私は生じる前から存在していた観測点だ。
意識というものなんて細胞分裂の最初以前からどこかに存在していて、それこそ妖怪変化すら『ゴミ捨て場』で看取った経験があるくらいだから数百年は昔から私というものはあったのかもしれない。
正体とは観測に所以する、というシュレディンガーの猫の例え。
だが空想猫の生死に頼らずとも、そもそも私の視線が思索が物語を作り上げてこれまでホラーを確定させてきていたような気はしていた。
語り手がなければ、物語は広がり得ない。そして、それ以前に語らなければ永遠にお話は確定しないのだった。
或いは、もしかしたら、きっと。
私さえそっぽを向いていれば、捨てられたどうでもよいとされた彼彼女らが幸せだった可能性だって夢見れたのに。
本当は、私は悲劇を想わなければ良かったのかもしれない。
でも、そんなことは出来ない私はあくまで、望む存在だった。
ああ、どんな悲鳴に嘆きだって、私には大切な彼らの遺した命の証なのだから。
「忘れられないよ」
あと一つ以外の赤に、胸元に遺った何もかもを抱きしめながら私はそう零した。
生きるということは、きっとあまりに難儀なことである。
心臓の不随意筋が動作を諦めでもしたら、その時点で死に至るのは当たり前。
また、幾らどんなに全身が生きるために頑張っても、心に障りが出てしまえば命の根っこまで腐ってしまうことだってあった。
人は精神と肉体の生き物であり、その決して交わらぬ二つを汚さぬよう持ったまま、己が満足を目指して存在を続ける。
なるほどそれはいっそ、途方もない挑戦だ。それはもう、休むことも諦めることもあったっていいだろう。
それくらいに、生きることは尊い。最低でも、生きはじめたばかりの元精神体は思うのだった。
「そう考えると、やはり老いるのは自然」
私は、だから老人ホームという場所にて好奇の視線を浴びながら彼らよりは確り歩めていることにすら気後れさせながら、進んだ。
皮膜に皺深く、筋失った身体は猿のごとくに丸まっていて、しかし死を目前にしながらも彼らは快活に介護士を困らす。
まこと、敬意を払うべき生き汚さ。愛おしき命の末端にて、鬱々としている者はそうない。
「無論。辛さはあって鬱ぐのも私に見せないだけなのかもしれないけれど、だからこそ強い」
私は、禿頭のかさぶたをかくことを癖にしたお爺さんの挨拶に会釈しながら、そうぽつり。
赤に塗れぬ彼らの死を私は瞳の裏に確かに映しながらも、しかしやはりそっぽを向いてそれをなかったことにはしないのだった。
私は愛を返報したく、それに対象は気になることはない。無論、下手に無償を悪に教えれば、あまり上手く私を使ってもらえないだろうことは明白。
ならば形式ばってと、ボランティア活動をしたいと、私は言った。
稚さに親には本気にされなかったから、それこそ誰もかもにも、道端のオンブバッタにも伝えたことがある。
なら、私達のお婆さんが居る施設は近いしどうか、と言ってくれたのは足立みらいの母だった。
「お婆ちゃん」
「おや……天音ちゃん、来たんだね」
きゅ、と声に彼女が動かした車椅子のゴムが床と擦れ合い高い音を立てる。
私の目的は、日向にて本を捲るのが好きなのだという、旧い人。
少し人嫌いのあるちょっと淋しい人なの、と私はこの人のことを肉親から聞いていた。
曰く、家族以外には中々心開かず、気に食わなければ看護の人にも食って掛かる苛烈さがある。
そしてとても厳しいお婆ちゃんだったけれど、でも旦那たるお爺さんを亡くしてこの方気落ちしがちで心配なのだとも言って。
天音ちゃんは賢いから言うけどという枕詞に、何より愛しているからどうかしてあげたくて、と彼女の孫はそう私に本音を伝えてくれた。
私はしかし何時しか来訪を笑顔で認めてくれるようになった彼女の名前を、改めて呼ぶ。
「ええ。私は天音。|華子《かこ》お婆ちゃんのひ孫さんのお友達」
「つまり……私のお友達だねえ」
「そう、だね」
華子お婆ちゃんは、言って私ににこりとした。
それが少し辛いけれど、私にとってだってこの人が友達と認めてくれるのはとてもありがたいことだから、頷かざるを得ない。
冷えるからと横転により下肢が利かなくなってから季節問わずかけているらしいひざ掛けのズレに気づいた私は直す。
それに、ありがとうと柔らかな声がかかってくるから、たまらなかった。
私は後ろに回って努めて涙を飲み込んでから持ち手を取って、こう取う。
「華子お婆ちゃんは、今日散歩する?」
「そうだねえ……お婆ちゃんはここでも温かいけれど……天音ちゃんはそうしたいのかい?」
今日は晴れで、許可も降りていれば私がえっちらおっちら車椅子の後ろを押して園内の散歩をするに支障はない。
だがやはり、彼女は乗り気ではないようだ。
何時だって華子お婆ちゃんの視線は、疾うの昔に《《失った両足首から下》》を見つめている。
もう、今更気にするとはないよと車椅子のまま義足を着けないで生きるようになった彼女も、言に反するようにそれを忘れられない。
