第九話 花子

口が裂けてもいえないこと

第九話 花子

月は惑わず空にある。仰げば確認出来るその事実は、誰に定められたのだろう。過去から続く法則や、森羅万象による奇跡か、はたまたカミサマか。しかし、それはこの世界の決め事ではなかった。

不必要のみを移した写本の如き別世界に倍星など存在しない。勇二にハナコを照らしていた、あの月はやはり、紛い物だった。ならば、果たしてそれは何か。

ゴミと呼ばれようともその実玉石混淆。意味もなく全てが異界で滞っている訳もない。再び魑魅魍魎の一部が必要とされて掬われるようなこともままあった。怪談の再生、同期。そのために怪人は元の世界に戻ったりもする。付箋が付いているとはいえ、わざわざピックアップを難しくすることもない。架空の漆黒に浮かんでいるのは、誰かが再び彼らを見つけるために造られた機構だった。鏡と同じく、人の無意識意識の中に眼下の全てを投影しながら、月のような真円は欠けずに今日も輝く。

「なんか気持ち悪い、月だな……」

怪談を読み取るべき者。つまりは人が覗くための、このゴミ捨て場の世界全てを映すその白は、しかし今無理に接続した赤マントの閲覧を受けて、足立勇二ばかりを映していた。夜空に光る自分の諦観に挺身を、ふと空を見上げた勇二自身も感じ取れたのか、その不明で不純な白を見た彼は吐き捨てるかのようにそう評する。

その時、走り、光を目指して駆け始めている彼を追いかけるように塀の上に現れたボンネットの直ぐ下から、笑い声が聞こえた。

「ぷっ、ぷぷ。なら、サービスでアタシが綺麗さっぱりにしてあげましょうか?」

「ふ、高子さん? ……月は綺麗な方がいいですけど、でも今はっ、そんなのよりもっと大切なことがあるので、いい、です!」

「ぷぷっ、ぽぽ。それは残念。赤いの二人くらいならアタシだったらどうとでもなったのに、残念ね。……ぽぽぽぽぽっ」

そして不意に訪れた最後のチャンスを知らずフイにしながら、勇二は最期、ただひたすらに有事へと向かっていく。駆け足は鈍く、縺れながらも確実に進んで、笑う怪異を視界の外へと置いていった。

 

周囲が視野の外の暗がりへとどんどんと消えていく中、自分が死地へと向かっていることすら知らずに、ただ必死に勇二は想う。妹が無事でいますように、と。

華子が居なくなったあの日から、彼は息が上手く吸えていない。壊れてしまった世界の全ては勇二に強く緊張を強いていた。

勿論、勇二は妹のことを愛しているし幸せでいて欲しいと真に願っている。ただそれよりも、先ず一息つくために、足立勇二は日常を取り戻さなければならなかった。それが出来なければ、彼は自分が呼吸すら出来なくなって死んでしまうものと、そう思い込んでしまっている。

勇二は喉元にて風の涼と、汗染み込んだことによるじくじくとした痛みを感じていた。傷が何時開いたのか、彼にも分からない。だが、そんな痛苦にすら気を留められず、少年はひたすら救いを求めて前を見る。そして、疲れきった総身を持ってでも、走り続けていれば、目的へと辿り着けるもの。数多の不安に恐れを振り切って、ようやく彼は現場へと到着した。

「はぁ、はぁ。ここ、か……」

四階建てのアパートメントにて、光る窓辺が一つばかり。建物の端っこにて輝く何かの様子を把握しないままに、勇二はその中へと乗り込んだ。階段を探して走り回る彼は一々、闇の中に意味を見出すこともなく。迷妄少年は相も変わらず奇跡的にも、悲痛な呪い等の影響を受けることもなかった。

勇二は一息吐けないのではなく、吐かないのだ。一度止めてしまうと再動するのに相当な時間が掛ってしまうほど、その全身にガタが来ていた。だから、彼は無理をし続ける。その行いが成就し華子と再会できるのが盲亀の浮木、奇跡もしくは最悪を引いてしまう程の運が必要であることも判らずに。

「はぁ。壊れ、てる?」

そして、悪運を迎え続けた勇二は、灯りの見えた角部屋の三〇一号室へと吸い込まれるように入って行った。アルミ製のドアが一撃で蹴破られたように曲がって内へと倒れ込んでいる事態に、あまり驚きを感じることもなく。彼は一歩誰かの自宅へ踏み込んだ。

