第四話 頑張るです

マイナス百合 マイナスから目指すトップアイドル

地獄に焦がされ続ける普段から我慢は得意で、身体は役目に則り復元力に富んでいる。
ならば、何本か欠かした歯を食いしばった百合が、痛みに耐えながらベッドの上に固定されたひと月を狂わずに過ごせたのは当然だったかもれない。

だが、普通ならば、ただの子供であれば泣き叫んで然るべき痛苦が内側から這い出るよう、熱とともに四六時中襲っていた。
回復。それは生きる意思に他ならなく、そしてそれはあまりに悲痛なもの。希望がなくてもそれでも活きなければいけないというのは、とても辛い。
けれども町田百合には泣く機能が欠損していて、そして彼女は極度の意地っ張りでもある。
看ていた看護師たちが瞠目するくらいに、少女は泣き言一つ口にせずに、今日の今日まで耐えきったのだ。

「よし、ですぅ」
「百合ちゃん、お歌とはいってもあまり無理はしないでね」
「大丈夫、ですよぉ」

そう、今日は楽しみにしていた歌唱の許可が出た日。
多少釣り目がちであるが心根は優しい年若き看護師が一人、百合が乗り込んだ車椅子を押して会話をしながら中庭まで進んでいく。
看護師は、傷だらけの女の子を支えるようにゆっくりと、車輪を転がす。道中は、自然のんびりとした空気が流れた。

「おや、君もお散歩かな? 良かったね。外は晴天で暖かかったよ」
「お……そうですか、じーじ。いい情報ありがとうですぅ!」
「いや、これもお天道様から貰った幸せのおすそ分けだよ。ゆっくりね」
「長生きするですよー!」
「ふふ」

途中、背を曲げながら歩む老翁にかけられた言葉振られた手を、困惑しながら律儀に返す百合。そんな些細な優しさを見た看護師は笑みながらも悲しくすら思う。

ああ、こんなにいい子なのにどうして、あんなに傷だらけにされたのか。

それは暴行、であったらしい。同級生からの暴力。それがこんなに殺意に満ちた痕になっているとは、実物を見るまで彼女は思わなかった。
顔面に集中する青あざ、口の中は挿入された杖の先端が暴れたためかズタズタ。背中に創傷が散見されるのは、逃げる少女を相手が壊れた杖の裂けた部位を用いてまでして傷つけようとしたため。

身体を拭くために、裸になった百合の全身を見た看護師が思ったのは、ただ一つ。あんまりだ、ということ。そして、どうして、という疑問。
後に何があったのでしょうね、という彼女の言葉を聞いた、所見をカルテに書き込んでいた医者は、額に深く走った皺を深め、動く手は止めないままこう言った。

「はじめて地獄を見て、錯乱しない人などいないよ」

看護師は、その言葉の意味を未だ理解できていない。ただ、この名医が最近急に老け込んできたということは、印象として感じている。

「ふんふーん♪」

まだ未着であるというのに、小さくこと下手な歌が、少女の口から漏れた。なるほどこれはとても楽しみなのだろうと、小さな背を押し続ける看護師も理解する。
だが、百合は殺されかけてからまだひと月程度。その程度では、実のところ少女の異常な回復力であっても全快どころか骨の癒着度合いだって不安なレベル。
正直なところ、看護師はこの子の傷が歌で開いてしまったら大変だし、心配だと考えないこともない。

しかし、一度暴行とは別にいじめていたらしい子らの親という何人かが集って謝罪に来たばかりで、以降見舞いと言えば両親ばかりの少女はあまりに哀れだと医師も看護師長も思ったらしい。
少女の希望を叶え、百合には僅かばかりの自由がプレゼントされた。

学校内暴行事件の被害者、その裏には学童からの酷い虐めがあった。実名は記されなくともそのような見出しで百合のことが記事になっているのは、看護師も知っている。
百合の担当になってから通常業務だけでなく、マスコミ対策についても教えられるようになったのだ。馬鹿でなければ自ずと察する。

「中庭とはいえ、久しぶりのお外です。嬉しくないと言えば、嘘になりますねぇ」
「良かったね。これも百合ちゃんが頑張ったからだよ」
「あんなの屁でもなかったですが……ま、せいぜい溶けるまで日の下に居させてもらうですよぉ」
「ぷ。溶けちゃダメだよ」

勾配ないバリアフリーな有名大学系列の総合病院の広大な中をすいすいと車輪は進む。
しかしどうなるのだろう。白眼帯が目立つ小ぶりな愛らしい顔をしたこの子のこれからは、不透明だ。
きっと、大問題にて未だ揺れるあの小学校に戻ることはないだろうが、しかし次の場所に百合のための平穏はあるのだろうか。
そして、何も悪くなくとも全てに力が弱いこの子の未来図は果たして。気になり、看護師は探ってみた。

