あなたの名前、教えてくれますか?

ノイズちゃん完全燃焼 それでも私は走る

第四十三回有マ記念は、12月の雲天のもとでの発走となる。
それはもう、先日からの天気予報でもおおよそ理解していたことだし、何よりグラスワンダーの魂がこの一日を忘れられないでいた。

「ふぅ……」

冬の冷たさを取り込むばかりでは、一向に鎮まらない心地。それが、興奮によるものであるのは明白だった。
中山の時は15時すぎ。テレビで観てばかりいた後ろ姿を他所に、彼女は芝生の上につま先をつつく。

「これが、私の求めていた場所……」

顔を上げればその青い瞳に映るのは優れた正しくこの命が見知らぬ魂越しに夢に見ていた光景。
同輩だけでなく先達を含めたトゥインクル・シリーズで極めて優れた成績を上げたウマ娘たちに並び、そして勝つ。

「――」

そんな夢のような未来予想の成就の時間が近づいてくるにつれて、そこに混じったノイズが反して大きく心に響いていく。
いくら動こうとしても目の端にどうしても入れてしまうあの子が、今日も愛おしい。

これより夢に理想が交じり、何より尊い時間が始まるのだ。それが嬉しくってグラスワンダーも微笑みなんかでは到底満足出来やしない。
今年多く話題になった稀代のナンバー2。自身が観衆からそう言われていることをすらどうでいいこととして――――は、セイウンスカイにキングヘイローと会話していたその身を翻す。

誰よりも何もなく、それでも黄金の時代を駆け抜けてきたウマ娘。
彼女は相変わらず、つい似合わないですよと照れてしまうくらいに可愛らしい笑みを浮かべながら、同じ栗色の髪を風でなびかせながら向かってくる。
己の口角がその歩み寄りに合わせるように自ずと上がっていくのが、グラスワンダーにはまざまざと分かった。
自分より少し身長低めの可愛らしい彼女。だからこそ抱きしめるにはとても良さそうなぴったりサイズのこの子こそ、私の唯一運命であり最愛であるとグラスワンダーは考えていた。

いや実のところ唯一ではなくもしも、はあるのかもしれない。ウマソウルが殊更映す姿は美しく黒鹿毛を棚引かせる別の存在。
きっとあれはスペシャルウィークの別の姿であり、つまり少女の縁自体はむしろ別のところに結ばれている可能性が高かった。
本来ならば、――――なんてウマ娘がここにある今なんてあり得なくて間違っているのかもしれない。それは、グラスワンダーだって何となく分かっていた。

「ふふ」

だがしかしそんな本来を、この子は不断の努力と意志を持って穿ってここにいる。
弱々しい才能を焚べて、閃光のようにすらなって。そして期待以上の大輪と化したうえで私の前にこうして立ち塞がってくれた。
前に進む少女の仕上げてきたはち切れんばかりのトモの見事さを目に入れながら、更に笑みを深めるグラスワンダーにご機嫌だねと――――は声を掛ける。

「グラス。また一緒に走れるね」
「――。ええ、私はずっとこの日を待ち望んでいました」
「ん。いい表情」
「ふふ。貴女もですよ?」

笑顔を、向け合う。笑みというものは本来攻撃的な色を持つようであるが、それがどうしたのだろう。
正しく、彼女らが交わし合っていたのは限度すら越えた好意。蕩けない笑みは、はっきりとした想いを伝達させていく。

思わず此度の有マに同じく出走と相成ったエアグルーヴがこれで競えるのかと眉をひそめ、メジロブライトはほわぁと興味深そうに目を光らせ、メジロドーベルなんて思わず顔を両手のひらで隠しながらもふと閃いた彼女は漫画に活かそうと指の合間から確り赤い顔で見つめる。
マチカネフクキタルは今朝引いた御神籤の結果のためにげっそりとやる気を下げていた。

しかし、存外図太い彼女らにとって外野の視線などはなんのその。ただ今更自分が知らぬ間に自分が笑みを深めきっていたことに少し気恥ずかしくしながらも――――はこう返す。

