第二十四話

霧雨魔梨沙の幻想郷表紙絵 霧雨魔梨沙の幻想郷

鬼退治を終え、スキマから出てきた魔梨沙にかけられたのは、沢山の叱咤とおまけばかりの回復魔法だった。
特に霊夢からの文句は止まらない。それは、最初はダメな部分を挙げていた魅魔も、取り成すよう動かなければならないくらいのものだった。
さあ、そろそろ本腰を入れて回復させないと倒れるわよ、と魅魔が口にするまで霊夢は渋面をして口撃を続けている。
そんなこんなは心配の裏返しであることは魔梨沙もよく分っていて、だからふらつく体を落ち着かせながらその話を黙って聞いていた。
しかし、苦手な回復魔法をかけながら、一方的な言葉を聞いていたアリスは別の感想をもったようである。

「霊夢は、何も出来ないというのに、口ばっかり五月蠅いわね。魔法に集中出来ないでしょう」
「アリス……それは違うわ。何も出来なかったから、せめてこうして後で口を出しているのよ」
「魔梨沙だって分かっているだろうことを何度も何度も。貴女の言葉はためになっていないわ」
「何度言っても似たようなことをする、分からず屋相手だから、こんな面倒なことしなければならないんじゃない。次に私の知らないところで何かあったら、困るのよ」
「……それは、確かにそうね。魔梨沙、こんな無茶はもう止めなさいよ」
「わあ、アリスまで参加して私を責めるわー。魅魔様助けてー」
「はぁ。知らないわね。普段の自業自得よ」

処置を受けている魔梨沙は動けず、助けを求めるが、にべもなく魅魔は魔梨沙を斬り捨てた。魔梨沙を鬼退治に向かわせた張本人である魅魔は、そんな火種を持った自分に飛び火してくるのを嫌ったのだ。
そんなあ、という声に背を向けて、魅魔は緑色の長髪をたなびかせながら、近くにあるもう一つの騒がしさの中心へと歩んでいく。
そこには、大きな二本の角を持った傷だらけの少女、萃香がレミリアと腕相撲をしている様子が見て取れた。ただ、鬼は片手を中央から動かさずに余裕な顔をし、吸血鬼はそれを両手で引っ張り必死に顔を赤くしているという点が特異であったが。

「ほーら、もっと力を篭めなよ。吸血【鬼】なんだろう? 少しは力を見せておくれよ」
「うーっ!」
「力尽きた私に合わせて妖力も魔力も使ってこない辺り公平だけれど、これくらいじゃ負けてあげられないね。……よっと」
「……くっ、悔しいけれど地力では歯がたたないみたいね。次は弾幕ごっこで勝負したいけど……今は無理かしら?」
「望むところだと言いたいけれど、もう妖力はスッカラカンさ。他には……そうだね、呑むのは自信があるかな」
「そう。なら、どっちが多くお酒を呑めるか勝負よ!」

スカーレットデビルの所以たる少食さ程ではないが、レミリアはそれほど酒を呑めるタイプではない。しかし、力で自分に比肩するものが現れたその喜びから、彼女はそんなことを忘れて勝負を受ける。
そんな二人の周囲には人集りが出来ていて、レミリアの方にはパチュリーに美鈴が、萃香の方には幽々子に紫に妖夢が寄っていた。一度、紫と目を合わしてから、魅魔は迷わず紅魔館メンバーの方へとふわふわ向かう。

「貴方達の主は随分と嬉しそうね」
「そうね。レミィったら好敵手が出来たとはしゃいじゃって。まあ、私達じゃあ力比べなんて夢のまた夢だし、姉妹で喧嘩の一つも出来ない質だから……確かに、真っ向に競える相手は希少なのよね」
「萃香の方も楽しそうだわ。元々、ああいう子供のような、と言ったら失礼かしら、まあ向こう見ずな性格を好む鬼だからねえ。確か、パチュリー・ノーレッジといったかしら。貴女はそういう相手はどう思うかい?」
「害がないのなら好きな方ね。私は探究心を大事にする昔ながらの魔女だけれど出不精だから、牽引力のあるような相手は良い刺激になっていいわ」
「そう。なら、暴走してばかりの私の弟子は友人としてはどうだい?」
「心配させられるのも、悪くはない、と言っておきましょうか」

