六話 たとえそこが青空でなかったとしても

少女は星にならない挿絵 少女は星にならない

二つの高い背中の後をおずおずと、華の少女は付いていく。
長身二人が人混みを掻き分けて進む中を、宮永咲は頼もしく思いながら、同時に遠慮なく右に左に進む経路をとても覚えきれずに不安に感じもした。
これもし置いていかれたら私東京のど真ん中で右も左も分からなくなっちゃうよ、と今日は特に転ばないよう足元に気を使いながらおっかなびっくり歩む。

「今日、こんなに歩くなんて、思わなかったな……もうちょっと、靴も気を使えばよかったかも」

それでも時間とともに緊張は解け、溢れる独り言。それに足元も気になるけど、須賀くんに会うならどうせなら洋服ももうちょっとおしゃれなものにしておいたら良かったな、とか咲にも考える余裕が出てきた頃合い。
何やら止まって話をしていた男子たちが、一斉にこちらを向いた。思わず、肩をびくりとさせる咲に、京太郎は優しく言う。

「はは。こんな知らない相手で知らない場所で咲ちゃん、ちょっと緊張してるのかな?」
「えっと……うん」
「大丈夫。俺は誠と友人だし……ここはちょっと俺と、部長……君のお姉さんが通ってる高校に一番近い喫茶店だよ。ここでならゆっくり話せると思ったんだ。リラックスしてくれていいよ」
「え、と?」

京太郎は努めて笑顔で、まるで子供をあやすかのように柔らかに咲に語りかける。それが胡散臭く感じないのは、彼の心根が面に表れているためか、はたまたそれだけ彼の整いが優れているためか。
まあどちらにせよ、なんか妙に丁寧に扱われているというか、可愛がられているみたいな感じを咲は覚えた。
どういうことだろう、と首を傾げる少女。しかし、隣で仔細を見ていた誠は京太郎が咲を幼気な雰囲気と胸の発育具合で年下と判断していたことを察し、ため息を吐きながら間違いを指摘する。

「おい京太郎。こいつ、オレらとタメだぞ」
「マジか……あ、ごめん。俺失礼な勘違いしてたよ、咲……いいや宮永さん、かな?」
「あう……」

格好いいと思っていた男子に、年下と勘違いされていたこと。それは、些かならず少女の矜持を傷つけた。
そりゃ中学で長野県代表を争ったあの子と比べたら未性徴といっていい、肉付きの薄い身体だけど。ああでもひょっとしたら、服が少女趣味過ぎたのかな。そんな風に、咲は僅かな間隙に色々と悩んだ。
だが目の前で心から申し訳無さそうにしている京太郎を前に、責める気持ちまでは起きない。
むしろ、彼にうなだれたゴールデンレトリバーの愛らしさすら想起した咲は、一歩踏み込むように言葉を紡ぐのである。

「咲、でいいよ。きょ、京太郎くん」
「ああ、分かったよ。咲」

上手く名前を呼べない咲に、さらっと言われた通りに返す京太郎。両者には、どうにも意識の差があるようだった。
本ばかり読んでいて、どこか頭でっかちなところのある少女は、異性の下の名前を呼ぶという事自体がちょっとしたイベントなのだ。
しかし、義姉に友に異性に慣れている京太郎にとって、女子の名を呼ぶのはありきたり。呼びやすくなったな、と思うだけだ。
そんな温度差すらプラスに働き、彼になんとなく都会の男子感を覚えてしまった咲は、近くに青年の笑みがあることすら恥ずかしく感じて。

「ううー……」

咲は隣の誠からひどく生暖かい目で見られていることを知らずに、たまらず顔を紅くしながら珍妙な唸り声をあげるのだった。

 

それからしばし。レトロな喫茶店の中で落ち着いた――都会らしい高さのメニューの値段に目を白黒させていた咲。彼女がおごりだから何でも頼んでいいよとさらりと言った京太郎のリッチなお財布事情への驚きが収まるのには少しかかったが――三人。
遠慮なく頼んだオムライスをがっつく誠を他所に、咲と情報のすり合わせと雑談を交えた会話をした京太郎は、頷いて言った。