「そういえばどうして百合ちゃんってお歌が、好きなの?」
「それは、百合がアイドルになるのに必要だから、ですぅ」
「そう、アイドル……それはきっと百合ちゃんにお似合いね」

聞いて、心より、看護師は百合がマイクを持って皆の前で歌い踊る未来を歓迎する。
実は、看護師本人もアイドルになりたいと思った過去はあった。けれども、それになるにはどうしたって燃える熱量が必要で。
誰かの前で皆のために踊るのが恥ずかしくって止めてしまった、しかし憧れてやまないそんな眩い日向。
そこに、この影を持つ子が立って、笑う。それはなんて素晴らしいことなのだろうと、思う。

勿論、冷静な部分はそれが無理難題だとだって考える。
治って、これから歩行訓練に挑んだところで、そもそも健全な時ですら歩けていなかった彼女が踊るに至るには大変な労苦が要るだろう。

「頑張って」

でも、だからこそ叶えてほしい。幸せになって。他人に対してだってそれくらいは、優しい大人であれば思えるのだから。
そして、本気の音色は優しく胸元に届く。必死に頭を守ったばかりに傷だらけの手の平を平らなそこに重ねて、百合は。

「ナースのお姉さん。ありがとうですぅ。百合、頑張るですよぉ!」

作ったのは、不格好な笑み。しかし、それだって必死であれば尊くて。
ちょうど日向の前で、キラキラと輝きながら、町田百合は、そう言った。

 

「らー、らー♪」

そうして、たどり着いた中庭の温い中にて、百合は歌う。最近伸ばしっぱなしの髪を指先に巻きながらも、真剣に。
その歌唱は勿論調子外れで、音もタイミングも正しくはない。けれども、懸命に整えようとしているのは明らか。
真剣に歌う少女は日向の中にて高く高く歌い上げようとして、低く持ち上がらんとも頑張っていた。

「らー♪」
「……行こうぜ」
「ええ」

だが、下手は下手。子供のしゃがれた奇矯な音色を聞いていられなくなって、日の柔らかさを楽しんでいた大勢はその場から発つ。

「あー♪」
「ふむ」

しかし、それでも残る者は少しばかり居た。それらは、大概が病院に過ごして長いもの。
老いた彼らは、どうしたって子供の高い声から遠かった。そして下手を恥ずかしがらずに練習するその向上心からも離れきっていて。

「いいな」
「ああ」

諦めきったものを、直しどころだらけの歌が、撫で過ぎる。
未熟も未熟、花でも蕾ですらない、芽生えの歌。そんなもの、何時も病室で旧いCDで聞いているものとは遠い、だからこそ稀な響きで。
見れば、歌っているのも包帯だらけの小さな小さな少女。少し下手でも大目に見ていいだろう。
ひょっとしたら嫌ってもいいのかもしれないけれど、しかしそれを彼らは良しとした。

「らー、あー、うー♪」

だから彼らの沈黙の中、少女の歌はしばらくその場に流れていく。

天はこの世の悪など知らないかのように、無垢にも青一色。そんな中で日差しは熱を忘れたかのように優しく届く。
木々の青さから、ぽとりと毛虫が落ちた。しかし、それもまた捩り命のままにどこかへ向かう。
舞う鳥はしかし下手に混ざるの嫌って歌わず、しかし患者の投げたパンくずを拾って羽ばたき去っていった。

「らー、あー、あー♪」

辛辣なものなんてない、そんな優しい光景を眼帯の奥から真っ直ぐ見て、少女は高みを目指して歌う。
額に汗。そろそろ疲労を考えて止めなければと付いていた看護師が動かんとした時。
一つ、呆れの籠もった声が響いた。

「全く。これは下手な歌、だなぁ」
「ら、って誰ですぅ? 百合の歌に文句を付けるとんだヤローは」
「私はヤローじゃないけれど、そうだね。歌が下手な君は百合ちゃんというのだね。私も名乗ろうか」

遠くに下手を聞いていた美しいものが、石畳を叩いて進む。背筋を真っ直ぐ、かつりかつりと百合の前に現れたその人は、あまりに綺麗。
指先まで洗練された美をもって、女性は地べたの少女の前に立った。
彼女は、車椅子に座ってこちらを睨みつけている様子の全身包帯だらけの眼帯の子、百合を見ても何一つ憐憫を表に出さず、しかししゃがみ込んで視線をあわせてから。

「私は田所釉子。この病院に入院中の……元アイドルさ」

はっきりと、そう口にしたのだった。


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