それぞれ、パチュリーは紫、魅魔は緑の長髪を風でたなびかせながら、二人は会話をする。視線の先には、巨大な盃で日本酒を三杯あおって赤くなった吸血鬼の顔があった。
目を回しているその間抜けさに、パチュリーは忍び笑いを漏らしながら、頭の隅で魅魔がこうして話しかけてきた理由を推察する。
口にした通りに、愛弟子の友人関係を探りにきたのなら分かり易いが、それだけでもないとは初対面のパチュリーにだって理解できた。
一見しただけで胡散臭いと思える八雲紫ほどではないが、計り知れないところがあるこの亡霊が知り合いの居ないこちら側に来たという意味は何か、考え再び探りを入れる。

「それで、魅魔。貴女は今日のことをどれだけ予期していたのかしら?」
「全部、と言いたいところだけれど、大体だね。もうちょっと魔梨沙は苦戦すると思っていたし、もう少し萃香は無様な負け方をすると考えていたわよ」

まさかああまで綺麗な弾幕を打ち上げてから散るなんて思わなかった、と続ける魅魔の顔には喜色が表れていて、どうしてだかパチュリーの視線はその口元の三日月に吸い寄せられていた。

「……それでも、今日この日に異変は解決を迎えると、貴女は予想していたわけですか?」

それは、隣に控えていた美鈴が話を続けてくれるまでずっと、である。はっとしてから一度魅了の魔法をかけられたのではないかとまで思ったが、そうではないとパチュリーは頭を振って疑問符を捨てた。
これはただ、魅魔の笑顔が度を越して魅力的であるだけなのだと、そんな驚くべき事実を認めて、パチュリーは二人の会話に聞き入る。

「まあね。それと、確かあんたは紅美鈴といったかい? 同じ魔梨沙の師匠同士、敬語は要らないわよ」
「……そうね、分かったわ。返事ついでに、もう一つ質問。魅魔、どうして貴女は魔梨沙を異変解決の駒へと選んだの? 霊夢でも格闘を禁止してスペルカードルールを順守させれば、それなりに戦えたでしょうに」
「それは私も気になったわね。まあ、いくら異変解決が本業の霊夢にだって、危険な橋を渡らせる理由もないだろうけど……代わりの魔梨沙には格闘有りという人間に不利になり過ぎるルールのまま鬼と戦わせた、その理由が不明だわ」
「ふふっ、それは単純な理由よ。私がやらせたかったのは、弾幕ごっこでも異変解決でもなく、鬼退治。形式は異なろうとも同等のことを成せるのは魔梨沙以外に【まだ】居なかった。それだけのことよ」
「なるほど……貴女は、鬼の居場所がここにあることを示したかったのね」
「ま、神棚から目を細めて眺めてみたら萃香がつまらなそうにしていたからね。旧知の仲だ。なんとかしてやろうと場を整えてあげたのよ」

パチュリーの言葉に、魅魔は頷き答える。そう、彼女は萃香のために、愛弟子を危険に晒したのだ。もっとも、そこには強い信頼があったのだが。

古くから人攫いと鬼退治によって、人と鬼の関係は成り立っていた。大概の鬼が人間から生まれたもの。だから、それが悪さであろうと人と関わろうとするのは当然だった。
しかし、人間は鬼退治を真っ向から行うことなく卑劣に曲げて、応えるようになる。構ってもらいたくとも、返って来るのが卑怯なものであれば彼らもつまらなく、地の底へと棲家を変えていく。
そして、恨みなどの理由で殺伐としたものになっても、親の注意を引きたくて悪戯する子のように人との関わりを大事にしていた、鬼達は消えた。しかし、今更になってどうしてだか地底世界からやって来た、酔狂な鬼が一匹。
その鬼は、平和になりきった幻想郷に飽いていたが、それでも彼女なりに人妖を萃めて楽しんで。だが、そんな一人遊びは、傍から見れば寂しそうなものであり。
故に、魅魔は古来と似たような遊びを出来る人間を見繕って、用意してあげたのだった。

まあ、そんなこんな全部を口にするのは恥ずかしい。微笑ましいものを見るようなパチュリーと美鈴の視線を受け流しながら、魅魔もそろそろ辺りに充満してきた酒の匂いが気になってきた。

「……そろそろ素面じゃつまらなくなってきたね。宴会場に移動してから頂こうか。ほら、あんたたちも一緒にどうだい?」

握って開かれた、その掌からは、まるで手品のようにグラスにコップが現れる。種も仕掛けもある、しかしそれは魔法によるものだ。
もっとも、見事すぎて、パチュリーにですらどこからそれが出てきたのか判ぜなかったが。

「そうね、じゃああそこに転がっている私達の主を回収してから向かいましょうか」
「転がっている? ……わあ、お嬢様、大丈夫ですか!」
「はぁ……向こう見ず過ぎるのも考えものだわ」
「ふふっ、やっぱりこっちも面白いね」