「そうだね……うん。私だって、今日のためにこれまでずっと走ってきたような気がする」
「そうだとしたら……想いは一つですね。負けません」
「ん……私も絶対にグラスに格好悪い所を見せたくないよ」

互いに掛け合うのは必勝の誓い。
ああ、彼女らは互いに間違いなく好き同士である。でもだから負けたくないのだとこの上なく意地を張りあう。
似た者同士に過ぎる二人の、そんないじらしさに。

「……二人の世界って感じだねー。セイちゃんちょっとスネちゃうなー」
「おーっほほっ! 私を見ずに宣戦布告なんて、なんて面白いのかしら……ええっ、とってもっ!」

横から恋慕同然の彼女らを見つめる二人の心に燃え盛るのは、正しく嫉妬だった。

 

「ひぇー。凄い人だねえ……しかも結構こっち注目してくれちゃうし、こりゃセイちゃんもやる気出さないとだねぇ……」

今回の有マ記念の主役と目されたのは、何と言っても菊花賞にて世界レコードを打ち立てたセイウンスカイである。
その人気ぶりは凄まじく、向けられる声援視線と期待の重さにマイペースな彼女も耳をペタンとして苦笑を浮かべていた。

「ふん。相手が誰であろうと関係ない……私の理想はここに成る」

そんなどこか頼りない姿に一言申したく成る気持ちを抑えながら、彼女は色濃いアイシャドウが目立つ瞳を一度閉じた。
そう。この有マをラストランとして挑む女帝エアグルーヴもそれに匹敵するほどに応援されている。

「うふふ~。わたくし達の覚悟、見せつけてあげましょう?」
「準備できてるよ。この日のために用意してきたこと、絶対に無駄にしないっ!」

また、対抗するウマ娘として多の観客が挙げるのがメジロブライトとメジロドーベル。
メジロ家から有マに二人も。それも彼女らは今年のGIにてそれぞれ1勝ずつ挙げるなど、この年末の祭典に選ばれるのがそれこそ当たり前のような実績を持っている。
そんな一族の希望を乗っけて尚譲らず気炎をあげる彼女らは、睦まじくもグラスワンダーと――――らとはまた違うライバル心を滾らせているようだった。

「うん。今なら自分という壁すら超えられそうだ」

そして、そんな他人を気にもせず飄々とこの場での一歩一歩を楽しんでいるのがステイゴールドというウマ娘。
GIであと一歩というところ、つまり何時星に届くか誰もが期待するレベルの実力を持つ強者である。
どうやら好調である様子はその言葉以上に艶ある髪、張りのあるトモからも一目瞭然だった。

「うう、身体が重い……スピリチュアルパワーが不足しています……占いは凶でしたしこれは背一杯走って、運を切り開くしかないでしょうか?」

だが果たして、6番人気と推されたマチカネフクキタルは完全に消沈しているようである。
勝負服として背中に負った大きな招き猫の表情すら優れない今は、明らかに不調。メンタルを少しでもあげようと朝占ってみれば芳しくもなければ、どうにも雰囲気に飲まれているようだった。
とはいえ、彼女とて半年ぶりの出走。そして自らが採った冠と同じものを今年被った後輩の活躍ぶりに、燃えぬものがないわけでもない。
その表情と反して、マチカネフクキタルは譲れぬところを隠していた。

「体も軽い。そしてもう心配なんてしてやらないわ……勝つのはこのキングヘイローよっ!」

反して、好調を維持してこの有マに参戦出来たキングヘイローは明らかに猛っている。
好きな人のいちゃいちゃを見せつけられて、二人みたいにそんなに真っ直ぐになれやしない、比翼のごとくに寄り添ってあげたいだけな自分が彼女は嫌だから尚更に。
だがそんな余計な筈の感情だって炎とすればよい燃料に成るものだから、この世は存外不思議だ。台風の目となるとしたら、きっと彼女だろう。

