第一話 私は私

先代巫女な慧音さん 霊夢に博麗を継がせたら無視されるようになった

書を捲くるのは苦ではない。私が何千何万回と繰り返したその所作は、思えば風一吹きですら再現できるほどのものだから。
だが、読むとなると中々の労苦が発生してしまう。平に文字を覗くだけなら簡単なのだが、その意味に条理に意志を継ごうとするならば、一筋縄ではいかないもの。
以前よりは少し良くなって、でもちょいと頭でっかちさが増した私であっても文字の群れを全てを捕まえるなんてことは無理だ。
ただ分かった気になって、次を捲る。そればかりが上達するのが精々。何せ長命を得ようが、私は私でしかないのだから。

「……なるほど」

そう、博麗の巫女でなくなったところで、頂戴した名字を名乗るようになったところで、私は慧音という少女の延長線上にある存在で間違いない。
だからこうして古びた本を夜な夜な月の明かりだけでは足りずに油の光源を用いて縋るように読み解くのも、慣れきった何時ものこと。
肉体の変化によって眼鏡要らずになったのは有り難いが、このまま目に悪いだろう生活を続ければまた何時か衰えとともに掛けることになるに違いなかった。

「紫も、随分と意地悪なものだ……私がこうなってからようやく歴史書を貸してくれるようになるなんて、ね」

独りごちる私はけれども、流麗な字体に視線を這わせることを止められない。
知が泉であれば、そこに浸かれるのは生き物の幸福である。幼いころから私はそう信じてやまなかった。もちろん、ただ知るだけでは意味がないだろう。
知識にて他より群を抜いていただけの私が博麗の巫女見習いの一人として見出されたのは、他の見習いが死に絶えた後にもずっと生き残れていたのは、一重に学び続けていたからに他ならない。

巫女として働く傍ら、幻想郷という閉じた世界での全知を求め、西に東に言葉と文字を求めて右往左往。
合間合間に長じた巫女としての技能は私の誇りである。救えた生命は宝であるし、零した生命は罪だ。
だが、そんな特別なものだって。

『――――お前に、私の叡智を授ける、といったらどうする?』

神に近い獣のそんな一言のために全て棄てられてしまったくらいに、私は知の泉に溺れきっていたのだった。

「お邪魔するよ」
「ふむ……貴女ですか」

私の気を書より惹かせるに十分ながらりという音の後、桟が高い音色を響かせる。
生家から神社まで毎日通い続けた珍しいらしい巫女であった私の元へ、こうも気安く訪れる人は少ない。
いや、そもそも本の虫を訪ねるもの好きなどそうは居ないものだ。実際、小難しいことばかり語る私は里の子らに嫌煙されている。

「慧音!」

さて、数少ない変わり者を好む変わり者である彼女、藤原妹紅は手入れ不足の白い長髪を棚引かせ、名前を呼びながら私の前へとずかずか歩んでくる。
靴はそこらに脱ぎ捨て、迷いなく対面の椅子に座して、彼女は険を隠さないまま、単刀直入に言った。

「貴女が博麗の巫女を止めたっていうのは本当?」
「ええ、その通りです」

永く生きた彼女の問いに私は神妙に、頷く。
私は博麗ならぬ、上白沢慧音。先ごろ瑞獣、白沢に選ばれて半獣となった女だ。
また、約定によって拾い子を取り上げられてしまった、親未満でもあった。私は霊夢と名付けたあの子の幸せを願うことすら忘れて本に没頭していたことを思い、苦笑しながら妹紅に告げる。

「貴女にも分かるでしょう、今の私に妖怪としての力が備わっていることが。巫女は人間側であることが求められる……例え私が友好的であろうとも、半獣となってしまったとあれば巫女の役目は解かれてしまうのです」
「……どうしてか、聞いても良い?」
「ええ」

妹紅は、険から戸惑いに表情を変えて私を見つめた。
とある過ちによって不死となった彼女は、滅多に人里に現れることがないが、それでも一時の暖を取るようにふらりと訪れることがある。
その際に、面白いと意気投合した私のことを、妹紅は気に入って親しんでくれていた。
私も酒によって軽くなった彼女の口が綴る昔語り、そしてその際の表情の豊かなところなどは、大変好んでいたものである。

しかし永遠を持つ彼女は根っこのところで孤独。だから、なのだろうか。どうも、あえて独りになるような選択をしたようである私のことを悲しんでくれているようだった。
私は、彼女のそんな優しさを受けるに値しない存在だと首を振り、言い訳のように続ける。

「先日、私は幻想郷の淵にて、白沢と出会いました」
「えっと……ハクタクって……あの、何か中国の……そうだ、白沢図で有名な神獣じゃない! そんなのと会えたの?」
「そう、ですね。ここ幻想郷では教科書より広く知られた白沢図。その内容はかの黄帝に彼が伝えたものとされています。私も、彼と出くわした際には流石に興奮を覚えました」
「はぁー……そりゃ凄いや。いや、幻想郷に存在してたのかぁ……下手をしたら、龍よりも珍しいものに貴女は会ったのかもしれないわね」
「そう、かもしれません。だがしかし、彼はその時死に瀕した様子でした」
「……ええ?」