酒を瓶からラッパ飲みしている萃香の隣で、顔を真赤にして倒れ伏しているレミリアを見た美鈴は、いつの間にかその隣に居て介抱を始めようとしている咲夜も忘れ、顔色を変えてその身の下へと急ぐ。
パチュリーはため息を吐くが、魅魔は反して笑っている。惨状に目をやったために、亡霊の魔女がそんな姿と零した言葉を、紫色の魔女は見逃してしまう。
だから結局、魅魔が紅魔館のメンバーに寄ってきた理由、それが偶には違う面子で酒を飲みたいというものだったとは、パチュリーには分からなかった。

 

 

青々とした、しかし今は満月に照らされた部分以外黒々と闇に紛れた葉を茂らせた木々に囲まれ、御座の上に座しているのは魑魅魍魎。それに紛れて人間が三人と半分だけ。
その半分こそ、酒宴の最中を頼まれる通り酒を配りながらびゅんびゅんと動きまわっているが、大方は、落ち着いて酒の味を楽しんでいた。

隠された目的は霧のような妖怪をおびき寄せることであったが、今日の酒盛りの本来の目的は、酒の呑み比べ。上等なものばかりを集めた酒類はてんでバラバラであるが、しかしその飲みやすさ、味わい、喉越し共に折り紙つきのもの。
萃香が伊吹瓢から出したものは度が高すぎて呑めないものもチラホラ出たが、それでも一人増えて会話に花が咲き、つまみも美味とあれば、皆酒が進むことこの上なく。
そんな中で、真っ先に魔梨沙が酔っぱらい気を失ってしまったのは、当然のことだったのかもしれない。

「うー……」
「あーあー。鬼の膝で寝るなんて、豪胆なものだねえ」

だが、寄りかかって、倒れこんだ先が酒呑童子であることなんて、そうそうあることではないだろう。実際、酒浸りになって、魔梨沙が作った出汁巻き玉子を摘んでいた萃香は、そんな無防備すぎる人間に驚き戸惑った。
そんな困った様子の萃香に近寄り声をかけるのは紫。彼女は、随分と酒を楽しんだ筈なのに、酔いなんてスキマに捨ててしまったのかと思ってしまうほど平然としていた。

「豪胆というよりも暢気。それが許されるのが、今の幻想郷よ」
「なるほどね。しかしさ、コレも受け入れるっていうのは……残酷でもあるねえ」

萃香がそう言って、膝の魔梨沙を撫でる手はぎこちない。それは、目の前の代物が複雑すぎて触れたら壊れそうであると、思ってしまったからだ。
鬼に勝つ、それは英雄といっていいだろう。実際に、魔梨沙の力は人間の枠を超えて強い。しかしその実体は非常に危ういものがある。
力に焦がれる、それくらいよくあることだ。しかし、トラウマによって力が弱い自分を許せないがために、狂的なまでにそれを求めてしまうのは健全ではないだろう。
人を超えているどころか力の天井が見えないくらいの強者が集まった幻想郷で、常に劣等感を刺激され続けている魔梨沙は、実際に何時潰れてしまってもおかしくない心理状態にある。
いや、潰れるどころか壊れて鬼に成ってもおかしくないくらいの現状、魔梨沙を支えているのはか細い自縛だけ。しかし、それでも彼女は非常に人間的である。

「馬鹿正直で、仲間思い。私も好ましい人間だと思うさ。だが、危なっかしいよ。このまま受け入れ続けて下手をしたら、そんな美点も捨て去るくらいに壊れて、幻想郷に害をなす程の大妖になりかねない」
「それでも、今は歪で強力なだけの、人間。そんなもの一つ受け入れられないほど、この郷は狭量ではない。しかしもし仇なすほどに変わってしまったら……いや、そんなことはあり得ないわね」
「どうしてだい?」
「魅魔、それに今は貴女、萃香まで霧雨魔梨沙に注目している。状態が悪くなるのを見逃すほど、貴女達の目は鈍くはないでしょう?」
「そうだねえ……」

朱塗りの箸にてパクリと、咲夜作のジャーマンポテトを口にしながら、萃香は思う。果たして、自分はこの奇妙な人間から目を離すことが出来るのだろうかと。
横でどちらの持ってきた酒が美味いか喧嘩している巫女と人形遣いの姿を目に入れてから、膝元の赤い髪の毛を左の手で撫で付けてみたら、答えは、簡単に出た。