「力……それだけではなく、心まで溢れ返ってしまいそうです……平常心、は難しそうです。ああ、レースが待ち遠しい♪」

そして、怪我と急ピッチの調整が不安視され中々有マで勝つのは難しいのでは噂された、実質黄金世代最強とされるグラスワンダー。
しかし彼女はそんな他人の愚慮など何のその。今も周囲に最上の仕上がりを魅せている。
たおやかで、強か。そんな二律背反をひとまとめにして、何より美しく。笑顔で誰よりこのレースの雰囲気を楽しんでいるようだった。

「ああ、これで……やっと」

最後に、4枠7番の指定された位置に向かわんとする――――は、感極まった様子で一度目を瞑った。
再び開いた彼女の大ぶりの瞳には別段光るものはない。だが、何より誰よりその奥で何かが燃えていて、それこそ全てを灰にしかねない程の熱がそこにあった。
此度の黄金世代のレコード多発の原因として多くに意識される、――――というウマ娘。今回も何をやってどんな結末へと導くのか多くが気にする。

多く向けられたのは期待とも違った、不安に似た何か。春の大怪我を憶えている人間たちからは兎に角無事に彼女が走り終えて欲しいと思っていた。

「走り、終われる」

だがしかし、そんな希望なんて飛沫の夢の如く。全ては炎に巻かれた灰のような無情に終わるのは必定。
けれども、それでも私は走ると決めている――――という特大のノイズは。

「ねえ、――――。あなたも私を見て、聞いてて」

そう、触れも感じも出来なくなったウマソウルへの弔いのためにも、歌い始めるのだった。

 

 

芝生を蹴る。ウマ娘達が推進するにはその行動が必ず必要だ。
そして、スタートダッシュというものには酷く力の籠もったひと蹴りが地面に向けられる。
ああ、灰色の怪物の足跡等、多くの伝説はターフに刻まれた。そして、師走の際の輝かしい今日の一番に注目されたレースの始まりは。

「はぁ?」

それは、誰が発した声か。スタート。開始の合図を聞いたと思えば、既に、私達は。

「どうして、もうそんなところに居るっ!」

そう、エアグルーヴが驚くのも当然。気づけば既にその背中が、あった。
寒さに負けぬ、それこそ湯気を立てて疾走する、小柄の彼女。

――――――――――♪

そう、指揮者もなければ歌に合図などなく――――は始まる前から歌っていて、その全力を全開で右足にぶつけていた。
だから、彼女が7番ゲートには最早芝生が《《爆ぜた》》ような跡すら刻まれている。

「このっ、本当にキミは、《《つれない》》っ!」

そんなゾーンを超えた先を唄う少女に追いすがるは、セイウンスカイ。
逃げに優れた彼女がどんぴしゃのスタートにて出遅れるなんて本来あり得ない。しかし、ここに死力を尽くした少女の無理にてそれは成し遂げられた。
逃げを狙うセイウンスカイの予定帳は粉々になって、そのうえで。

「はな、される……もんかあっ!」

見向きもせずに、その背中から悲しい歌を聞くのがセイウンスカイにはあまりに哀しい。
だから、無理をして無理をして、それでも届かず距離を維持するのが精一杯。
こんなの、先の菊の時とは比べ物にならない程の、無茶だ。だが、そんなことだって止めてたまるものかと、空の少女は囚われる。

逃さない。いや、私から逃げないで。

駆ける指先は不格好にも心に合わせて揺れ動く。前に世界レコードを出した速度で駆けても、しかし届かない今をどう捉えればいいかすら不明だが。
走り走り、逃げることなくただひたすらに全力を全力で追いかけて。

「ははっ、私が、《《かかっちゃった》》よ」

途中鉛のように重くなり動きを鈍くしだした足に、セイウンスカイはそう己を嘲るのだった。

 

そして、闘争心を刺激されるような最速のスタートの比べ合いを見せつけながら、しかし多くは冷静だった。

「ふん。付き合ってられるか」
「あれは、無理ですね~」
「走りたいって気持ちは分かるけど、さ」

とんでもないスピードと付き合わず真っ先に自分のペースに戻したのはエアグルーヴにメジロブライト、ステイゴールド。
駆け抜ける二人と、引きずられた少数。そして女帝に合わせた大多数。序盤はそんな長く列が伸びる展開となった。