「何だ、ココ……」

途端に感じた臭気に、勇二は顔をしかめた。無理に拓かれたのは、秘されていた加害人物のテリトリー。そんなある種の異界に、普通な勇二に驚く程度の異常があるのは当たり前。反吐を堪えて、ただ呟いた。

「汚え」

そう、まるでここは、ゴミ捨て場の底。腐れた汚物の廃棄場。まともな人間が一時も居られないこの現場が、十日の間に形作られたということを、勇二は知らない。

彼の近くの誰彼にはここに至るきざはしが覗けていたとはいえ、あまりにその変貌は急速。しかし、悪人が地獄に落ちるのに時間がかかれども、善人が罪人に堕ちるのに時間は要らない。それが、元より悪に寄りかかっていた者ならば尚更のことだろう。逃避に生き、全ての現状を捨てた悪人の生活痕が、勇二の眉根を歪ませた。

「でも、行かなきゃな」

しかし、異常に達者な足の持ち主がひとっ飛びに越えた部分であろうとも、ただの人である勇二は、素直に玄関から進まねばならない。ゴミに吐瀉物等を踏み躙り、嘔気を飲み込みながら、ただただ少年は無事を願う。

「大丈夫、大丈夫だ……」

合わなくなってきた歯の根を噛み合わせながら、呟く勇二は必死な形相をしていた。現に目覚めて来ている彼には、脳裏で繰り返される疑問を無視するのは、難しい。異常に巻き込まれた妹が、どうなってしまっているのか。必死に、嫌な予感から目を逸らし、汚水に滑らないように気を付け、進む。

 

「水、音?」

そして、とうとう足立勇二は誰かの終点へと辿り着いた。聞こえるのは、水が流れる音。それに気付いて頭を上げれば、そこには真白い空間が。もうもうと立ち昇る湯気に、蛇口から流れるお湯の流れ。そして、びちゃりと落ちた、何かの赤。

それが、ごろりと、こちらを向いた。赤く、大きく裂けたその口からは、何も溢れることはなく。ただ、だらだらと、血が流れて泡立った。

「あ、あ……」

それは何か。気付いた時にはもう遅い。全ては終わって流れてしまっている。断罪の展望など、手からすり抜け彼方へと消え。醜く開かれた男の顔面は、水の流れによって勇二の足元に届く。

「本物、だよな……これって」

疑いようもない、現実。それが、色によって理解できる。赤は停止、終わりの色。滑る足元にて、他人の最期が広がっていく。

「死ん、でる」

これが、青年、勇二が初めて知った、誰かの死だった。

「ごめんね、お兄さん。先に終わらせちゃった」

茫洋として濡れ始めた視界に、小さな何かが真白かったブラウスを真っ赤に汚してするりと現れる。吊りスカートだけでなく、髪の毛も、白いガーゼマスクも一体全体赤く染まった彼女。その名前が、ゆっくりと心をかき乱す。

「は、なこ」

「正解」

あははと、場違いに微笑んで、ハナコは再び認められたことを喜んだ。それが勇二には判らない。死を間近にして、それどころかきっとその手にかけて殺したのだろうに、その程度は問題にしないのだとでも言うように、マスクからはみ出た口の端を醜悪に歪ませる少女の気持ちを、理解することなど到底出来ることではなかった。

「どうして、こんなことを……」

「うん。確かにちょっと、暴力的だよね。それにそもそも、助ける以外は余計だったかもしれないけれど……」

異常の中で普通にしている不通の存在。口裂け女、花子さん。そのどっちでもある少女は、ふざけることなく。問いに答え続ける。

「それも、全部お兄さんのせいだよ」

「俺?」

そして、向けられた水に驚く勇二はハナコに気を取られ続けて、首から下の遺骸どころか、未だにバスルームの端に転がっている自分の妹すらも気付くことが出来なかった。

「お兄さんが私を脅かすから、精一杯頑張るしかなくなったの。それはもう、犯人を懲らしめたりもするよ」

「これが、懲らしめ……死ん、でる……じゃないか!」

激する自分に乗り切れず、恐怖に膝を丸めて逃げたくなる自分を知りながらも、勇二は目の前の殺人者に感情をぶつけることを選ぶ。勢いに任せて掴みかかれもせず、ただ言葉を繰るだけの自分に滑稽さすら覚えながらも。