「ま、こいつが死ぬか妖怪化するまで、近くで様子を見るのも悪くはないか」

面白そうだし、と付け加えながら口を歪ませた萃香の笑顔の質は、しかし普段のものとは違っている。それを見た紫は親心でもついたのかしら、と思う。
だが、普段を知らないその他にとっては、一生分傍にいる、という意味の爆弾発言の方が衝撃的だった。
盃を傾けながら黙って聞いていた魅魔は意味深に笑うだけだったが、偶々その言葉を耳に入れた霊夢にアリス、そして酔っぱらいながらも気に入った萃香をどう紅魔館に迎え入れようか考えていたレミリアは、大慌てである。

「何、あんた魔梨沙の後をついてまわる気なの?」
「そうだねえ。あんたのことも気になっているんだけどさ……ああ、そういやあんたら仲がいいし、二人一遍に見ることも出来るか。尚更、良さそうだ」
「貴女が魔梨沙に傷をつけたこと、私は忘れていないわよ」
「まあ、痕にも残らないだろうけど、その責任くらい取ってやるさ。危なっかしいこいつを、一度二度守ってやればそれはいいだろう?」
「……ねえ、貴女は私の館に来る気はないのかしら?」
「それも悪くはないが、まあ、ちょっと待っていなよ。妖怪同士、時間は有り余っているんだ。これからも酒宴はあるだろうし、一度も顔を合わせないなんてこともない。百年程度は直ぐさ」

そして、次々にかけられる声に応じて、萃香は三人を諭していく。そうしながら、萃香は驚くほど本気である自分に気づいた。軽々と口にしたが、千年以上生きようとも、百年は決して短いものではない。
しかし、鬼でなくとも自分に嘘をつくのは難しいもの。今回の件で今の幻想郷に受け入れられ受け入れることが出来た萃香は、内心随分と救われている。だから、次は自分がお節介を焼いてもいいのではないかと、彼女はそう思う。
そうでなくとも、魔梨沙は繰り返される宴会の際にわざわざ幹事に指名し続けたお気に入り。鬼退治した人間が、宝の代わりに鬼を持って帰るというのも面白いのではと、ほろ酔い気分の萃香は考えたりもした。

「ま、隠れて見ていても能力でバレてしまうし、結局はこいつの了承次第だけどさ」
「うーん……あたしはこいつじゃないわー」
「そうだね、魔梨沙。よろしく頼むよ」
「ふわぁ、仲良くしましょうねー」
「……ふふっ、このこのー」
「うー、突っつかないでー」

膝の上で身動ぎしてうわ言を漏らす魔梨沙の頬を、萃香は笑顔を深めて人差し指で優しく突き回す。
ただの寝言で了承を取るほど、萃香は狡くも切羽詰まってもいない。けれども、半ば無意識ながらも受け入れてくれる、そんな言葉が嬉しかった。
だから照れ隠しに、少しだけ触れて離れて、を魔梨沙がふてくされて無視しだすまで続けていく。

「私も目をつけられているのね……なんだか、面倒なことになってきたわ」
「魔梨沙に手を出したら承知しないんだから……」
「百年は長いわね……でもまあ、気が変わったら、何時でもいらっしゃい」

人と鬼によるものとは思えないそんな微笑ましい光景を見ながら、二者のどちらかに執心している三人は向けた方すらてんでバラバラな言葉を発した。
既に頬を緩ませている萃香にはそんな様もおかしくて、鬼はケラケラと笑う。

「あはは、久々だねえ。こんな気分は」

星空を見て、明日が楽しみだと、萃香は思った。それは、手の届きそうなくらいの近くに、僅かな喜びが見えているからだろう。
地の底に居た鬼には、星の光くらいの希望の方が眩しくなくていいのかもしれないと、萃香は考える。でも、星を落とさなくてよかったと、口には出さなかった。

 

 

博麗神社が喧騒と酒の匂いに包まれていた頃、迷いの竹林と呼ばれている地の奥深く、そこの住人は永遠亭と呼んでいる古風でありながら新築にも見える建物の中にて空を見上げるものが一人。
彼女は銀糸のような髪を三つ編みにして赤と青の二色のツートンカラーが目を引く衣服に身を包んだ、知的な目をした美人である。
そんな八意永琳という名の月人であり蓬莱人でもある女性が空に望んでいたのは月であった。そう、萃香によって砕かれた天蓋の満月が、元通りに戻るまでの全てを、永琳は観察していたのである。

「誰がやったかわからないけれども、天は砕かれた。しかしそれが大きな影響を与えることなく、静かに戻っていく。外の世界の科学力が砕月を観測できないほど劣っているとも思えないのに」