『ハナコっ!』
私が生じるずっと前に見た、惜別の記憶。
鮮烈なまでの赤は、忘れられない血の匂いは、全て彼女の足先から流れていた。
今は止めることも、何も出来なかったホラーの蛇足なのかもしれない。
しかし、それでも確かに彼女らの痛苦はあり、古錆びて記憶も殆ど失われていたところで、影は間違いなどなくここに落ちている。
ああ。私が知らない内によく『ゴミ捨て場』に落っこちていた少女は現し世に両足を失い戻ってからどう過ごしてきてこれまで生き続けたのか。
それを隣で聞く日々がボランティアならば、なるほどこの世にそれほど尊い時間はない。
私は、これまでの不幸からか他人に警戒を覚えてしまった末期の老人に向けて、しかし無理を言う。
良くも悪くもこの場で最も目立つ幼少の私に世話されることになる華子お婆ちゃんは目立つだろうから。
それで、良くも悪くも意識されてほしいな、と思うのは好きが故のことなのだろう。
「うん。そうした方が、お婆ちゃんをもっと周りの人が気にしてくれるようになると思うから」
「優しいね……こんな御婆にはこんなの、勿体ないよ」
「ううん。華子お婆ちゃんだから、するんだ。貴女がもっと愛されないなんて、あまりに勿体ないから」
私に人生経験は、殆どない。
だから苦楽を帯びて誤魔化しが上手くなった人たちには、正直をぶつけた方が効率的と知っていた。
でも、そうだからこそと、本音を誰が語るものか。
心が語りたくなるからこそ思いは言葉になる。それを信じるバカに無垢な私だった。
故に、想いの言葉に嘘はなく、だからこそ私というものは彼女のための慰めのちり紙にすらなり得る。
そっと震えることすら止めてしまった華子お婆ちゃんの冷たい節くれだった手のひらを握り、目を向ける。
すると他所を向いてから、彼女はこう返してくれた。
「もう……分かった、観念するよ。声かけられたら手を振って返せばいいんだろう?」
「うん。窮屈かもしれないけれど、でもそれが関わりで諦めちゃ駄目なものだと思うから」
「そっかい……耳に痛い言葉だねえ……食事時に話しかけられるのは面倒だなんて、思ってたけどねえ……」
「面倒で、ごめんね……でも、貴女が一人なのは私は嫌だよ」
「……そうかい」
別に私は万人が愛を受けて幸せになって欲しいなんて、思えたらいいのに、そうはなれなかった残念な生き物だ。
でも心にいただいた愛があるなら確かに誰かを幸せにしてあげたいに決まっている。
私は、視点と思考だけ有していた時の私が助けたくても助けられなかった人に、最後に小さくとも幸せをプレゼントしたかった。
しかし決心してくれた華子お婆ちゃんの、その表情が苦いのも当然だ。
きっとこれから私達はまたボケたお爺ちゃんに可愛いお孫さんだなんて言われちゃうに違いない。
はっきりしているお婆さんにだって、孫よりもひ孫よりも他所の子を可愛がっている、なんて言われて互いに微妙な表情を向け合うのだと思う。
でも、それだって《《華子ちゃん》》の幸せの元になるなら私は諦めないし、諦めたくない。
あの日『ゴミ捨て場』で兄を失い、そして友と足元の自由まで奪われて、でも生きることを選択したあなた。
そんなもの、忘れたくたって忘れられなくって、だからこうして出会えたのだ。
閉ざされた文庫本。力ない前進。
車輪はひたすらに、ゆっくり、廻る。
「さて。なら御婆が昔話でも、しましょうかねえ……」
「それは、どんな?」
そんな間隙の時間に、栞のように挟まれたのは酷く優しげでむしろ何かを諦めてしまったかのような、華子お婆ちゃんの声。
私は大丈夫か不安になったから横から彼女を覗き込んだ。
でも、老いて皺に埋もれても少し特別な容姿の華子ちゃんは、真っ直ぐ前を見たまま、こう続けたのである。
「ああ。それはね……私の最初の友達の……花子って名前の子のお話さ」
「っ」
思わず、息を呑む私。
それは、語られなった、語りたくもなかっただろう彼女だけの物語。
この子のために命を懸けた、人でなしの贖罪の話に違いなく、しかし『花子さん』なんて学校の七不思議主演のその半ば怪談は誰かの理解を遠ざける代物でもあるだろう。
故に、秘められるべきであった筈なのに、どうして私なんかに。
ただ、驚きに反して彼女の友達である私は、期待にこう問うのだった。
「……いいの?」
「勿論さ。私には……最後の友達の、天音ちゃんには聞いてほしくてね」
ああ、生きるのはとても難儀だ。
それなのに、私に会えるまでにこれまで生き続けてくれて、その上できっと分からない私以上に多くを察しているのだろう彼女は死を前に決して諦めるのを止めていなかった。
そんな在り来りかも知れない事実が、どれだけ私にとって。
「……ありがとう」
他所を向けば脳裏にちらつく貴女の死に姿を忘れさせてくれるくらいに尊い、輝きなのだと心を尽くして伝えたかった。
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