「……なるほどな。咲はやっぱり部長の妹さんで、わざわざ長野から東京まで会いにやってきたのか」
「それだけじゃねえな。こいつは京太郎と入れ替わりで転校してきたオレのダチで、趣味は読書。得意料理は肉じゃがで、特技は……あー……何もないところでコケることだ」
「高久田くん! 私の補足というか紹介してくれるのはありがたいけど、変なオチつけないで! もっと何かあるでしょ?」
「あ? いや、他にお前の特技っていったら道に迷ってべそかくこととか……ああ、分かったよ。そうだな、嶺上開花があったな」
「むー……厳密に言うと、それも特技とはいえないんだけど……」

妙なモードになっていて早く目の前の男女二人をくっつけたいと、お節介を焼こうとする誠。
しかし、それは余計な茶々にしかならずに、むしろ己の間抜けさを披露された咲は、特技を言われてもむしろ恥ずかしくて、もじもじとした。
だが、コケるとかべそかくとか、そんなことはからかいの言葉だと京太郎は重く見ず、むしろその特技に関して不明なことをばかり気にする。

「えっと、りんしゃ……すまん。なんだっけそれ?」
「ええっ?」

その問いに、咲は愕然とする。
嶺上開花。いただきに咲くはな。麻雀の役の一つ。それはゲームを嗜むに必須な、情報だった。
しかし、それが何かと京太郎は首をかしげる。まるで《《メジャー》》な遊戯である麻雀の基本を知らない、とでも言うような彼に、先んじて質問したのは誠だった。行儀悪くスプーンで相手を差しながら、彼は訊いた。

「は? 京太郎、お前麻雀あんま知らなかったっけ?」
「いや、最近ちょっと興味持ったんだけどさ、周りに乗り気な人が居なくて数集まんなくてさ……アプリでやろうかな、とか思っててそのまま忘れてたな」
「そりゃ遅れてる……つうか実はあんまテレビとか見ねえの? 大会とかやってんだろ。東京とか専門チャンネルだってありそうなもんなのにな。牌のお姉さんやってるはやりんとか、ぼいんぼいんですげえのに、勿体ねえ」
「お姉さんって……俺の場合、ハンド一直線だったからなあ……最近他の競技観る余裕が出てきた感じだな」
「……そっか」

さほど気にした様子もなく、さらりと一直線に拘っていたものから離れたことを示唆した京太郎に、誠は何となく心地悪くなる。
だが彼は知っている、須賀京太郎という青年が、凡才の上に誰よりも努力を重ねて、その結果として当然のように身体を壊して夢破れてしまったという事実を。
転校してから後、自分の関わっていない遠いところで起きた、事後に聞くばかりだったそんなありがちな悲劇を、誠は殊の外気にしていた。
自分が、なんとかしてやりたかった。そんな思いを再燃させて押し黙る彼を他所に、あまりの想定外に驚いた咲は慌てて問いかける。

「えっと。ちょっと待って、京太郎くん。お姉ちゃんとは一緒の部なんだよね。お姉ちゃんはその部長って言ってたけど……ひょっとして、麻雀部の、じゃないの?」
「ああ。部長は文芸部の部長だな」
「文芸部!?」

文芸部。本を読んだり書いたりする、あの部活動。きっとそれはあの人の本好きが講じた、ということなのだろう。私も本が好きだから、そうなるのも分からなくはないけれど。
ということは、今の姉は決して麻雀牌をじゃらじゃらやったり、右手をぐるぐるさせたり、あまつさえ九蓮宝燈を披露したりなんてしないのだ。

あんなに牌に愛されていたのに、あの人は、そこから背を向けた。そして、独り、本に向かったのだ。

それはつまり、私《《達》》との思い出からも、逃げ出したということで。

「そんなの私、聞いてない!」

少女は、思わず叫んだ。

 

中学女子麻雀界で散々に暴れまわった、チャンピオン宮永咲は、麻雀競技人口が軽く億を超えるこの世の中では知る人ぞ知る有名人だ。
咲は嶺上開花という華のある和了り方を自在に用い、またイカサマを疑われるほど牌の行方を察する力を持ち、優れた得点調整能力すら持っていた。
対戦者曰く、魔王。その理解不能な打ち筋は、世に疑問と加槓を好むフォロワーを大量に生み出すことになった。