胸元で腕を組んだ永琳が独りごちているのは、賢者である彼女以外でも考えつくだろう疑問。その答えを、既に永琳は持っている。

「やはり、幻想郷の地は、高度な結界に囲まれているようね。確りとした、月の民の手が届かないかもしれないくらいのもので」

当然というべきか、いつの間にか迷いの竹林が含まれていた幻想郷自体が結界で囲まれているということには住人である永琳は気づいていた。
それが論理的な結界であり、幻想郷と外の世界とを明確に分けているということは今回の件で確認出来たのだが、しかしそれだけで月の民、そして使者の目を欺けるかどうかは微妙なところ。
そう、永琳は月人ではあるが、月の民を裏切ったまま地上に住むお尋ね者でもあった。

「まあ、殆ど大丈夫であっても万が一なんてあってはいけない。戦争が起るというのは眉唾ものだけれど……やはり計画は実行しましょうか」

玉兎、月の兎には、月と地球ほど離れても波動により通信することが出来る特殊能力がある。
永琳は、以前月面で敵前逃亡し幻想郷まで逃げてきたため保護した月の兎から、その能力により月の情勢が不穏であるという情報を手に入れ、それからその兎、鈴仙・優曇華院・イナバが徴兵されることを予測していた。
鈴仙を強制的に引取りに月の使者が来ることは、主であるかぐや姫こと蓬莱山輝夜がそれらを殺してまで地上を選んだ過去から認められないと、そう決めたがために永琳は対処法を考えている。
勿論、一玉兎のためだけではなく、指名手配されている自分たちが月の使者に芋づる式に露見することも恐れて、行われるのは大規模な計画だ。
今までの追手の程度と能力から、自身に縁深い綿月の者が月の使者の長に就いていると予想できるために、見つかっても居を移す程の問題にならないと半ば確信していながらも、それはあくまで希望的観測と永琳は認めない。
そのために取る手段は非常に大掛かりなものであり、大変面倒なものであるが、その行動から生じるだろう利益も悪くはないもの。

そう、本来の満月を隠し、不完全な満月を浮かべる計画は、砕月を参考にしながらも、変更なく行われることだろう。
用意を考えると秋ごろになるかしら、と零しながら永琳は何時もと同じく公平に光を振りまく満月に飽き、閉めたはずの障子扉へと振り返る。
だが、開かれたそこには長い黒髪の麗しき美姫の姿があった。物音も気配もなく現れたその姿に、しかし驚くことなく永琳はその絶世の美女に向って声を掛ける。

「なにかしら、輝夜」
「決行に問題はないかどうか、永琳にちゃんと聞いておかないと、と思って」
「それなら、予定通りに行うつもりだけれど」

女性は主、蓬莱山輝夜だった。しかし、誰の目のないこの場にあって、二人は主従関係であると思えないほどに気安い。それもその筈、永琳にとって輝夜は元教え子。普段から必要以上に謙譲も尊敬もすることはないのだ。
そうやって会話する内に、喜ばしいことを聞けたためか、輝夜は美しい顔を綻ばせ、童女のように笑顔を作り始める。そして、笑い声をたてないままに、彼女は言葉を紡いだ。

「成功すれば、私達に月の民の手が届くことは無くなる。失敗したとしても、後々人に紛れ易くなるよう、幻想郷の支配者たる妖怪達に絞って力を示せて、結界の程度を知るために管理者との接触することを望める。永琳らしい狡猾な作戦だわ」

永琳の脳裏には、もっと簡単な手段も列挙されているが、しかしその中でもここ幻想郷の流儀に合わせるのであれば、なるべく大げさな方がいいだろうと思われた。
それこそ存亡に関わるほどの影響を与えれば、管理者も重い腰を上げるに違いない。ノックの音は大きいほうがいいだろう。交渉事で優位に立つために、相手を驚かせて平常を失わせることは常道だ。

「でも、異変とはいえなにか起こすというのは楽しみね。わくわくするわ。ずっと、いや少しだけ、暇をしていたから」

永遠を生きる輝夜にとって、万年も一秒も大差ないが、それでも退屈の程度は随分と変わってくる。
平和な日々だって、彼女は嫌いではない。だが、度々永遠の腐れ縁と行っているような、争い事だって好きなのだ。

「そうね。幻想郷中に、私達の力を知らしめて――――そして認めてもらうわ」

そして、全てを予知しているかのように、永琳はそう結ぶ。月の賢者と呼ばれた彼女の想像を逸することなんてそうそうないことだろう。
だから、全知のごとく振る舞っても、問題が起きることは殆ど無い。

ただ、月人八意永琳は、地上人霧雨魔梨沙のことを知らなかった。それが唯一の誤算となるのである。


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