当然、目の前の怪人には、そんな半端な気持ちが通じる筈もなく。ハナコは常識の不通など今更のことであると笑う余裕すら見せた。マスクを取って、更に大きく。

「あはは。だから、どうしたの?」

「どうした、って……人を殺して、それで、それで懲らしめなんて、間違ってる、筈だろ?」

「ふぅん……勇二お兄さんって怪人が、人と同じ心を持っていると思っていたの?」

少女は、青年の愚を面白がる。人でなしの心を必死に信じようとする、そんな勇二の虚しさが、人の良さなのだと知っているから。

実は、ハナコが蹴った時点で華子を監禁した彼は臓腑を破裂させ速急に死に向かっていた。そんな死に体を彼女がわざわざ引き裂いて、損ねた理由はただ一つ。

自分が今も人を殺せるのか、確かめたくなったからだった。

そして人間なんてただの考える葦ね充分に引き裂ける、と気を取り直し、安心した彼女は、断絶の言葉を口にする。

「人が死ぬのが正しいのか、生きるのが正しいのか、それも私には分からないのに」

「そん、なっ……」

思わず、勇二は仰ぐ。

しかし、そこには赤いマーブル模様が付いたばかりの白い天板しかなく。勇二の救いもハナコの救いも、何処にもなかった。

人の生の価値。その圧倒的な差異。人として生を望む勇二と、死の噂から生まれた怪人ハナコ。両者の不通は残酷で、故にこの場に彼と彼女が向かい合っていることすらも奇跡の産物だったのかもしれない。

「だからね、お兄さん」

「ひっ」

判らないモノは怖ろしい。そして、眼前の少女は最早ただの不明。それが一歩寄る。それだけで、勇二の全身に怖気が走り、硬直した。

「私にはどっちでもいいの……お兄さんが、生きても死んでも、どちらでも」

ハナコは続けて、循環こそが生命の本意であるなら、生死丸めて呑み込むのが正しいわよね、とただ見知った言の葉のみを転がす。分厚い本で学んだそれを語ることに虚しさを覚えながら。

「でもね」

自然、そんな空言ばかりで意図する全てを語ることなど出来なかった。故に、契約してまで果たそうとしている望み、それを今この場で彼に伝える。

「花子(・・)は、貴方が死んでくれると嬉しい」

誰かのように、彼女は笑んだ。

 

「はぁ、はぁ」

勇二は、夜を疾走る。星も月も、何も見えない暗中のなか、ただひたすらに。疲れも、自愛すら捨てて何を求めていたのか、それすら忘れて彼は逃避を続ける。

「逃げ、ないと。もっと、遠く……」

そんな全ては、自己保身のため。それは恐れに出会った者が取る態度としては普通のもの。反面、とても、つまらない在り来り。それを知っているからこそ、勇二は白けてしまったハナコの遊びが失くなってしまう前にゴミ捨て場から脱出することを望んで、闇雲に走る。

そも、どうしてこの世界にはこんなにも壁が多いのか。何故こうも街が入り組んでいなければならないのか。勇二はそれを、蠢く影の怖ろしさによって知る。

「棲みやすいように、なってるんだ……」

全てが全て、怪談のため。街は似姿でしかなければ、細部はないがしろ。ならば、住民が好き勝手に出来る部分も多くあるのだろう。闇の多さに、勇二はぞっとする。

「でも、判った。逃げる、なら……あそこだ」

光明。それは印象深い、ハナコの出会った時の言葉に僅かにあった。

勇二は何処から這入って来られたのか。この世界の名前は、ゴミ捨て場。ならば、ゴミ捨て場と本来の世界の境界は、どこだったのだろう。ハナコと出会ったのは、見捨てられたゴミの山の前。どこか象徴的だった。もしあそこが導線、導入部であるのだとしたら、知らずに世界を越えたことにも説明が付くだろう。つまり、あのゴミ山はこの世界の入り口で、出口でもあるのではないだろうか。

「賭ける、しか、ない……」

勇二自身でも、こんな趣味の悪い絵空事の塊のような世界にルールや出入り口を求めるのは妄想でしかないと判っていた。

だが、逃避に一定の道筋がなければ迷ってしまうもの。ハナコと通ったさ迷いの後を巡りながら、勇二は駆け続ける。錆びついた工場に、煤けたアパートメント等をどんどんと視界の外に捨てながら、必死な身体は最後の力を出し続けた。