「アタシも、落ち着かないと……」
「もうダメですぅ~……」

そして、再び気を取り戻したメジロドーベルに、単純に疲れが出てきたマチカネフクキタルがペースを合わせに一団に合流するようになったその時。

「ああっ、もうっ! 世話が焼けるわねっ!」

そんな先達たちの冷静さと反するように、焦燥にかられたキングヘイローが抜け出したのだった。

「っ、はぁっ」

走りたいというのはウマ娘の、いいや走るのを得意とする多くの者の持ちうる気持ち。
それこそが多くのものを競わせる原因となっているのかもしれないが、しかし私は少し事情が違ったかもしれないと今更にキングヘイローは思った。
それこそ私が楽しそうに走るのを私より喜んでくれた母。彼女のためにずっと走りたくなってしまった私はきっとそこから間違っていたのだ。そう、ここに至って彼女は認める。

「あなた、達……っ」

キングは成りたいから成るものではなく、どうしようもなく成ってしまうものだというのは、負けてから知った。
だから、走っても喜んでくれなくなった母に向いてほしいからと同じところに至らなくてはならないと思いこんでいた自分が、その時から内心恥ずかしくなって。

『もう、私のための貴女じゃない。貴女のための私になりたい』

でも、そんな王冠かぶったピエロみたいな勝ちきれない私に、彼女はなんていうことを口にしてくれた。
そして、それが今のキングヘイローというウマ娘の骨子となっていることを、あの子はどうして知らない。

そう、私はキング。キングヘイローというウマ娘。母のための私ではなく、母の自慢できる私になることこそが本当だ。
そして何よりそんな当たり前を知らず教えてくれた少女の命をかけてすらいるような独走に、未だ全盛でも適正距離を駆けているわけでもない今彼女が出来る唯一のことは。

「っ、ああ……」
「スカイさんっ」
「……キング?」

当たり前のように――――の死力から振り落とされる、セイウンスカイのその丸まった背中を。

「諦めないで、もう一度行きなさいっ!」
「っ」

あの子を一人になんてするなと|押して《引っ叩いて》あげることくらいだった。

「……分かったっ!」

途端、息を吹き返したように勢いを取り戻す少女の背中。
遠ざかるそれから満足な言葉聞いたキングヘイローは、しかし無理をした代償を少なからず払うこととなる。
一群に直ぐに飲み込まれ、もうこれで最後に発揮できる末脚は残ってもいない。此度の有マでも彼女が土に濡れるのは間違いなくなり。

「ふふ」

ああ、でもキングヘイローは、これまでのレースではじめてとても楽しそうに走るのを楽しんでいるようだった。

――――――――――♪っ

果たして五線譜上をノイズばかりが走ることなど許されることではない。
だが、彼女は一人駆けていた。

「ああ……」

あり得ざる、あり得てはいけない弱小こそが一等速く、誰にも影さえ踏ませることもない。
それがトゥインクル・シリーズで活躍している全世代のウマ娘が駆けるG1で起きていることなんて、最早不思議を通り越して空いた口が塞がらないとはこのことか。
しかし、ただ一人こうなることを予期していて、でも枷にだけはなりたくないと一切こうなることを止めることすらなかった――――のトレーナーは。

「やっぱり――――が一番だっ」

涙を飲み込み、勝利など願わずただそれだけを理解してから、駆け出す。それこそ、きっと走り終えたらどうなってしまっているかも分からない彼女を万全の体制で保護するために、終止線へと急ぐのだった。

 

有マ記念は2500メートルをウマ娘がその二つ足にて競い合いながら全力をもって走り切る、非常に過酷なレース。
どう考えても、そんなもの本来|モブ《群衆》でしかない――――なんかが走るものでもそもそも出られるものでもなかった。

――、――っ、――♪

それこそ、悲鳴を昇華して歌と化し、それを約束事として己の命を燃してまで足を動かすなんてそんな荒業を用いたところで歌は中々完成せずに。

「――っ。もう負け、ないよっ!」

もつれずともほぼ意味を亡くしたブリキの足で今を生きるウマ娘に追いつかれない道理なんてない。
また――――が背中に感じる重圧は、またただ一人のものではなさそうだった。