表情豊かな孤人である妹紅の驚愕の面にどこか満足を覚えながら、私はつい先日の愕然たる日を思い出す。

私が発見したそれは明らかに貴であり、稀であり、そして何より殆ど生きていなかった。
倒れ伏した、白き痩せこけた獣。人型も取れずに息を引き取ろうとしている、彼は九つの眼を見開いて、こんな場所に至った私の来訪を驚いていた様子だった。
また、彼はこの奇縁を面白いものと考えていたようで、名乗るなり間髪入れずに彼は言ったのだ。

『お前が、白沢を継げ』

当たり前のように、すらすらと恐ろしいことを告げる獣の言葉に、私は直ぐにはうんともすんとも返せなかった。

「彼は、死ぬ前に跡継ぎを求めていたようでした。そして、どうしてかお目にかなった私は、それを承けることにしたのです」
「それで、巫女を辞めることになっても?」
「ええ。巫女でも人でなくなっても、私は私ですから」
「……娘、霊夢ちゃんに会えなくなっても?」
「それは……欲に目を眩ませた私には、考えもつかなかったことでした」

私は、私。決して賢くはない、未だ全知には程遠い人だったもの。
そんな知を欲し続ける私は、でも確かに手のかかる娘を愛していた。
霊夢。数年前に没した母と共に考えた彼女の名前は、数限りなく呼んだ覚えのあるその名はしかし、今は遠く。

「今は、代わりに霊夢ちゃんが巫女をやってるって聞いたよ。確かに、あの子って凄く才能あったけどさ……」
「ええ。心配です。心より、あの子の健やかな生を望んでいたのに、こうも早く役目を負わせてしまうとは、本当に残念で……」
「でも、貴女は今まで本に耽ってそれを忘れていた」
「ええ……仕様がありませんね」

本当に、どうしようもない。再び険を持って私を見つめる妹紅のその心根の良さと違い、私は誠にダメだ。
何より親であることだけは棄ててはいけなかったのに考えることなく、或いはその可能性を無視して妖怪となって独りになった。

ああ、里へやってきた巫女服に着られた様子のあの子が遠目に私を見つけ、そして、見なかったようにそっぽを向いたことを私は忘れない。
あの子が怒るのは、分かる。きっと棄てられたのだと思っているのだろう。そして、それはおそらく間違いではなくて。

「私は、あの子を失ってしまったかもしれません」
「慧音……」

瑞獣から新たに上白沢の姓を得て、多くの知識と妖力を手に入れた。だが、それだけで満足できないのが、私という罪多き人間。
罪悪心に浸るまでもなく、私は間違い。本来ならば人里から離れるべきであるのだろう。
でも、何だかんだ私は人が好きで、それらが紡ぐ歴史も大切にしたい。それに。

私は未だ、諦めてはいないのだった。

「私は、だから待ちます。あの子が、許してくれるようになるまで」
「……そう」

私に許してと口にする資格はないだろう。だが、それでも恥知らずにも待ち続けることは出来る。
あの子が私を必要としてくれるようになる、そんな日を夢見て幻想の歴史を纏める、そんな存在が今の私だ。

「あのさー……私は、親子とか正直よく分かんないんだけどさぁ」

不死鳥のように灰から還る彼女は、しかし灰被りの少女の物語を嫌う。
能動的な妹紅は、私のように受け身な生き方を理解できないのだろう。でも、それでも理解してあげたいといった風に悩んでから彼女ははにかんで。

「慧音は賢いんだ。貴女がそう選んだんだのだったらきっと、悪いようにはなんないと、思うよ?」
「……ありがとう、ございます」

そんなことを言ってくれたのだった。

月は欠けていて、心ひび割れていて、寂寥慰めるように私は誰かの書いた想いを眺めていた。読むのが私とうそぶいて。
だが、そんな私もやっぱり独りは嫌で、読書の際に何時も繋いでいたあの子の手のひらの温もりがないと、ときに涙を流してしまいそうだったのに。

優しさ一つで、満たされる。ああ、文字ではなく愛こそが歴史であるのを、私はまた忘れていた。

妹紅のために、私は努めて笑顔を作り、ありったけの言葉を返す。

「貴女が来てくれて、良かった」
「あー……慧音がそう思ってくれるなら、私もこんな夜中に来て良かったなー、うん!」
「?」

私の珍しい笑顔に瞳しばたたかせ、途端に、ぼっと紅くなる妹紅の顔。
これまでも、時々なっていたその赤面の故が分からない私は首を傾げるばかり。
どうしてか焦るように急に椅子から立った彼女は次に私に背を向けて。

「……また、来るよ」
「お待ちしています」

その言葉が最後。優しく開かれた扉は静かに閉ざされ、そして私はまた独りになって。

「霊夢……」

書を捲くるのは苦ではない。私が何千何万回と繰り返したその所作は、思えば風一吹きですら再現できるほどのものだから。
だが、文鎮よりも重いものが胸に伸し掛かっていればそうはいかない。

夜に眠れず、だがもう本から背を向けて、私はただひたすらにあの子の幸せを願い続けるのだった。


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