「あ、あった……」

そして見つけるは、ゴミ山に乗っかった烏の遺骸。それは終わりの象徴、今夜の始まり。後はそこに向かって歩んでいけばいい。アレが境界であるのならば、それを越しさえすればいい。きっとその先に、帰るべき場所がある筈だから。

「ああ」

だが、勇二はそこでたたらを踏んだ。安心したところで、帰ってくるのは後悔の念。どうして自分は、恐れに負けて、大切な妹を置いてきてしまったのだろう、と。

「華子……はなこ」

妹を見捨てて逃げた後、果たして自分はどうすれば、これからも普通に生きていけるのだろう。そして、救助の契約を履行してくれた少女とただ恐怖で別れて良いものだろうか。そんな自問が心身を縛して、勇二のゴミ捨て場の前で停まった。

「どう、しよう」

行くべきか、戻るべきか。痛みで漫ろな気を整えるために、己の自傷の痕に触れんと、そっと、彼の手は動く。

「っ、痛いな……」

じわりとした痛み、それによって我に返った勇二は、踵を返し出す。不安だろうと、怖かろうと、それでも向うと彼は決めた。

闇夜に潜んだ、後ろの怪談を想像することもなく。

今まで勇二は普通に、幸せだったのだ。情の中で暮らしていた。だから、どうしても相手に自分の中で育まれた情感と同等のそれを期待してしまう。

凄惨な怪異達の悪意は想像の範囲外。だから、こうも簡単に闇への恐れを忘れてしまうのだろう。

後ろに勢揃いした奇々怪々な存在達は、自分が認められて確たるものとなり、そして青年の生を台無しにして噂になることを望む。そう、彼らの全ては、匿名の誰かの不幸で出来ていた。

「これは、私の怪談よ」

そこに、重力をも踏み切った彼女が、まるで天使のように舞い降りた。ハナコの手により、無粋な台本破り共は引き裂かれる。あまりに瞬間的に散らされた彼らの哀れを、ようやく鈍りと振り返り切った勇二が知ることはなかった。

「ハナコ」

「どうして、逃げ続けなかったの? 私が怖くないの? 追いついちゃったよ?」

「怖いよ。でも、そんな所に妹を置いて逃げる兄なんて、あり得ない。俺の手で、助けるんだ」

途端に、ゴミ捨て場に降りた闇は、どこまでも深く変貌する。それはあまりに、自分の気持ちを置いてきぼりにした無茶な理想。ここに至ってはもう叶うことなき、夢。

だが、そんな虚しい勇二こそが望ましく、面白いのだと、震えを抑えながら、ハナコは認めた。

「あはは。ああ――やっぱり、いいお兄さん(・・・・)、だったね」

「……ぎっ」

だが、ハナコは嗜好品が珍しいからと、大事にすることはない。こうまで楽しませてくれた相手を痛めつける時間は最短に。悪意の返り血が付いた小ぶりの鋏でもってして、彼女はあっという間に勇二の口元を引き裂いた。そして、この世に口裂けが、また一つ出来上がる。

飲み込まれた悲鳴の直ぐ近くで、赤い花が夜に咲いた。

「ああ、とっても気持ち悪い人。でも……」

吐き捨てるように呟く、そんなハナコの声は理解できない。淀んだ言葉の先は、更に。

「ぐっ、あ……」

そして、痛みに大きく開かれた勇二の瞳は、空を映して。今際の際の集中のためか、当然のように輝いていた真白い月、更にはそこから自分を見ている、二つの赤い姿までどうしてだか見通してしまう。視線がふと、通った。

「うふふふ。さようなら」

最後に見て取れた、高みから手を振る見知った姿から発された穢らわしい声が、彼へと届くことはない。

「――――あぁぁぁあああ!」

しかし、極めて忌々しい二つを見つめてしまった勇二の瞳は呪々と潰れる。人が望むべきではない視覚情報に捻くれ擦り切れ、灼けた彼の目は、苦痛の中で先に終わっていく。

「続きは……アイツ等が見ている前では口にしない方がいいかな」

だから、最期に、ハナコの表情を見ることは、叶わない。

「それでは契約を果たしましょう――――私は貴方を、いただきます」

そして、血塗れの彼を、彼女は口いっぱいに頬張った。

 

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