―――――っ

こうまでして、追いつかれる。それは格の違い、存在の意味の差としてどうしようもないことなのだけれども。

『私はまだ、走れるのだから』

でも走りきれなかった、もう名前もわからない姿も忘れたあの子の名残がまだ幽かにでも私に残っているのならば。

―√ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄♫っ

それもすべて懸けて、最後まで走りたかったあなたの続きを今、私は走ろう。

 

「何っ……!?」
「ほわぁ?」
「嘘っ!」
「うう~……」

それは彼女らが捉える寸前、落ちきった曲のスピードに追いついたところで、差し込まれたのはとんでもないアレグロ。
またあの踏み込みが起きるとは誰が思ったことだろう。爆破したように無惨な地面を避けるウマ娘たち。マチカネフクキタルなどは運悪く跳ね上がった土に芝を全身に浴びることになる。

「こんなの、無理っ……!」

勝ち気のメジロドーベルが思わず放ってしまったそんな言葉は、その場の殆ど全ての気持ちの代弁。
まさかこれから差そうとした相手がむしろこのレースにトドメを刺さんとする速度で逃げ去っていくとは。
今は最終直線。掴むはずだった勝利が、あり得ない速度で駆け抜けていく。

中山の最終直線は短くも、険しい。それを一段ギアを上げてそれこそ、飛ぶように。

 

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

響く高音。それが終わりまで響くのは、もうどうしようもない。

「そんなわけ、ないでしょうっ!」

しかしそんな己の弱気を断ち切って、ここまで待ってきた彼女も今ゾーンを超える。

グラスワンダーは、走る。疾走り、奔った。

あまりの速度に周囲の全ては線となって、目標物ばかりが眩い。
ああ、その揺れる尻尾をずっと見ていたいけれど、でも大好きな、心より求めた彼女がこっちを向いてくれないのは辛いから。

「――――っ、私が勝ちます!」

そして、グラスワンダーは彼女の発する音をも超えて、並んで抜き去ろうとしたのだけれども。

「──……ごめんね」
「え?」

瞳から消える炎。彼女の丸くなっていた耳すら焼失するかのように空に解けて。先まで見えていた尻尾もいつの間にかどこかに。

「――私達は、勝ったよ」

もう一小節たりとて彼のための鎮魂歌をすら歌えなくなった《《ただの少女》》は、でも残りの一歩をその場の誰よりも力強く踏んだのだった。

 

油断と動揺によってその勝敗は、明白。しかしこのレースの判定には随分と時間がかかった。

 

「ああ」

勝利に湧かないレース場。どよめきばかりを誘うその背中には、ウマ娘にあって当然なものが何一つない。
その理由のヒントを、彼女の母から聞いていたグラスワンダーばかりが察する。

『……ひょっとしたら私がただの人でしかなく、ウマ娘じゃなかったせい……』

ああ、なるほどそもそもこの子は実際人と人の間から生まれた特異なウマ娘だった。
そして、そんな彼女をウマ娘とさせてくれたものを彼女はそれに報いるために今使い果たしてしまったようで、もうこの子は。

「ウマ娘では、なくなってしまったのですね」
「ん」

そうシンデレラの魔法は12時までしか保たなければ、この子は今に全てを使い果たしたのだろう。最早目の前の人間の子はノイズの少女ですらない、ただのモブ。
しかし、そんな彼女に惚れて私達が負かされたのは間違いなくて、とても悔しいけれども。

もう、ウマ娘ではなく幽かにあったはずの名前すら今と過去の記録から《《空白と打ち消し線でしか表されなくなる》》彼女はだったら今、何なのか。
誰もが気になるその答えをこれまで誰より近かったグラスワンダーというウマ娘は改めて、こう尋ねるのだった。

「あなたの名前、教えてくれますか?」
「そうだね。私は……」

その少女の名前は、はじめてウイニングライブの中心で踊った人間のものとして、広く知れ渡ることとなる。

 

最初で最後に彼女が走った有マ記念。
その暮れの曇り空に陰る三女神の像は、しかしどこか嬉しそうでもあったかもしれない。


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