろう。適性が有りすぎる、というのも困りもの。彼も人であるからには、七恵が哀れであると、そう思わなくもなかった。
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