もっとも年ひとつふたつ違えれば、他にも匹敵する優れた打ち手もちらほら存在するだろう。しかし、同学年において並べて少女に敵などなかった。

――――麻雀って、楽しいね。

数多の相手と対峙し、その勝利危ぶまれることすらほぼない中、しかし勝利を重ねた咲はいっとき苦手にすらなっていた麻雀に対して、そう結論づける。
卓上に情熱が交差し、相手の心と触れる優れた方策のひとつ。
点棒ひとつ残らず奪われた敗者たちを前にし、魔王という渾名と引き換えにようやく気づけたその理解を少女は大切にしていた。

だからこそ、それを続けて、今もどこかで麻雀をしているだろう姉と卓上で存分に語り合いたかったというのに。
そうして《《あの子》》と一緒に失われたあの時を、取り戻したかった。そのための勇気を出した一歩が今日の遠出だったのだ。

「あは。でももう、無理なんだ」

だが、姉はもう過去になんて目もくれず、今を生きている。そんな当たり前が、咲には痛かった。

「……お姉ちゃんは、私のことなんて、どうでもいいんだから」

語り、全てを吐き出した少女は天板を見上げる。黒い木目に、造作細やかに輝くライト。
お洒落はどこまでも徹底するのが正しいのか。そう思ってしまうくらいに、喫茶店内はどこもかしこも明らかな上等だった。
それこそ、まるでお前は場違いなのだと語られているように、洒脱している。

私はどうしてここにいるのだろう、と彼女は感想を持った。

「……ふぅ」

透けるような、希薄。そんな咲の有様を良くない、と彼は思う。
だからこそ一度親友を見、その頷きを確認した京太郎は、口を開く。

「そんなことは、ない。俺はそれだけは言えるよ」
「だって……」
「どうでもいい相手からは、逃げない。それにさ」
「……それに?」

オウム返しをする咲の瞳は、乾いている。しかし、その奥に希望がないなんて、嘘だろう。
好きだから愛されないのが怖くて、手を伸ばさない。京太郎は、随分前に血の繋がりもない遠戚の少女の助けになるために無茶をしたことを思い出す。
あの日すっかり挫けて怯えた彼女その手を掴んだこと。それを義姉はあり得てはいけなかったと言うけれども。

あの人がしっかりと手を握り返してくれたそのあたたかさと喜びは、決して忘れることは出来ないのだ。

彼は彼女の幸せを願い、笑む。

「逃げた相手のために戻ることも、どうでも良かったらしないだろ?」
「え?」
「すまん。実は先に喫茶店に来るように部長に連絡してたんだ。……全部、聞いてたと思う」

がたり。カウンター席の奥の椅子が動く音。そのまま足音が続き、彼女は姿を見せた。
瞳潤ませながら、なんならもうぐすりぐすりとしながら、宮永照はその鉄面皮を哀に染めている。
愕然とする咲に、ぽつりと照は言った。

「……咲」
「おねえ、ちゃん」
「うん。そうだった。私は……お姉ちゃんだったね。ごめんね咲。待たせちゃって」
「う、う……うぅ……」

預けられるは、魔王と呼ばれながらもしかし酷く頼りない、少女の身体。迷いなく、照はそれを抱きしめるのだった。
身を寄せ合う、妹と姉。そして、二人の絆は固く、結び直される。

煤けて固く閉ざされた本。そのいちページは、少女の勇気によって捲られた。

 

崖から落ちて、飛べずにその鳥の身体は海へと没する。

味わうのは大海の塩辛さ。その小さな体はしかし、沈むばかりではいられない。
そもそも、その身は泳ぐに向いていて、小さな羽は掻くことにこそ真価を発揮するのだから。

魚よりも自在に海の中を往き、波より早く青を進んだ。
やがて何時ものように太陽を見上げて翼を広げ、そして、彼女は気づくのだ。
自分が大鷲を信じて真似たことに、意味があったことに。

そう。そのペンギンはその日。
海を、飛んだのだった。

 

 

ちなみに。

「えっと、どーしたの、テルーと……誰? 似てるけど、妹? でも前に聞いた時テルーって妹は居ない、って言ってたけど……」
「……誠も空気読んで黙ってるんだから、淡もちょっと静かにな」
「はーい」

姉妹の仲直りのすぐ近くで、こんな会話もあったかのもしれない。


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咲‐Saki‐1巻
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